読書熊録

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長い長い鎖の小さな輪ー読書感想「羊飼いの暮らし」(ジェイムズ・リーバンクスさん)

「羊飼いの暮らし」はイギリスで600年以上続く羊飼いの家系をつなぐジェイムズ・リーバンクスさんのエッセーだ。リーバンクスさんは言い切る。私の名前など残らなくていい。100年後も羊飼いの仕事が続いていれば、その土台のほんの一部が自分なんだろう。それでいい、と。

 

個人的なストーリーのようで、内包するテーマは大きい。自然と暮らすことの厳しさ。そうやって形作られた美しい情景が、観光として消費されるもどかしさ。現実と折り合いをつけながらタフに生きること。ファーマーが生きる場所から、都市に暮らす私たちはあまりにも遠い。でも、彼らの生き方はほんのり熱を持ったヒントになる。濱野大道さん訳。ハヤカワ・ノンフィクション文庫。2017年7月25日初版。

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羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

雨、臭い、血

リーバンクスさんはイギリスの「湖水地方」で、フェルという山岳地域を含む農場を営む家系に生まれ育った。「ファーマー」の祖父の背中を追いかけていた。祖父を世界の誰よりも尊敬してきた。父もまたファーマーで、衝突を繰り返しながらも共に農場を営んできた。そんなリーバンクスさん自身、ファーマーであるし、ファーマーであることが自分自身であると深く理解している。

 

羊飼いと聞くとまさに牧歌的なイメージだった。だけど、全く違う。ファーマーの暮らしは過酷そのものだ。たとえば冬。目覚めの情景はこんな様子だ。

 窓を叩きつける風と雨の音に目が覚める。ベッドに横になったまま外に眼を向けると、薄汚れた茶色いじゅうたんが敷かれた谷の姿が見える。ヒース、泥、骸骨のようなオークの木。遠くの峡谷から、小川の激流が石にぶつかる轟音が聞こえてくる。フェルの頂上を覆うのは、鈍色の雲。朝、窓の外を見るわずかな瞬間が、どんな一日が待ちかまえているかを教えてくれる。ウォーキングブーツで作業できる楽な一日になるのか、防水仕様の防寒着を着込んでの闘いのような一日になるのか。(p282−283)

自分だったらそのまま布団にもぐりこんで寝ていたいけれど、ファーマーにそれは許されない。朝起きた瞬間から、極寒の中、雨と風が吹きすさぶ。そんな中、当然、外での仕事が山のようにある。羊はリスケジュールを許してなんてくれない。

 

あるいは冬に備えた干し草の一部が腐り、それを処分するときにはひどい臭いが漂う。その時の様子をリーバンクスさんは思わず鼻をつまみたくなるように伝えてくれる。

(中略)しかし、この水浸しの巨大なガラクタを牧草地から撤去するのは、死体を動かすようなものだった。残酷で、不快で、無意味で、腐臭まみれの仕事だった。私たちは、数千の梱を石造りの納屋の廃墟に移動することにした。それから一端に火をつけると、遠くに離れて様子を見守った。が、呪われた物体はなかなか燃えず、何週にもわたって陰気にくすぶりつづけた。(p109−110)

残酷で、不快で、無意味で、腐臭まみれの仕事でも、やらなくてはならいのがファーマー。それを放置しても、誰かがやってくれることなんてないのだから。

 

血も流れる。2001年に発生した口蹄疫では、ほとんど戦争のように数多くの羊の命を、人の手で奪わざるを得なかった。

(中略)これほどまちがっていると感じられることをしたのははじめてだった。これまでの教えのすべてに反することだと感じずにはいられなかった。

(中略)処分された羊の多くは、祖父が一九四〇年代に買いつけた優れた雌羊の子孫たちだった。六〇年間の積み重ねは、わずか二時間で吹き飛んでしまった。(p248)

淡々とした言葉に深い悲しみが滲む気がする。湖水地方で続いてきた羊飼いの歴史は600年超。そのうち60年間のバトンを引き継いだ祖父の努力が、たった2時間で消える。それでも、ファーマーは生きていく。いや、生きていかなくちゃならない。

 

もっとタフになる

ファーマーはこんな厳しい環境をどう生きぬくのか。答えは、タフになること。羊の毛狩りで、熟練の父にまったく及ばずヘトヘトになっていたリーバンクスさんは、結局のところこんな考えに行き着いた。

 しかし、このような場所で成長すると、タフな仕事の連続によって甘い考えは消えていく。自分がもっとタフになるか、逃げ出すしか選択肢はない。口先だけの人間はすぐにボロを出し、その場に坐り込み、昼下がりにはもうへとへと。同じころ、ベテランの羊飼いたちは、いま仕事を始めたばかりにのように黙々と働きつづける。(p60−61)

 

タフになることは傷つかないことではない。むしろ多少の傷を気にせず生きていくことになる。それは「バーク」という言葉に表れる。樹皮を意味するこの言葉が、ファーマーの間ではこんな風に使われる。

 「父さん、手が切れてるよ」

 「こんなの怪我のうちに入らない。ちょっとぶつけてバークが剥がれただけだ」

 出血が止まり、かさぶたができ、いずれ傷は治るーー農場の生活のなかでは、血はいたって正常なものだ。(p337)

ちょっとした傷は人間の「バーク」が剥がれただけ。大したことはない。傷はやがてかさぶたになって、治る。だからファーマーは過酷な環境に臆することはない。

 

リーバンクスさんは表紙にも書いてある通り、オックスフォード大学を卒業している(その経緯はリーバンクスさん、いや、ファーマーの家系に生きるものならではの家族との衝突や反発の先にあるので、ぜひ本書で確かめてほしい)。だからこそ、ファーマー以外からファーマーがどう見えるかを熟知している。そしてその距離感を冷静に眺める。特に、風光明媚な湖水地方を「楽しむ」観光客に目を向ける。

 

観光客の目には、ファーマーの暮らしは映らない。ただファーマーが築き上げた農場や、丹精込めて育てている羊の群れを「景色」として味わう。リーバンクスさんは端的に、そうした観光的消費への疑問を言葉にする。

(中略)横殴りの雨のなか、あるいは雪の降る冬のあいだ、観光客はひとりも来ない。だとすれば、彼らの”湖水地方愛”は好天の季節限定なのだろうか?(p136)

観光客は朝から憂鬱になる冬の寒さも、ダメになった干し草を焼く嫌なニオイも、あかぎれもかさぶたも、見ていない。ましてや体験する気なんてない。逆に言えば、ファーマーはその全てを受け入れるからこそ、自然と持続可能な関係を結ぶ。タフであることは、ファーマーにとって自然と生きるための最低条件でもある。

 

長い長い鎖の小さな輪

こんな過酷な暮らしは、本当に楽しいんだろうか?とちょっと思った。しかし、まさにリーバンクスさんをはじめファーマーは、ファーマーであり続けることを持って想像を超えた喜びに出会う。雨の日も風の日も、冬も夏もファーマーであり続けるからこそ、見えるものがある。本書ではいろんな表現で、随所にちりばめられているけれど、「長い長い鎖の小さな輪」という表現が気に入っている。

(中略)山は人を謙虚にさせ、人間の尊大さや勘違いを一瞬のうちに根こそぎにする。私は共有のフェルを利用する牧畜業者のひとりであり、歴史の浅い小規模な農場の運営者にすぎず、長い長い鎖の小さな輪でしかない。おそらく一〇〇年後には、私が羊を山で放牧していたことなど、なんの意味もない事実になる。きっと、私の名前を知る者は誰もいなくなる。しかし、そんなことはどうでもいい。一〇〇年後もファーマーたちが同じフェルに立って同じ仕事をしているとすれば、そのほんの一部を作り上げたのは私なのだ。いまの私の仕事が、過去のすべての人々の働きの上に成り立っているように。(p396−397)

鎖はつながっている。リーバンクスさんは、今の自分の仕事と生活が、過去のあらゆるファーマーの働きの上に成り立っていることを知っている。同様に、自分の仕事が未来のファーマーにとっての礎になる信じている。過去と未来の、壮大な流れの、結節点にいるという確信が、リーバンクスさんをタフにする。

 

この感覚は、私たちに一番欠けているものかもしれないと思う。今の空気はむしろ、鎖を断ち切ることに必要以上の価値を見出してはいないか。過去を否定して、自分が新しく、なるべく個性的で大きな、鎖の起点になることがもてはやされている。でも結局は、誰かが引き継ぐことでしか鎖は成り立たない。無数の「続ける」という努力と決意によって、過去は未来へ引き継がれてきた。 

 

自分の名前なんてどうでもいいと思えることが、穏やかでどっしりとした、人間の幸福なのかもしれない。めくりめく四季の、ほんのワンシーンになるように。

 

今回紹介した本は、こちらです。 

羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

「羊飼いの暮らし」はビビットに、イギリスのファームの様子を目に浮かべさせてくれました。同じような体験は、前田将多さんの「カウボーイ・サマー」でもあったなあ。北米の草原、そこに実在する、生活を送るカウボーイに出会えます。

www.dokushok.com

 

リーバンクスさんの言葉は、実際に羊飼いであるから紡ぎ出せる生活者の言葉。「あるノルウェーの大工の日記」もまた、同じように手触りのある言葉に触れられます。

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