読書熊録

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加計問題は本当に問題なのかー読書感想「これからの日本、これからの教育」(前川喜平・寺脇研)

 「加計学園問題」は何が問題なんだろうか?そもそも、本当に問題なのか?それを考えたくて手に取ったのが、「総理のご意向」文書を告発した元文科省事務次官・前川喜平さんと、同じく元文科官僚で京都造形芸術大教授・寺脇研さんの対談本「これからの日本、これからの教育」だった。「教育とは何のために行うのか」というところからスタートし、ゆとり教育や教科書問題、マイノリティ向けの教育まで話題を広げ、そのなかで加計学園についても論じる。

 正直、冒頭の問いの答えは読後もみつかっていなくて、「情報可視化時代における教育とは」という別の問いに行き着いて、今も自分の頭の中にある。でもこの本のおかげで問いが前進したという意味で、良書だった。ちくま新書。

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これからの日本、これからの教育 (ちくま新書)

これからの日本、これからの教育 (ちくま新書)

 

 

教育に求められる時間軸は「20年」

 前川さんと寺脇さんの語る教育論の根幹にあるのは、「教育には長い時間軸が必要」ということだと思う。効率や競争といった「市場原理」や「新自由主義」、言い換えれば「今の論理」を教育に持ち込むと、破綻してしまうという懸念でもある。

 

 寺脇さんが挙げた農業高校の例が腹落ちした。90年代初頭、普通科高校に落ちた子が商業高校、農業高校に行くという暗黙の序列があり、「子どもを序列化するくらいだったら、農業高校を無くしてみんな普通科にしてしまえばいいのでは」という議論が起きたらしい。その頃はバブルもあり、「食糧は外国から買えばいい」という発想が農業軽視につながっている側面もあった。

 最終的に当時の担当者の寺脇さんらは、農業高校を廃止しない代わりに、偏差値だけで輪切りのハムのように子どもたちを高校に送り出す状況を変えて、農業高校のカリキュラムも実践的にする改革を行なった。2017年の今から見れば、そのころ農業高校を廃止してしまってたらますます食糧を自給できない国になったのかも、と空恐ろしいけれど、90年代の「今」だけの理屈で考えると、あり得る話だったのだ。

 

 寺脇さんはその後、子どもが自ら考えて学ぶ「ゆとり教育」の旗振り役にもなる。ゆとり教育をめぐる次の言葉が、寺脇さんが考える「教育」を端的に示している。

 寺脇 「教育は国家百年の計」って、みんな簡単に口にするけど、それは言葉の綾みたいなもの。私は「教育は二〇年」だと思ってる。二〇年というのは、ちょうど一世代変わる時間なんですよ。

 「ゆとり教育」にしても、何だかんだ言われながらも、十五年たった。あと五年ほどすれば、それを受けた子どもたちが皆、二〇代になって社会に出てくる。そのとき、彼ら彼女らがどうなっているのかで、評価が定まるわけです。ですから、数ヶ月で株価が上がったとか、そういう世界とは全然違う。(p77−78)

 教育は20年。だからこそ、その子の20年を左右するという自覚を持って、文科官僚は教育行政を担っているようだ。

政府の仕事は「教育の品質保証」

 「教育は20年」「教育は市場原理にはそぐわない」という前提に立ち、加計学園の獣医学部新設を語るにあたって、2人は「品質保証」という言葉をキーにしている。

 

 まずは寺脇さんの語り。

 寺脇 役人や役所が何のために存在しているのかというと、国民に対して「品質」を保証するためなんですね。

 役人が学校制度を運営している以上、学校というのはまともなところだろうと、一定の信頼がおけるわけです。

 つまり、子どもの学校選びのために仕事を何日も休んで、いちいち調べたりしなくても、学校教育法に規定された学校なら「品質」が保証されているから大丈夫なようになっているんですね。(p207)

 教育の品質を保証するためにあるのが、「岩盤(規制)」だと寺脇さんは語る。安定した岩盤があるからこそ、不届きな学校が生まれず、教育のクオリティが担保されるのだと。

 これは「教育の平等」と言い換えてもいいかもしれない。どの学校に行っても、全国どこにいても、どんな子どもも一定の教育を受けられること。そのために、文科省のチェックが存在するというのだ。

 

 この品質保証の観点から、2人が「加計学園問題」として挙げるのは概ね次のようなポイントになる。

  1. 獣医学部の新設が本当に必要なのか、十分議論されたか
  2. 加計学園が「新しい獣医学部のニーズ」を満たす教育を提供できるのか
  3. それらの一連の審議が「総理のご意向」で捻じ曲げられなかったか

 おそらく自分が加計学園問題が腑に落ちなかったのは、「3」ばかりに目がいっていたからかもしれない。「品質保証」の観点で言えば、特に「2.加計学園が『新しい獣医学部のニーズ』を満たす教育を提供できるのか」が重大になりそうだ。

問い:可視化と変化の時代における教育とは?

 ここまで2人が視点を整理してくれたけれど、いまだに「加計学園問題は問題だ」と確信できない自分がいる。このもやもやの根っこには「情報可視化時代」「変化の時代」という考えがある。

 

 つまり「これだけ学校に関する情報が可視化されている時代に、文科省の教育保証は必要か」という疑問と、「あらゆる変化のスピードが幾何級数的になってる時代に、文科省の議論のスピード感は間に合うのか」という疑問だ。

 

 寺脇さんの言うように、教育の品質は保証されていた方がいい。でも今は、ちょっと検索すれば進学を検討する大学の情報は出てくる。そしてそれが「ハリボテ」だった場合、「この学校やばいよ」というつぶやきがツイッターやフェイスブック、はてなダイアリーに出てくる。「マスメディアが主要な情報源」から「全国民が情報発信者」に変わった社会で、果たして「お上」の品質保証はそれほど重要だろうか?

 

 市場原理と切り離してみても、社会の変化のスピードは凄まじく早くなっている。エコカー減税と言ってた数年後に、テーマは「無人運転」に変わっている。AIってすごいよねって話が始まったと思えば、今や大手銀行も人員減を始めようとしている。もちろん、民主主義や人権のように百年単位で重要なものもある。けれど、子どもが社会で生きていくために身につけるべき「学び」は、文科省が議論をしている最中にも変わっているかもしれない。

 

 加計学園も、作ってみてダメな学校ならその評価はきっと可視化される。逆に、ライフサイエンスと獣医学のリンクという加計学園の理念が本物なら、時代の変化を先取りした大学になる可能性もある。そう考えた時に、「加計学園問題」は少なくとも「たいした問題じゃない」、いつまでも議論し続ける話ではないのでは、と思えてしまうのだ。この考えが「今の論理」だと言われればそれまでかもしれないけど。

 

 むしろ、前川さんが本書で語っているような「マイノリティと教育」について、国会で真剣に論戦してほしいと思ってしまう。

 前川 たとえば貧困家庭の子どもは十六パーセント、ひとり親家庭の子どもは八パーセント、発達障害は小・中学生の六・五パーセント、LGBTは七・六パーセント、食物アレルギーのある子ども(三歳児)は五パーセント、喘息のある子どもは三パーセント、色覚異常だと、男女で違いがあって、男性の方が多くて、割合でいえば五パーセント。不登校は中学校で三パーセント。このほか、在日コリアンの人とか、被差別部落出身の人とか、アイヌの人とか。そういったマイノリティと言われる人たちを、考えられるだけ書き出して、そのパーセンテージを足してみると、五〇パーセントを超えるんですね。つまり、多数になる。

 逆説的ですが、マイノリティはマジョリティであるという結論に至ったわけです。 つまり、大多数の人はなんらかの意味でマイノリティに属していると考えていいと思うんですよね。(p165)

 社会の大多数は何らかのマイノリティである。大切な指摘だと思う。だからこそ教育は、マイノリティを大切にすること、あるいはマイノリティであることで教育からドロップアウトしてしまった人に再チャレンジできる場所を提供することが、もっともっと求められる。もちろん加計学園の話と並列することに意味はないんだけれど、自分はこれこそ「大問題」だと感じた。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

これからの日本、これからの教育 (ちくま新書)

これからの日本、これからの教育 (ちくま新書)

 

 

 教育つながりで、坂爪慎吾さんと藤見里紗さんの共著「誰も教えてくれない大人の性の作法」もオススメです。子どもの頃に全然学べないのに、大人になって必須科目になる性や恋愛。学びなおしにうってつけの本です。

www.dokushok.com

 

 子どもも大人も、逆境をどう乗り切るかは大切なテーマ。夫の急逝からもう一度生き直すまでの体験をロジカルにまとめてくれたシェリル・サンドバーグさんの「OPTION B」は、レジリエンスの入門書としてオススメです。

www.dokushok.com