読書熊録

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デジタルネイチャーの未来地図ー読書感想「魔法の世紀」(落合陽一)

 「情熱大陸」出演で話題をさらった「現代の魔法使い」落合陽一さんが、テクノロジーやコンピュータ、メディアの現在・過去・未来を書き尽くしてくれた本が「魔法の世紀」である。リアルとバーチャルの境目がコンピュータによって踏み越えられた世界・デジタルネイチャー。その未来への歩み方を示してくれる「地図」と言ってもいい。文脈のゲーム/原理のゲーム、イシュードリブン、人間中心主義と象徴的機械からの脱却。学んだキーワードはきっと思考の座標となる。発行は株式会社PLANETS、第二次惑星開発委員会。

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魔法の世紀

魔法の世紀

 

 

文脈のゲーム/原理のゲーム

 「魔法の世紀」は読む人によって姿を変えそうだ。テクノロジー論ともいえるし、アート論でもあるかもしれない。あるいはコンテンツを作る上での教科書でもあるし、人によっては起業のエッセンスとして参考にできるかも。だから総論を語るよりも、印象に残ったキーワードをピックアップしていきたい。

 

 まずは「文脈のゲーム/原理のゲーム」

 

 「文脈」とは、枠組みとか評価軸と言い換えてもいい。たとえば絵画であれば、平面の上に絵の具などで表現するという枠組みで、「抽象的」とか「写実的」とか、他の作品や過去の名作との対比をし、その絵画の良し悪しを決める。枠組みが固定されているために、「文脈を裏付けできる者」としての「権威」が存在しやすい。

 有名美術館に収蔵されれば、その作品は「名作」になるだろう。裏を返せば、美術館次第でその作品が名作になるかどうかは変わってくる。落合さんはこのことを「鑑賞可能性」のコントロールだと言い換えて、「マスメディアを通じて共有される文脈に依存し、その操作の差異を競う世界規模の『文脈のゲーム』」(p82)と喝破する。

 

 一方、次第に大きくなる潮流として目線を向けるのが、これとは異なる「原理のゲーム」だ。メディアそのものが持つ感覚的な驚き、感動。なんの文脈も必要なしに心にぶつかってくるものが、「原理」だという。

 

 これはたとえば、「情熱大陸」でも登場した「Pixie Dust」。物体を空中に浮かし、高速で動かせる装置だ。まず浮遊現象そのものが驚きだけれど、従来平面で行なっていた表現が「3次元」で可能になるし、時間に応じて形を変える、という「時間」の要素を表現に取り込むこともできるそうだ。

 新たな「原理」を提示することで感動を起こす。「原理のゲーム」でポイントになるのは、もはやメディアとコンテンツが不可分になることだ。落合さんは語る。

 同時に、これはメディアアートの歴史の原初に立ち返ることでもあります。というのも、映画の初期にリュミエール兄弟が撮影した映像や、メディアアートの初期に生み出された作品は、コンテンポラリーアートの複雑な文脈のゲームとは無関係に、メディア表現そのものが生み出す感動や違和感を、直に突きつけてくる作品だったからです。この時代は、新しいメディア表現と新しいコンテンツが実質的に不可分な状態で提供されていました。(p87)

 メディアとコンテンツが不可分であることは、未来であると同時に、メディアアートの原初でもある。なんとも明快で刺激的な論考だ。

 

 文脈のゲームではなく原理のゲームがスタンダードになると、大切になってくるのは「権威」よりも「変化」への適応だと思う。この基本的発想は、自分のような会社員にも重要なコンパスになりそうだ。

イシュードリブンであれ

 「イシュードリブン」を説明するには、「コンテンツはプラットフォームを超えられない」という話から入らないといけない。

 

 これは単純な話で、どんなに革新的なコンテンツ(ブログでも、エッセイでも、動画でもなんでも)を生み出しても、それはプラットフォームの「中」でしか存在し得ない。グーグルにせよヤフーにせよ、もしも検索から除外されれば、どんなに素晴らしいコンテンツも人目に触れるのは限りなく難しい。

 落合さんは、これは「ビジネスでも同じ」だと指摘する。「Kickstarterそのものを、そこで資金募集している単体のプロジェクトが超えることはありえないし、映画館で上映されている映画が映画という様式自体を刷新することもありえません」(p104)

 

 様式自体を刷新するような現象は、むしろプラットフォームそのものの再構成である。落合さんはここでLINEやTwitterを例に挙げて、こう語る。

 彼らは既存のAPIを継ぎ接ぎして作る総合的なサービスの道を選ばずに、「スタンプ」や「140文字という制約」といった強力な機能による一点突破を目指しました。しかし、それは一点突破でありながら、同時に全体に関わる障壁を崩すようなテクノロジーでした。この発明によって生態系が組み替わり、新しいプラットフォームやインフラの再構成が起きることで、優位性を手に入れたのです。場づくりによる表現ということができるでしょう。(p113)

 既存のプラットフォームとは異なる「一点突破」をもって、全体の生態系を再構築する。この現象を駆動する心臓部として持っておきたい発想が「イシュードリブン」である。

 

 「イシュードリブン」とは、「自らこれまでにない問題を作り出して、自ら解く」という姿勢のことだ。落合さんはここでもスマホやアプリを例にとり、わかりやすく解説してくれる。

 ここで参考になるのは、シリコンバレーのアントレプレナーシップだと思います。スマホやアプリケーションの事業者は、iPhoneや自らのアプリによって様々な問題が解決されていると主張しています。しかし、彼らの言う「解決すべき問題」とは、そもそも彼ら自身が生み出している面も大きいのです。

 例えば、なぜ僕たちはスマホで絶え間なく、仕事のメールやLINEを確認しているのでしょうか。それは自らがそう望んだというより、スマホがいつでもコミュニケーションをとれる環境を整えたことで、過剰な繋がりを強いられるようになったという方が近いでしょう。(p117)

 たしかに、ラインがコミュニケーションを容易にした側面もあるし、反対に「コミュニケーションを容易にしたい」という欲求はラインが生みだしているとも言える。

 

 「問題解決」から「問題発見」へ発想を転換する。「解決すべき問題を設定できる」能力があり、「解決の方法を提示できる」スキルがある人材が、一層価値を増してくるのだろう。社会問題へ向き合うNPOや市民運動にとっても、硬直化した問題をもっと取り組みやすい問題に「再設定する」視点が大切になってきそうだ。

人間中心主義・象徴的機械を超えて

 落合さんが提示する「デジタルネイチャー」とは、何がコンピュータで何が自然物かの議論が必要ない、コンピュータや電子が自然と溶け合う世界だ。それを言い換えると、テクノロジーの「人間中心主義」と、「象徴的機械」を超えていく社会とも言える。

 

 人間中心主義を一発で伝える落合さんの語りがこれだ。

 先日、とあるシンポジウムで大学教授から「あなたはデジタルの強みばかり言うが、アナログにはアナログの良さがないだろうか。例えば、レコードにはCDにはない暖かみがあると思う」という質問をされました。それに対して僕はこう答えました。「それは現在のCDの規格が、音の解像度を低く設定しているだけです。現代の技術、もしくはこれからの技術発展で音の解像度が高いCDを作れば、レコードなんかより遥かに生の演奏の情報が再現された再生装置を作れますよ」(p172)

 レコードに「CDにはない暖かみ」を感じるのは、CDがコストを抑えて大量生産するために音の解像度を下げているからだ。問題なのはデジタルかアナログかじゃなくて、人間の都合で、あるいは人間の感覚器が受容できる程度にしかテクノロジーを使っていない「人間中心主義」にあると落合さんは指摘する。

 

 これを「人間」じゃなく「機械」の側から見たときにでてくるのが「象徴的機械」だ。テレビ、パソコン、スマートフォン。その時代を示すようなエポックな機械はたしかに存在感があるが、象徴的な機械と認識されている時点で、自然から浮きだったものになっている。

 

 「人間中心主義」も「象徴的機械」も、それが「自然」から対比されている。その時点で、機械が自然と溶け合うデジタルネイチャーにはならない。

 

 落合さんが生み出しているのは、それを超えていくテクノロジーやメディア表現だ。これも「情熱大陸」で登場した、「Fairy Lights in Femtoseconds」。本来、激しい感電を引き起こす「プラズマ」という現象を、「フェムト秒(10のマイナス15乗秒)」という超超短時間だけ発生させることで、「触れるプラズマ」を実現している。

 「フェムト秒」は人間の感覚を遥かに超越した時間だ。それをテクノロジーで操ることで、むしろ今まで体感できなかった自然を体感できる。光は目で見るものという感覚器の固定観念を超えて、「光を触る」という新しい体験もできる。

 

 落合さんが描くデジタルネイチャーは、「原理のゲーム」と「イシュードリブン」を総動員した先にあるもの、とも言えそうだ。デジタルネイチャーは遥かな未来じゃなく、むしろもう実現しつつある、来るべき明日なんだろう。だから「魔法の世紀」を持って、恐れずに挑んでいきたい。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 

 「魔法の世紀」はテクノロジーやメディアアートを中心に論じていますが、生き方・働き方に落とし込んだ落合さんの著書が「超AI時代の生存戦略」になります。こちらもおすすめ。

www.dokushok.com

 

 テクノロジーと自然の境界、その超越を考える材料として、ジェニファー・ダウドナ博士の「CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見」は格好の一冊だと思います。遺伝子編集はどこまで許されるのか?知的刺激にあふれた内容です。

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