読書熊録

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余白を見つめてー読書感想「リスクと生きる、死者と生きる」(石戸諭)

 「被災者」ではなく「ひと」として向き合う。本書「リスクと生きる、死者と生きる」東日本大震災という大きなテーマを扱ったノンフィクションながら、徹底した「個」の言葉にこだわる。著者は元毎日新聞記者で、現在はネットメディアBuzzFeed Japanの記者、石戸諭さん。「被災者」や「被害者」といった「大きな主語」で現地の言葉を伝えることへの違和感から出発し、言葉の先にある「余白」の存在にたどり着くまでの、石戸さん自身の旅の物語にも感じられた。亜紀書房。

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リスクと生きる、死者と生きる

リスクと生きる、死者と生きる

 

「大きな主語」から離れて

 石戸さんの語りにぐっと引き込まれたのは、石戸さんにとっての震災が「言葉を失うこと」から始まったからだった。2011年3月21日、津波で甚大な被害を受けた岩手県宮古市や旧田老町に着いた石戸さんの心に、こんな思いが浮かんだ。

 描写する言葉が出てこなかった。何を書いていいのか、何を取材していいのか。この光景をどう伝えたらいいのか。さっぱりわからなくなってしまった。もう少し付け加えると、何を書いても言葉が上滑りしていくような気がしたのは、このときが初めてだった。どんな現実でも取材をして、調べれば記事を書ける、というのは思い込みでしかなかった。(p7)

 経験豊富だと自負していた記者が、言葉を失う。石戸さんはここで目をつぶらず、むしろ出発点とした。

 

 石戸さんの思考は、「大きな主語」というキーワードを見つける。たとえば新聞紙面で、原発のリスクを語る時。大きなテーマを議論する時、登場する人たちも「賛成派」と「反対派」に切り分けられる。そこに違和感を抱く。

 運動に限らず、「被災者」であれ「福島の人」であれ、大きすぎる主語が発したとされる声には、それを伝える側の主張が貼りついているように感じられてしまう。その声に科学的な合理性があったとしても、別の思惑でパッケージされていると思う限り、私はできるだけその声から距離を置いて考えたいと思った。(p20)

 報道が「代弁者」になろうとするとき、「個」の言葉を「大きすぎる主語」に変換してしまう。それによって、善悪二元論やゼロサムゲームが起こる。特に石戸さんが問題意識を持つリスク論で言えば、「安全か危険か」「リスクを受け入れるか拒絶するか」の二択になり、リスクをどう理解していくかのプロセスがないがしろにされてしまう。

 

 だから石戸さんは、「被災地」と呼ばれる場所にいる「被災者」と呼ばれる人の言葉を、「個人的な語り」として捉え直し、耳を傾けた。

言葉は「個人的」である

 石戸さんはだからこそ、インタビューした人の語りをなるべく「切り取らない」。ある程度のボリュームでそのまま伝えるか、あるいは地の文でそのままに描き出す。

 

 その「個人的」な言葉が、読者にとっては発見に満ちている。たとえば、福島県いわき市の農家、遠藤さん。震災後をこう振り返る。

 この頃、原発周辺で人が住める「最前線」になっていた末続には、科学者やNPO関係者が大量に押し寄せていた。この人たちに頼んでみるかとも考えたが、大半は頼りになりそうにないと彼の目には映っていた。

 本当は住めないはずの場所に住む「かわいそう」な住民、として接してくる人。調査するなら何度も足を運んでほしいのに、近くまできたことで満足する人。一度だけの”視察”で何がわかるのか。こっちは生活がかかっているんだと思い、話しても腹立たしさだけが残る。(p40)

 石戸さんが「大きすぎる主語」に抱いた不信感は、実は遠藤さんの抱いた「腹立たしさ」につながっていたことに驚く。「かわいそう」という目で見る人は、遠藤さんを予め「被災者」としてパッケージしている。「代弁者」になろうとする人は、人を「材料」のように扱っている側面が見える。

 

 あるいは、ひとときテレビや新聞で登場しきりだった「震災いじめ」という言葉も、石戸さんのインタビューからは複層的な現象に捉え直される。今度は、福島県から新潟県に避難した子どもたちのサポートに向かった教師、武田さんの語り。

 こんな事例がありました。福島から避難してきた中学生が、避難先の子供とケンカになった。ケンカなんて、転校したばかりの子供とはできませんからね。

 福島の子供が「お前なんて生きている価値ないわ」と言い、相手は「お前なんて、生まれてくるのが一五年遅かったら奇形児なんだ」と言い返す。

 要するに、原発事故が起きたら奇形児が増えるという、まったく根拠のない話をしているんです。言ったほうも悪い子じゃないんです。実際に「なんでこんなひどいことを言ってしまったんだろう」とショックとともに反省していました。

 潜在的なイメージで出てきた暴言だし、悪い子が言ったというのではないから、余計に根深いなぁと思ってしまうんです。(p86−87)

 もしも、このときケンカした子が言い返した「生まれてくるのが一五年遅かったら奇形児なんだ」という言葉だけが切り取られたら。見えないものがたくさんある。「震災いじめ」とカテゴライズする現象の深層には、子どもたちの「潜在的なイメージ」がある。それを作っているのは、紛れもなく我々、大人である。

余白

 石戸さんの旅は、まだ続く。このあと自分がもっとも胸を打たれたのは、ある「手紙」をめぐる石戸さんの気付きである。ただ、この詳細はぜひ本書を手にとって出会ってほしいと思う。

 

 それは、「余白」に関する発見である。その発見に直面した時の、石戸さんの語りを引用することは可能だと思う。

 手紙を読み、私は確かに「素のままの言葉」に触れたと思っていた。もしかしたら、それは勘違いだったのかもしれない。私が感じていたのは、書いてある言葉そのものではなく、一人の人の存在がはっきりとあらわれてくる行間であり余白、書ききれないものの大きさだったのではないか。(p156)

  心を動かしたものの正体は、「言葉」ではなく「余白」、「書ききれないものの大きさ」だったのではないか。これは記者として、なんとも苦悶する発見なんじゃないかと推察する。石戸さんの仕事は、言葉で何かを伝えること。しかし、「個人的な語り」の本質は「語りきれないもの」にあるんだとすれば、記者にできることとは何だろう?

 

 同時に、これは読者に向けられた問いかけでもあると感じた。震災に関する報道に接した時、あるいはそもそも、本書を読んでいる時。どれほど「語りきれないもの」に目を向けただろうか。「見えるもの」がこんなにも溢れた時代に、「見えないもの」を見る努力がどれだけできているだろうか。

 

 石戸さんの言葉をめぐる旅は、きっとまだ終わっていない。それは私たち読者にとっても、終わらせてはならない旅なんだろう。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

リスクと生きる、死者と生きる

リスクと生きる、死者と生きる

 

 

 何が真実かより、何が「真実らしく見えるか」が大事になっていないか?そんな現代への問いを小説にしたのが、ノア・ホーリーさんの「晩夏の墜落」です。「リスクと生きる、死者と生きる」と通底するテーマかと思います。

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 徹底した個人に向き合う姿勢で、「性犯罪」という偏見にまみれたテーマに切り込んだのが、ジャーナリストのジョン・クラカワーさんによる「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」です。石戸さんと同じような、優しさと深さのあるインタビューで構成されています。ちなみに本書も亜紀書房さん。

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