読書熊録

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履歴書より追悼文ー読書感想「あなたの人生の意味」(デイヴィッド・ブルックス)

 人間には2つのプロフィールがある。履歴書と、追悼文である。履歴書はあなたがいかに有能かを華やかに語る。一方で追悼文にはあなたが「どう生きてきたか」が表れる。私たちはいつも履歴書を気にするけれど、大切なのは追悼文なんじゃないか、と問うのが本書「あなたの人生の意味」だ。

 

 とにかく履歴書を飾ろうとするのは、なぜなのか。美しい追悼文が読まれる人間になるにはどうすればいいのか。著者のデイヴィッド・ブルックスさんはアイゼンハワーからアウグスティヌスまで、過去の偉人の葛藤から学びを引き出す。キーワードになるのは「2つのアダム」。そして「罪の意識」や「天職」がある。いまや口にする機会も少ない「道徳」を正面から議論する一冊。ハヤカワ・ノンフィクション文庫。

 

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あなたの人生の意味 上 (ハヤカワ文庫NF)

あなたの人生の意味 上 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

2人のアダム

 本書は「はじめに」を読むためだけにも買う価値がある。ほんの数行で、読者は自らの人生を顧みずにはいられない。

 私は最近よく考えることがある。人間の美徳には大きく分けて二つの種類があるのではないかということだ。一つは、履歴書向きの美徳、もう一つは追悼文向きの美徳。前者は文字どおり、履歴書に列挙すると見栄えのするような美徳だ。就職戦線において自分を有利にしてくれ、他人から見てわかりやすい成功へと導いてくれるような能力。追悼文向きの美徳はもっと奥が深い。あなたの葬式の時、集まった人たちの思い出話の中で語られる美徳だ。どれはあなたの人間の核として存在しているものに違いない。親切、勇敢、正直、誠実……何と言われるだろうか。生前、人とどういう関係を築いていたかによっても変わってくるだろう。

 どちらが大事かと改めて問われれば、追悼文向けの美徳が、履歴書向けの美徳より大事だと答える人が多いはずだ。しかし、正直に言えば、私自身の短くない人生を振り返ると、履歴書向けの美徳について考えていた時間の方が長かったと思う。(上巻11p)

 

 履歴書向きの美徳より、追悼文向きの美徳を大事にしてきたと胸を張れる人はどのくらいいるだろう。むしろ、履歴書を飾るために、追悼文では悪徳として語られることをしてきてさえいるかもしれない。仕事のために家族や友達を顧みなかった。本当に優しくするべき場面で、そうできなかった。

 デイヴィッドさんも同じような反省を抱いているのかもしれない。シカゴ大学卒業。ウォール・ストリートジャーナルなどを経てニューヨーク・タイムズの名物コラムニストとして活躍している。

 

 2つの美徳のうち履歴書向きの美徳に傾いてしまうのはなぜか。デイヴィッドさんはそもそも人間には原初的な二面性、「2人のアダム」がいるんだと説く。

 「アダムⅠ」はキャリア志向で野心的。目指しているのは成功、今日においては経済的成功である。一方の「アダムⅡ」は内向的で、何かを成し遂げるよりも他人や社会を大切にすることを望む。成功よりも道徳的な人間であることを願っている。

 

 本書は「アダムⅡ」の物語だ。普段は省みることのないアダムⅡの小さな声に向き合って、手を繋いで、肥大化するアダムⅠと統合していくための本だ。

 

「罪」の重要性

 上下巻を通じて、さまざまな時代の10人の人生を見る。特に彼ら、彼女らの中の「アダムⅡ」に目を向け、いかに磨き上げていたのかを省察する。面白いのは、誰もが「アダムⅡ」は当初、酷い有様だということ。それを格闘することで、道徳的に成長しているのだ。

 

 たとえば、「マーシャルプラン」で知られる政治家のジョージ・マーシャルは、幼い頃から癇癪持ちだった。政治家になってからも湯沸かし器のようにすぐに怒り部下を困らせた。公民権運動で活躍したラスティンは、実は性的に奔放だったらしい。何度かそれで社会的信用を失っている。古代のアウグスティヌスは、キリスト教的内省に目覚めるまではめちゃめちゃキャリア至上主義だったそうだ。

 

 ただ、どの人もそうした「欠点」を自覚し、改善、あるいは緩和しようと努力してきた。その原動力の一つだったのが「罪」の概念だった。

 

 デイヴィッドさんは「罪」をこう解説する。

 罪という概念が重要なのは、罪というものが間違いなく存在するからでもある。あなたも私も罪人である。ただ、そう言ったからといって、必ずしも、あなたが完全に堕落した人だとか、心に汚点があるとか、そういう意味ではない。ただ、あなたの心には必ずどこか、歪んだところがあるはずだと言っている。(上巻p128)

 罪という概念が重要なのは、罪というものが間違いなく存在するからである。この場合の罪は、キリスト教的な原罪よりもう少し実際的に、なんらかの害悪を引き起こす自分自身の弱点と言える。

 

 アイゼンハワーらが生きた19世紀、20世紀までのアメリカでは、罪というのは日常的に使われていたという。たとえば親が子どもを叱る時もだ。これが「自己矯正」の装置として機能した。自分の罪を認識しているからこそ、それを正そうと日々努力するインセンティブが生まれた。

 

 罪を意識し、道徳的になろうとするのは、実はセーフティネットの代替でもあった。

 命がはかなく、無慈悲なものだとすれば、それでも生き抜いていくために、どうしてもある程度以上の心の強さ、心の鍛錬が必要になる。たった一度の小さな失敗が取り返しのつかない。社会に「セーフティネット」というものがほとんどないので、いったん転落してしまうと浮かび上がることがまず不可能になる。干ばつ、病気、他人の裏切りなどですぐに窮地に陥るし、死は常にすぐそばにある。いつ何時、破滅するかわからないのだ。そんな時代には、強さと人格を兼ね備えた人間でないと長く生き延びることは難しい。(上巻p122)

 現代に比べて過去の偉人が厳格に、道徳的に見えるのは、そうあらねば生き残れなかったからだ。「罪」の概念は、厳しい時代を生き抜くために発明されたのかもしれない。「アダムⅡ」を磨かねば幸せになれなかったどころか、生き抜けなかったのだから。

 

人生はあなたに何を求めている?

 「罪」と並んで偉人たちが持っていたものは「天職」だった。

 

 フランクリン・ルーズベルト時代に労働政策をになったフランシス・パーキンズは、住んでいる街で起きた大規模火災をきっかけに、労働者の劣悪な環境を目の当たりにして政治の世界へのめり込んでいく。サミュエル・ジョンソンは類い稀な想像力や発想力によって自己分裂的な症状に苦しみながらも、当時は存在しなかったライターという仕事を確立していく。

 

 重要なのは、「天職」とは必ずしも「自ら見つけ出した」ものではないということ。パーキンズが火事に出くわしたのは偶然だったと言える。このあたりをデイヴィッドさんは丁寧に整理する。

 (中略)彼女のような生き方では、「自分は人生で何を得たいと思うか」などと自分に問いかけることはない。投げかける問いは「人生は私から何を得たいか」に変わる。「私のいるこの世界は、私に何をして欲しいのか」と問うのである。

 彼女の生き方では、人は自分の人生を自分で作らない。人生に命じられるのだ。大切な答えは自分の内にではなく、外にある。(上巻p62)

 これはヴィクトール・E・フランクルが語った有名な言葉「自分が人生に何を求めるかではなく、人生が自分に何を求めているか」と同様だ。「罪」が内省をもって道徳的な成長を目指すのに対して、天職は社会・世界の要請を感じ取って、それをもって自らを変革していく行為だ。

 

 だから天職というのは一定程度「ランダム」であるし、裏を返せばいまのこの瞬間から、自分の仕事を天職と受け止めることも可能だ。

 これは「罪」の概念も同様。そう考えると、道徳的に生きるというのは、実は難しい話じゃなくて、こうした考えを手段として取り入れていくことなのかもしれない。

 

 アダムⅡは「成し遂げるもの」というよりも、日々の営みで少しずつ「なじませていく」もののような気がしている。きちんとしたアダムⅡになっていたかどうかは、きっと追悼文が読まれるその日まで分からない。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

あなたの人生の意味 上 (ハヤカワ文庫NF)

あなたの人生の意味 上 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

 人間の本質を2つに分けてみて考える、というのはダニエル・カーネマンさんの「ファスト&スロー」でも取られた手法ですね。こちらは行動経済学の観点から、直感的な「システム1」と冷静な「システム2」それぞれの特徴を学ぶ内容。

www.dokushok.com

 

 概念を生活に取り入れる、その方法を対談形式で解説してくれているのが「僕らの社会主義」でした。「道徳」と同じくらいアレルギーのありそうな「社会主義」の歴史と、その効能が学べます。

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