せいこうさんだからこそー読書感想「「国境なき医師団」を見に行く」(いとうせいこう)
ジャーナリストではなく、作家だからこそ、いとうせいこうさんだからこそ、こんなにも伝わる「何か」がある。「『国境なき医師団』を見に行く」は、いとうせいこうさんがハイチ、ギリシャ、マニラ、ウガンダにある国境なき医師団の活動現場を訪問し、見たものや出会った人、感じたことを綴ったレポートだ。そこには、いとうさんが人として思わず抱いた感情がある。現実か空想か、浮かぶ思念もある。心の揺れ動きを排除せず、生々しく文字にしてくれた、日記のようなノンフィクション。講談社。
頬を伝うもの、電流
もともと国境なき医師団に寄付をしていたいとうさん。寄付者取材を医師団広報から受けたいとうさんだったのだが、逆に「団体の活動が多岐にわたるのが外部に伝わっていない。現場を見せてもらって、原稿を書いて広めたい」との思いを強くする。この「思いつき」から、2016年〜17年、世界4カ所を実際に訪れた。
「俺はジャーナリストじゃない」と、いとうさんは本書の中で何度か言及する。それがいい。あくまでいとうせいこうという作家、人間として、国境なき医師団の活動と、その活動を必要とする人たちに向き合う。
だから、ふれあいの中で動く感情をそのままに語ってくれる。最初の訪問地、ハイチで出会った64歳のメンバー、カールとの会話。「これまで参加したミッションについて教えていただけませんか」といとうさんが尋ねる。
「これが生まれて初めてなんです」
カールはまるで自分に孫が出来たかのような初々しい喜びをあらわしてさらに言った。
「私はエンジニアとして、ドイツの中でたくさんの仕事をして来ました。あっちの会社、こっちの会社とね」
「あ、お医者さんではなく?」
「そう。技術屋です。それで60歳を超える頃から、ずっとMSF(国境なき医師団)に参加したかった。そろそろ誰かの役に立つ頃だと思ったんですよ。そして時が満ちた。私はここにいる」
たったそれだけのことを聞く間に、俺の心は震え出してしまっており、とどめようがなかった。暗がりなのをいいことに、俺はあろうことかカールに顔を向けたまま涙を流してしまっているのだった。(p69)
還暦を過ぎて、そろそろ人の役に立ちたい、そして時は満ちたと国境なき医師団に飛び込んだカールに、心が震えた。それをそのまま、語ってくれるいとうさんが素敵だ。いとうせいこうさんは、あくまで「俺」として、ミッションに向かい合う。
別の場面では、同じようにミッションに臨む人たちと触れ合う中で「電流が走った」ということもあった。まるで読者も、いとうさんの身体を借りて、熱気や土埃にまみれるような、そんな体験ができる。
「人道に合法か非合法かなんてない」
カールさんの「時が満ちた」もそうだけれど、いとうさんが出会う人たちの「言葉」は極めて鮮烈で、胸に印象を残したまま消えない。
たとえば、ギリシャでのこと。紛争化のシリアをはじめ、国境を越えて、海を越えて、多数の難民が押し寄せる。難民キャンプでケアに取り組むマリエッタさんが語る。
「移動の間に、あらゆる暴力があります。レイプがあります。強奪があります。病気や怪我にさいなまれます。それでも彼らは安住の地を求めて動き続けるしかありません」
彼らの地獄のような歩行、航海を想像しながら、俺は黙ってメモをとったものだ。
「しかし彼らは自分たちが非合法だと思っているから、誰を非難することもない。訴えることも出来ない。ただただ耐え忍んでいます。そしてひたすら、自分たちを通してくれと言うだけです。しかし、人道に非合法か合法かなどという区別はありません」
そうでしょう? とマリエッタさんは無言で俺たちに問うた。もちろん俺たちはうなずいた。
すると、彼女はあらゆる世界の矛盾に鉄槌を下すかのように言った。
「生きるために紛争を逃れてきた身に、非合法なんてことはあり得ません」(p136)
人道に合法か非合法かなどという区別はない。いや、あってはならない。マリエッタさんのように断言できる思いに、最近どれだけ触れて来ただろうと思わずにいられなかった。
このあと、いとうさんは「尊厳(dignity)」という言葉に思い至る。マリエッタさんたちが、なぜ国境なき医師団として、困難の渦中にある人に手を差し伸べるのか。それは特殊な論理ではない。むしろ、尊厳、人道、人権、ひとが長い歴史の中で育み、守って来た価値観を、まっすぐに体現しようとした結果だ。
いとうさんの旅は、尊厳のように、凝縮した人類の叡智を解きほぐしていく過程でもある。教科書で習ってしまえば無機質な概念を、同じ人間として対峙することで、具体的な心の動きに転化してくれる。そうして出会い直した「尊厳」は、血肉の感じられるものだ。
想像力
いとうさんが本書の中で大切にしているもう一つのこと、それが「想像力」だと思う。想像してほしい、想像力をフル稼働してほしい。それが読者に訴えかける、いとうさんの一番の声だったと思う。
本書の後半、最後の訪問地ウガンダで、南スーダンから逃れて来た20代の女性ビッキー。彼女との対話を経て、いとうさんが最後に語る。
いつかこの利発な、優しい、どうか平和な暮らしを取り戻して欲しいビッキーを主人公にした短編小説を書きたい。何になるわけでもない。俺もまた無力だ。しかしせめてそういう苦しみの中にいて微笑んでいる20代がいること、彼らが願う通りの幸福が訪れる様子を、この世に生み出したい、と俺は思った。
ビッキーたちの写真もとったが、むろんここでは紹介しない。どうかたくさんの想像力で彼女たちを身近に感じて欲しい。(p356)
写真を撮ったけれど、載せない。たくさんの想像力で彼女たちを身近に感じて欲しい。この言葉に、はっとさせられた。
写真があるから想像できるのではない。ビッキーはどんな女性だろう。その微笑みは、どんな風だろう。「想像しようとする」からこそ、想像できるはずだ。
いとうさんはこの想像力を、現実と並列で考える。旅の途中、いくつも不思議な現象が起こる。日本に帰る飛行機で隣にいた「男」。しかし、現場のメモを振り返り、レポートを書いている間に消えている。この「男」はその後もいとうさんの前に何度も立ち現れ、その存在感についていとうさんは思索を巡らせる。
国境なき医師団の現状をレポートしようと思えば、この「男」の存在は無視できるかもしれない。でも、遠い誰かを想うことや、漠然とした概念と格闘することは、旅の最中にはよくあることじゃないか。いとうさん自身も、きっとそうなのだと感じた。
想像しようとするから想像できる。現実を前にしてつい想像してしまう。「想像力」に、いとうさんは人間の可能性を見ている。
今回紹介した本は、こちらです。
言葉によって現実がより鮮明に、質感を持って捉えられる。この体験、まったく違う「戦場」という舞台ですが、感じられたノンフィクションが「レッド・プラトーン」でした。著者の軍人ロメシャさんの紡ぐ言葉はあまりに美しいです。
言葉と言葉の間にある、余白。いとうさんが大切にする「想像力」のような、目に見えないものの大切さを丹念に描いているのが、バズフィードジャパン記者・石戸諭さんの震災ノンフィクション「リスクと生きる、死者と生きる」です。こちらも、読んでいてむずむずと心が動くと思います。