読書熊録

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殺し屋が愛を知ったらー読書感想「AX アックス」(伊坂幸太郎)

 殺し屋が愛を知ったらどうなるのか。それでも殺し続けるのか。愛に生きる、生き直せることはできるのだろうか。小説「AX(アックス)」伊坂幸太郎さんらしい軽妙な物語の運びながら、深淵には重厚なテーマが流れる。最強無敵の殺し屋「兜」は、なぜか恐妻家。妻にうだつが上がらない理由を知った時、読者が見ていた世界は一変する。2018年本屋大賞ノミネート作品。角川書店。

 

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AX アックス

AX アックス

 

 

恐ろしいほど強く、不思議なほど妻を恐れる

 複数の殺し屋の狙いが交錯する「グラスホッパー」、東北新幹線に乗り合わせた殺し屋同士がバトルロワイヤルを展開する「マリアビートル」に続く、伊坂さんの《殺し屋》シリーズ。AXは「斧」、本作では特に「蟷螂(カマキリ)」の斧手を指している。もしかしたら《殺し屋》シリーズは虫がキーなのかもしれない。 

 

 主人公はもちろん殺し屋。「兜」という屈強な男で、シリーズの中でも白兵戦の強さがピカイチに光る。そしてもう一つ。不思議なほど、恐妻家、つまり妻を恐れているのである。伊坂さんらしいこんなフレーズで表現されている。

 むしろ、愛情はそれなりに長い結婚生活の中で、一目盛たりとも減っていないと断言できるが、常に、妻の機嫌を気にかけてしまうのは事実だった。虎の尾ならぬ妻の尾は、家の床中を這っており、しかも見えない。いつ踏むかも分からない。(p12)

 

 兜が何気なく、息子克己の中学校は弁当持参なのに「給食だったかな」と言ってしまった時は、まさに妻の尾を踏んでしまった瞬間だ。

 キャッチボールのつもりであったのが、実は、すでに試合の真っ只中で、妻はバットを持ち、「いい球が来た」とばかりにフルスイングで打ってきた。息子の中学が弁当持参であることも知らないのか。毎朝、自分が早起きして、弁当を作っているのではないか。妻は矢継ぎ早に言い、そこからさらに、「あなたは朝、起きるのが遅いから」であるとか、「あなたの会社は暇そうでいいわね」であるとか、別のテーマにも話を広げはじめた。(p24)

 こうなると兜はただただ、妻の機嫌を戻そうと平身低頭に徹する。怖いもの知らずの殺し屋なのに。

 

 表向き、いや妻(と息子)向きには普通の会社員で通している。しかし、病院のふりをした仲介所で仕事を請け負い、夜な夜なターゲットを屠っている。兜はなぜ、殺し屋なのに家族を持っているのか。なにより、なぜここまで妻を恐れているのか。それが「AX」の最大のミステリーになる。

 

世界の色が変わる瞬間

 妻を恐れるには、理由があるのではないか。兜には、あるいは妻には、秘密があるのではないか。その「真相」に触れる瞬間が、本書の最大の読みどころになる。

 

 真相の手前の通過点では、兜のこんな自問自答がある。たまたま入会したボルダリングジムで一緒になった若い女性と話している時、「妻が監視しているかも」という疑念に囚われた。内なる自分が、なぜそうなるのかを語り出す。

 「それはたぶん、あなたが今までしてきた行為に対する罪の意識が関係しているのかもしれませんね」兜は内なる自分が、そう分析してくる声を聞く。「ルールを守らず、他者の命を奪ってきた自分が、幸福な家庭を築けるわけがない。許されるわけがない。いつ崩壊してもおかしくない、といった恐怖感があって、だから、妻を必要以上に恐ろしいものと位置付けることで、自分を戒めている、警告を発しているのではないでしょうか」(p120−121)

 繰り返すが、この内なる声は通過点であって、真実ではない。しかし、重要な問い掛けでもある。他者の幸福を奪うものは、自ら幸福になれるのか。許されるのか。

 

 兜に罪悪感がないといえば、嘘になる。兜は実際、克己の成長とともに殺し屋稼業から足を洗いたいと思っている。もちろん仲介者の「医者」は引き止める。結果、ずるずると人を殺し続ける。

 ではなぜ、兜は妻を愛してしまったのか。家族を持ってしまったのか。もっと立ち帰れば、なぜ、そうした愛とは真逆の世界に身を置いてしまったのか。

 

 恐妻家という現実は、深い海につながる砂浜だった。伊坂さんは軽やかなステップで、その深い部分まで案内してくれる。

 そして、もう一度海面へ浮上した時。見える景色が変わってくる。「恐妻家の殺し屋」が、とにかく愛おしくなる。

 

 この感覚は、今までの伊坂作品とちょっと違うような気がしている。「グラスホッパー」や、代表作「アヒルと鴨のコインロッカー」にあったような、あっと驚く仕掛け。「ゴールデンスランバー」「魔王」にあったような、巨大な存在と個人という構図と、その儚さ。どれとも違う、まるで「世界の色が変わる」ような体験だった。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

AX アックス

AX アックス

 

 

 「真実」を知った時、物語が姿を変える。遠田潤子さんの小説「オブリヴィオン」のそれは、暗闇から夜明けを迎えるような、穏やかな展開でした。

www.dokushok.com

 

 現実の殺し屋、ならぬ地下社会の住人の蠢きを知れば、物語の世界観を膨らませられるような気がします。「社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた」は格好の題材になるノンフィクションです。

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