読書熊録

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本と本屋を愛する人へー読書感想「これからの本屋読本」(内沼晋太郎)

 「これからの本屋読本」は、本と本屋を愛する人へ向けられた本だ。本に関する様々な企画を主宰する「NUMABOOKS」代表で、ビールが飲める書店「本屋B&B」を運営している内沼晋太郎さんの著作。

 出版不況、活字離れと言われ久しい。それでも、なぜ我々は本を読むのだろう。本と、本が集まっている「本屋」という空間が好きなのだろう。序盤はそれを思索する。そして、この時代に本屋をやっていくことは可能なのか。内沼さんは「ダウンサイジング」と「掛け合わせ」という二つのキーワードで可能性を示す。本屋の未来を押し広げてくれる。NHK出版。

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これからの本屋読本

これからの本屋読本

 

 

必要な場所から好きな場所へ

 本書は本質的な問いからスタートする。我々はなぜ本と本屋が好きなのか。そもそも本屋とは何なのか。本を売っていれば本屋なのか。普段は素通りしていた問いに、内沼さんは優しくかつ地に足ついた言葉で誘う。

 

 印象的な言葉が二つある。まず、本あるいは本屋が「必要な場所から好きな場所へ変わった」ということ。

 活字離れという言葉は裏を返せば、一昔前までは活字と密着していた。旅行に行くためには、旅行ガイドを読む。料理の腕を上げたければ、料理本を読む。それはインターネットの登場で決定的に変わった。情報が欲しい時、まずグーグルを立ち上げるほうが自然なはずだ。内沼さんはさらに言葉を紡ぐ。

 だから本屋は、日常的な生活に欠かせない「必要」な場所だった。多くの人が「好きだから」ではなく「必要だから」本屋に来ていた。だから相対的に、わざわざことばに出して「好き」という理由も、いまほどはなかったはずだと想像する。

 けれどいまは「本が好き」「本屋が好き」とことばにする人が増えた。それは、多くの人にとって本屋が、必ずしも生活に「必要」なものではなくなったことで、逆に「好き」という気持ちが顕在化してきたからではないか。(p32−33)

  たしかに時を重ねるごとに益々「本が好き」になっているし、本屋という場所もどこか特別になっている。小さな頃は大勢の他人が集まる広場のように感じていたけれど、いまは大切な「居場所」のように思う。

 

 内沼さんの言葉でもうひとつ印象的なのは、ネットと本屋の違いを表したこの部分。

(中略)この世界の何についてであっても、一冊の本として凝縮され、存在し得る可能性が開かれている。そのように考えると、本屋を一周すれば、世界のあらゆるものに出会う可能性があるということになる。

 もちろん、インターネットも世界に似ている。インターネットでは、世界中のあらゆる人のさまざまな営みが、日々情報として可視化され続けている。けれどそれはほとんど無限にひろがっていて、いま自分がどこにいるのか、相対的な位置というものがない。どれだけリンクからリンクへ点をたどっていっても、一周することができない。本屋が地図で見渡せるひとつの世界だとしたら、インターネットは果てしなく広がる宇宙空間のようだ。(p16−17)

 インターネットは相対的な自分の位置が見出しにくく、宇宙のよう。一方で本屋は、あらゆる世界への扉を持つ一方で限定的な空間が設定され、さながら地図のある世界のよう。たしかになあと思うし、そう考えるとなんだかどちらも愛おしくなる。

 

ダウンサイジングと掛け合わせ

 本書は「本屋が儲かる」とか「ビジネスチャンスだ」というハウツーではないし、むしろ内沼さんは、本屋をめぐる厳しい情勢を冷静に語る。

 その上で、本屋にはどんな未来があるのか。これからの本屋は、どうやったら本屋であり続けられるのか。内沼さんは「ダウンサイジング」と「掛け合わせ」という言葉を示す。

 

 ダウンサイジングとは文字通り、サイズを小さくすることで、ここでは「こじんまりと商いをすること」と言える。なぜ本屋を小さな商いにするのか。それは、自分の手の届く範囲で「本」という世界への小さな入り口を扱うことが、情報の洪水の中で小島のように存在しうるからだ。

 「ニーズ至上主義」という言葉が補助線になる。いま、知りたいことはネットに書いてある。少なくとも知りたいというニーズに、まあまあ対応できるレベルの情報はネットで、無料で手に入る。そこに本屋が対抗できるのか、という問題だ。

 

 むしろ本屋は、膨大なニーズに対応するとは違う方向に活路があるのではないか。内沼さんは明確に言語化する。

 人間の「本屋」にしか生み出せないものがあるとしたら、それは個人の偏りをおそれずに、豊かな多様性をつくりだし、誰かに差し出すことだ。もちろん個人は万能ではない。けれどそこにはシンプルな、人間同士の信頼関係があればよい。できる限り正しくあろうとする個人が選んだ結果、「ニーズ至上主義」で流れてくる情報とは異質で、ほどよくランダムで、多様な驚きがある。その「本屋」を信頼した客が、その世界に身を置いて出会う偶然をたのしむ。そういう体験を生み出すことこそ、「本屋」の仕事であるべきではないだろうか。(p111)

 人間の「本屋」にしか生み出せないものは、個人として偏りを恐れず、一方でできる限り正しくあろうとした姿勢で、本という世界の扉を差し出すこと。そこに驚きや、多様性が生まれる。ダウンサイジングとは、身の丈にあう誠実さで仕事をしていくこと、とも言えそうだ。 

 

 そのうえで「掛け合わせる」。内沼さんのB&Bは、ビールが飲め、毎日イベントを開催することで、コミュニティとしての要素を持ち合わせる。ダウンサイジングした本屋が、その分違った要素と掛け合わせることで、可能性を広げていける。

 

本屋を人生に取り入れる

 「これからの本屋読本」はもうひとつ、「本屋とはなんだろう」という問いも投げかける。「本を売る人」に限らない「本屋」のあり方を模索する。

 

 内沼さんは、「本屋」とは「本をそろえて売買する人」と「本を専門としている人」と定義する。前者はともかく、後者の「本を専門としている人」とはなんだろう。

 たとえば、本を配達する業者。彼ら抜きには、書店は本を並べられない。あるいはブックデザイナーやイラストレーター。本をつくり、届け、読者が手に取るまでには無数の人が関わっていて、全てが揃って我々は、本を読める。

 

 内沼さんはこの発想をさらに広げて、優しくする。本屋とは、必ずしも本の商売で生計を立てることではないのか、と。たとえばフリーマーケットに出店する本好き。自分のようにブログで本について書く人達。あるいは子どもにとっては、本を買い与える親も「本屋」といえるのではないか、と。

 どう「本屋」を人生に取り入れるか。やや大げさかもしれないけれど、それを前向きに考え、実践する人が増えることは、バリエーション豊かな「本屋」を生むことになり、結果的に「本」を愛する人に帰ってくるはずだ。(p99)

 本屋に「なる/ならない」ではなく、本屋を「人生に取り入れる」。この発想はあらゆる本好きにとって、自分の人生を豊かにしてくれる本や本屋に何か力になりたいと思う人にとって、勇気をくれる。

 

 本と本屋を愛する時、誰もが本屋であり得る。読み終えると少し背筋が伸びて、世界を遠くまで見渡せるようになった気がする。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

これからの本屋読本

これからの本屋読本

 

 

 ダウンサイジングと掛け合わせという発想は、ナリワイという働き方・生き方を提唱してくれる伊藤洋志さんの「ナリワイを生きる」と共通します。併読すると、思考がもっとクリアになる気がします。

www.dokushok.com

 

 本屋を取り入れる、という言葉に出会って、「暮らしにバラを飾る」という言葉とつながりました。國分功一郎さんと山崎亮さんの対談本で、社会主義は生活のエッセンスになるのではないか、というテーマの「僕らの社会主義」で触れられます。

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