読書熊録

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撤退の時代にできることー読書感想「コミュニティ」(ジグムント・バウマン)

 「関与」の時代だった近代は終わりを告げ、「撤退」の時代を迎えている。その渦中で、果たしてコミュニティは維持できるのだろうか。あるいは理想的なコミュニティを構築できるだろうか。2017年に亡くなった社会学者ジグムント・バウマンさん「コミュニティ 安全と自由の戦場」で投げかけている問いである。「巨人」と称される社会学者は、グローバル経済や格差の拡大に鋭い目線を向ける。読んで批判的視座を得ると同時に、未来への希望も確かに存在すると実感できる好著だった。奥井智之さん訳。ちくま学芸文庫。

 

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コミュニティ (ちくま学芸文庫)

コミュニティ (ちくま学芸文庫)

 

 

 

大いなる撤退

 本書は、難民の方に関するレポートなどを発表する「ニッポン複雑紀行」の運営者、望月優大さんがツイッターで取り上げているのを拝見して興味を持った。望月さんもはてなブログで発信されている。

hirokimochizuki.hatenablog.com

 

 「コミュニティ」のタイトル通り、主題となるのはコミュニティ、人間の共同体である。バウマンさんは聖書まで遡り、人間にとってのコミュニティとは何かを考える。哲学的なこの問いはもちろん面白い。だが目を引いたのは「近代」から「ポスト近代(現代)」への以降を「関与」と「撤退」で考察した第2~3章だった。

 

 近代は「関与」の時代だった。産業革命以降、人々は「資本家」と「労働者」に分割される。コミュニティも、ギルド(職人集団)や地域社会に根ざしたものから、資本家の目指す経済活動にとって合理的な形に再編される。

 日本企業をイメージすれば分かりやすい。資本家は労働者を集約して「企業」とする際、「管理」をしやすくするために給与、福利厚生の制度を整える。有名な指摘ではあるけれど、労働者は労働力を提供して資本家から資本を得ている。その意味で依存している。一方で資本家も、労働者なくして資本を再生産できない。資本家と労働者の関係は、相互依存だった。

 

 しかし、現在はどうか。バウマンさんは「大いなる撤退」が起きたと語る。

 (第2次大)戦中の復興の影響下にあった何十年かが過ぎ去ると、経営者にも変化が訪れ、困難で厄介な経営上の責務を捨て去る傾向が鮮明になった。その責務は以前、資本の名目上の所有者から背負わされたものであった。かつて資本の所有者が姿を隠したのと同じ道を、経営者も本格的に歩み始めたのである。「大いなる関与 engagement」の時代の後には、「大いなる撤退 disengagement」の時代が到来した。高速、高加速の時代、不関与の時代、「弾力性」「人員削減」「外部委託」の時代。(p64)

 この見方はあまりにも的確だと思う。そして現在進行形でもある。いつしか、「経営合理化」のために人件費を削ることは当たり前になった。日本でも非正規雇用の方が一般的になった。

 資本家、企業は、それまでのコミュニティを管理しやすいように再構築したが、それをコストと感じるようになった。そして捨て去ろうとしている。

 

 脱領域的なグローバルエリート

 バウマンさんは、労働者やコミュニティへの関与から「撤退」をした資本家を「脱領域的」と特徴付ける。この指摘も秀逸だ。

 

 現代において、富裕層であればあるほど、グローバルである。たとえばプライベートジェット。世界中どこへもひとっ飛び。あるいは日本に住めなくなっても、アメリカに移住すればいい。家も、土地も、使用人も。富さえあれば変える。インターネットさえあれば世界中どこでも充実した環境を再構築できる。

 

 つまり資本家ほど、コミュニティに縛られない。かつての貴族にノブレス・オブリ-ジュ(高貴さに伴う社会的責任)があったのは、容易にはその土地を離れられなかったからだ。だから権力の象徴が領域だった。現代は逆である。資本家ほど脱領域的、地域にも国にも影響されないのだ。

 

 「撤退」の時代において、エリートは「責任」からも撤退している。これをバウマンさんは、「跳ね橋を吊り上げる」という印象的なフレーズで表現する。

 新しいエリートたちは自家用車を何台ももち、公共輸送の惨状を気に病むこともないが、実はかれらは、親が渡ったあとの跳ね橋を吊り上げたのである。さらにかれらは、このような橋が社会的に作られ、守られているということ、もしそうでなかったならば、かれら自身が自力で現在の場所にたどり着くことはほとんどできなかったであろうということを忘れている。(p96)

 富の創造は、関与の時代の労働者が、社会が生み出した。しかしエリートは、そうして生まれた「橋」を渡った後、それを跳ね上げてしまった。「エリートの見える世界」と「対岸の世界」を分断してしまった。この見方は一面の真実ではないか。

 

 「富裕層がしかるべき社会的負担を負っていない」という指摘は、今や過度に共産主義的とみなされる。むしろ所得税を上げすぎると富裕層が外国へ逃げてしまうことが恐れられる。だが、富とは地続きである。インターネットですら、大戦中の政府の軍事研究がなければ生まれるべくもなかった。富の源泉にはインフラがあり、それは紛れもなく、社会全体の産物である。

 

 バウマンさんは「エリートが脱領域的になる一方、国家は領域的であり続ける」ことから、こうした状況を生まれると喝破する。領域的、ローカルな国家に、領域とは無縁なエリートを制御することは、もはや難しくなっている。

 

立ちこめる不安、だからこそ安心を

 吊り上げられた橋の対岸、エリートの対極に何が起こるのか。脱領域的になれない市民は当然ながら領域的にならざるを得ず、その一つの形態が「ゲットー」であるとバウマンさんは見る。それは「檻のない監獄」とも言える。

 

 都市の近くにスラムができるように、経済的に貧しい人ほど生活する場所を選べない。こうして今日のコミュニティは、例えば富裕層が有刺鉄線を築いて治安を実現する場所と、その使用人などの仕事にありつこうと周囲にゲットーを作るように、分断される。

 

 悲しいことに、これは「分割して統治せよ」という植民地支配の大原則の現代版だとバウマンさんは明らかにする。脱領域的なエリートにとっても、領域的な国家にとっても、この点は一致して好都合だ。ゲットー化されたコミュニティは互いに不信感を醸成する。アフリカ系のゲットーがあるとすれば、例え同じくらい貧しくても、アジア系のゲットーを「同類」とみなさない可能性もある。むしろ、少ないと富を奪い合う敵だと思うこともできる。

 

 ここにきて問題は、実に身近になる。私たちにできることは何か。それは、あえて「安心」を生み出すことだと、バウマンさんは言う。

 安心は、壁で仕切られ塀で隔てられたコミュニティの敵である。安心を感じることで、「わたしたち」と「かれら」とを隔てている恐ろしい外洋は、魅力的なプールのようにも思えるようになる。コミュニティと隣人たちとの間に広がる恐ろしい断崖も、むしろ穏やかな、のんびりとさまよったり、うろついたり、ぶらついたりできる、愉快な冒険に満ちた一区画(パッチ)のように思えるようになる。(p211)

 安心は、コミュニティを「開かれた」ものにする。生きにくい今、コミュニティを「閉じる」ことで安心を得ようとする。でも、違う方法がある。互いのコミュニティを安心でつなぐことで、それぞれのコミュニティはぶらつける「一区画(パッチ)」になる 。

 

 グローバルエリートをどう社会に包摂するかは、中々に難しい問いだ。一方でどうだろう。コミュニティに安心の街路を敷くことは、今日からでも、できそうではないか。

 

 今回紹介した本はこちらです。

コミュニティ (ちくま学芸文庫)

コミュニティ (ちくま学芸文庫)

 

 

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www.dokushok.com

 

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