読書熊録

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人類はクジラになるー読書感想「デジタルネイチャー」(落合陽一)

 「近代」は人類に人権をもたらし、産業革命で世界を発展し続けた。しかし「現代」は資本主義や民主主義に行き詰まりが見え、テクノロジーは人間性を奪う脅威として敵対視さえされている。ここから、どんな未来が描けるのか。その一つのルートが「デジタルネイチャー」、計数機群(コンピュータ)が自然と見分けがつかないほど発達し、人類を包み込む世界だ。本書「デジタルネイチャー」はそのマニフェストと言える。

 

 デジタルネイチャーで、人類はクジラになる。汎神化したコンピュータ世界の中で個別的、超言語的なコミュニケーションが生まれる。想像もつかないけれど胸が踊る、不思議な感覚をくれる未来地図だ。

 

 著者はメディアアーティストであり起業家であり研究者の落合陽一さん。前著「魔法の世紀」や「日本再興戦略」に比べると、平易さよりも包括性が際立つ一冊で、読みこなすには苦労する。しかし、断片をとらえるだけでも、読むべき価値がある一冊だ。PLANETS。

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デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

 

霧の中の車、海の中のクジラ

 「近代」が制度疲労を起こしていることを感覚的に捉えている人は少なくないはずだ。落合さんも、「人間」「社会」「国家」「大衆」といった近代が生んだ概念が、現代を制約していることを確認する。1789年のフランス革命から近代が成立したと考えて、既に250年以上が経過している。耐用年数は過ぎようとしている。

 

 デジタルネイチャーとは、「脱近代」をイデオロギーではなくテクノロジーをもって成し遂げようという試みだ。落合さんは巧みにも、「既に立ち現れているデジタルネイチャー」を冒頭で挙げ、読者を誘う。それは、「霧の中を走る車」だ。

 

 2017年秋、落合さんは本書の執筆に集中するため、山場の小さな宿場町を目指す。深い霧の中を、車は迷いなく進む。考えてみれば、不思議だ。人間の目では一歩先も見えない霧の中を、どうしてこの車は問題なく進むのか?

 それはGPS衛星によって正確なルートがはじき出され、フロントに設置されたカーナビゲーションシステムがドライバーに伝えるからだ。実はここに「デジタルネイチャー」が立ち現れている。

 霧に覆われた世界の中で考える。僕は今、感覚器の環境要因による機能不全を、電信系・外部記憶装置・モニターといったテクノロジーで補い、それを身体の一部のように感じながら進んでいる。その世界に手触りはなく、音と光の仮想的な情報から実在を感じ取っているに過ぎないが、カーナビに表示された電子の地図は、僕にとって第二の山道であり、信じるに足る〈計数的な自然〉なのだ。(p12)

 「仮想的」な情報が「実在」を左右する。それもシームレスに、コンピュータが人間の感覚器と直結し、融合し、補助する。それがデジタルネイチャーである。デジタルネイチャーは今後、「車の中」に限らず、もっともっと日常に染み出していき、完全に世界を内包するというのが、落合さんの「未来予想図」だ。

 

 朝起きて寝るまで、いや寝ている間も自然化したコンピュータに包まれる。そこではスマホなしで誰かとメッセージを更新し、言語を介さない形での意思疎通も可能かもしれない。いくぶんSF的に見える未来だが、実は既に実現している生物がいる。それが、クジラだ。

 

 クジラ(やイルカを含む海洋哺乳類)は、1キロ離れた仲間とシグナルで会話ができる。一匹一匹が「ホイッスル」という個別の識別信号も持っているという。周波数によって全体信号と個別信号を切り替えてやりとりする様を、落合さんは「生まれながらにスマートフォンを持っているようなもの」と表現する。

 クジラの「ブロードキャスト」的な交信が可能なのは、「海」という空間に包まれているからだ。デジタルネイチャーは人類にとっての「海」になりうる。手のひらのスマホに留められていたコンピュータがフレームの軛を破る時、人類はクジラのように電脳世界を生きるだろう。

 インターネットや電話網に近い情報伝達ツールを持つイルカやクジラが、2000万年かけて非言語的で非物質的なコミュニケーションを獲得したのなら、インターネット以降の我々がマルチメディア環境によって言語から現象のコミュニケーションへと以降するのも、進化論的な必然なのかもしれない。(p108)

 

BIとVCへの分化、なお残る「帝国」

 デジタルネイチャーは上記の「コミュニケーションの非言語化・非物質化」に留まらない。重要な概念として指摘されているのは「体験の自動化・三次元化」と「生産の個別化」だ。これも、既に立ち現れている。体験の自動化・三次元化はVRやMR。生産の個別化は3Dプリンティングがそれに当たる。つまり、消費も生産も、あるいは仕事も私生活も包括的に変容していく。

 

 進行するデジタルネイチャーはしかし、想像しやすいユートピアではない。それは「〈近代以前〉の多様性が、〈近代以降〉の効率性や合理性を保ったまま、コンピュータの支援によって実現される世界」(p57)だ。

 落合さんはカオス化よりも、分化が起こると予想する。一つは、機械の指示のもと働きつつ、効率化した金融商品や社会保障といった「ベーシックインカム」的なものを享受する世界(AI +BI)。もう一方は機械を利用して価値創造を起こす、ベンチャーキャピタル的な生き方をする世界(AI +VC)だ。

 

 注意すべきなのは、BI的世界は「労働から解放された世界」ではないことだ。

 (中略)アメリカでは既にこの二極分化の兆候が現れていて、挑戦的な事業をやりたい人はシリコンバレーやニューヨークなどの投資が活発な地域でビジネスを展開することが多い。それ以外の多くの人々は、地方で牧畜や農業、工場労働といったモデルのイノベーションとは異なった労働に従事されている。

 AIの発達によって、人類全体が労働から解放されるという楽観的な未来を予想する向きもあるが、おそらく現実にはそうならないだろう。確かにGoogleやAppleはAIによって、最小限の労働で済む超高生産的な環境を実現するかもしれないが、それは彼らだけの記録権益だ。アラブの石油王の利権を部外者が享受することはないように、GoogleやAppleがAIによって得た利潤を、その外部にいる我々が受け取ることはないだろう。(p185)

 デジタルネイチャーは、人類全てを内包する世界像だけれど、それを実践する可能性のあるテクノロジー企業はあくまで私企業である。それは既得権益を保有するし、テクノロジーの便益に対して「使用料」を徴収する。「近代」、いや「近代以前」から存在する「搾取構造」は今後も失われないし、ある意味で、メガテックによる「新たな植民地主義」が、顕在する可能性もある。

 

未来を先取りする「てこ」

 BI世界で超国家的な権力を持ち、VC世界でも寡占状態を狙うであろう、「帝国」の存在。この帝国に対抗するすべはあるのだろうか?

 

 ヒントはある。重要なツールとして「アービトラージ(裁定取引)」という「てこの原理」が紹介されている。これは、未来に生まれる資本を「先取り」する方法論だ。デジタルネイチャーにおける「生産の個別化」、それに伴う「限界費用ゼロ化」を活用して、未来にスケールしうるビジネスをプロトタイプする発想になる。

 

 たとえば、メルカリもアービトラージだ。誰かがリユースすることを先取りして値札をつけることで、所有物である衣服が商品になり、経済的価値を持つ。応用例としてアスクルも挙げられている。アスクルは使われない輪転機を借りることでコストダウンをはかる。「将来使われるけど、今は使われていない輪転機」を使うことで、未来の価値を現在に転換している。こうした手法は「シェアリングエコノミー」として新しいフロンティアを形成している。

 

 落合さんはこの「第三のてこ」の可能性をこんな風に総括する。

 高度に発達した資本主義の市場は、実質的にゼロサムゲームとなる。市場全体の富の総量は一定で、誰かが得た富は必ず誰かが失っているというルールだ。しかし「第三のてこ」によって、未来価値を現在に転換できれば、市場全体の富が拡大し、ゼロサムゲームではなくなる。そして富の源泉は未来に限らず、月を開拓したり、火星から資源を持ってきてもいい。要するに新しいフロンティアを見つけ、それを時間と資本の評価軸に乗せることが大事なのだ。

 そして、「第三のてこ」は銀行や投資機関のみならず、トークンエコノミーによって個人の富にまで対象を拡大し、より巨大な信用創造を可能にする。(中略)(p191−190) 

 

 「近代」が「主権的」「大量生産的」に社会を刷新してきたのに対して、デジタルネイチャーは「分散的」「個別的(実験的)」に漸進を図ることが可能になる。そこで得た便益を「オープンソース」としていく発想を加えられればなお望ましい。

 

 デジタルネイチャーは世界を統合する処方箋ではないけれど、二極分化を超克する、共生的なルートになりうるだろう。その意味で、本書は希望の書と言える。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂

 

 

 

 デジタルネイチャーのテクノロジー像は、1973年に発表されたイヴァン・イリイチさんの「コンヴィヴィアリティのための道具」にリンクします。産業革命後の道具や社会制度を「根源的独占」と批判し、「自立共生を促す道具」をどう生み出すかを考える。

www.dokushok.com

 

 デジタルネイチャーの基礎構造である「映像の世紀から魔法の世紀」「科学の再魔術化」などについて詳述されているのが、落合さんの前著「魔法の世紀」。「デジタルネイチャー」の補完となるし、単体としても刺激的な一冊です。

www.dokushok.com