読書熊録

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もっとも小さな独裁主義ー読書感想「説教したがる男たち」(レベッカ・ソルニットさん)

男性が女性に説教することはもっとも小さな独裁主義である。それは女性を無知で無力な存在だと断定し、さらには「道具」のように扱うことをよしとする。たかが説教ではないんだと、「説教したがる男たち」を読めば分かる。

 

これは自身が女性として、あるいは女性の研究者・文筆家として様々な差別に直面したレベッカ・ソルニットさんの怒りの書でもある。男性が女性へ説教することを「当たり前」としたとき、それは憎むべき文化の種になる。「レイプカルチャー」である。種が芽を伸ばし、花開いた先に、女性へのおぞましい暴力と支配がある。民主主義が独裁者を生まぬよう絶えざる努力が必要なように、我々は、特に男性は、内なる独裁主義に目を向けなければいけない。ハーン小路恭子さん訳。左右社、2018年9月10日初版。

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説教したがる男たち

説教したがる男たち

 

 

男尊女卑はコントロールの収奪

「説教したがる男たち」は、ソルニットさんがまさに説教された経験を出発点にする。その男性はパーティーで会ったソルニットさんが研究者と知ると「その分野で非常に重要な書籍が出版されたのを知っているかね」と「説教」した。

ソルニットさんは唖然とした。なぜならその書籍の著者がソルニットさん自身だったからだ。それを知った男性も唖然とした。男性の頭の中には、目の前の女性が聡明な研究者だという認識は露もなく、「自分が教えてやるべき存在」だったのに、覆されたからだ。

 

これは「男」の問題ではなく「男たち」の問題なんだとソルニットさんは示す。たとえば、このエッセイが書かれた2013年、サンフランシスコの路上では、男性が性的な誘いを断られた女性を切りつけるという事件が起きた。ソルニットさんはここに「独裁主義」を見出す。

 つまり、別の言い方をすればこの男は、自分が選んだ被害者にはいかなる権利も自由も存在せず、自分だけが相手をコントロールし、罰する権利を持つような状況をつくり出した、ということだ。ここで思い出されるのは、暴力とは何よりもまず、独裁主義のようなものだということだ。その前提はこうだーー私には、お前をコントロールする権利がある。(p34-35)

女性を切りつけた男は「女性をコントロールする権利」があると思っていた。そして重要なのは、コントロールする権利が肝心の「女性本人にはない」としていることだ。だからこそ性的な誘いを断ることを許さず、一方的な罰を与えた。相手をコントロールし、コントロールされる相手の権利を踏み潰すこと。それはまさしく独裁主義だ。

 

だから男尊女卑というのはコントロールの問題なのである。それは差別の問題の枠をもう超えていると言っていい。男性が女性に説教をするとき、その男性は目の前の人をコントロールできることを「確認」し「履行」させようとしていると言っていい。

 

醸成されるレイプカルチャー

そんな大げさな、と思う男性もいるかもしれない。でも、そうではないのだ。説教は独裁主義の最も小さな形式であるだけで、独裁主義であることは免れない。男性から女性への独裁主義が最悪の形で発現するとどうなるだろう?それは先に例示されたような性犯罪、すなわちレイプである。

説教とレイプは女性をコントロールする権利の表出として地続き。説教をすることで、レイプが可能な環境を「醸成」している。これこそがまさに「レイプカルチャー」である。

 

レイプカルチャーとは、女性を「無力化」する空気だ。女性の言葉はいつも無視されてきた。ソルニットさんはまるで、ギリシャ神話のカサンドラだと嘆く。正確な予知能力を持っていたのに、カサンドラには誰にも信じてもらえない呪いが掛けられ、誰もその言葉に耳を貸さなかった。

 たいして珍しいことではない。女性が男性、特に体制の中心にいる人物を批判すると、女性の主張が事実であるかどうかはおろか、話をする能力やその権利があるかどうかまで疑いにかけられる。何世代にもわたって女たちは、現実が見えていないとか、混乱しているとか、人を操ろうとしているとか、悪意に満ちているとか、陰謀を企てているとか、もともと不正直な性格だとか、大概その全部に当てはまるとか言われてきた。(p127-128)

女性の主張を認めないどころか、人格批判まで至る。これはソルニットさんの周辺に限ったことではなくて、日本でも容易に想像ができる。痴漢に遭った女性の服装が問題になるのはなぜだろう?レイプ被害を訴えた女性に高度な立証が求められるのはどうして?

 

男性の自分は夜中に異性につきまとわれる経験をしたことがない。「それはあなたが不用心だからだ」なんて言われたことがない。それは男性がレイプカルチャーにおいて「コントロールする側」であり、「コントロールを奪われた側」ではないからだ。

 

だから自分はソルニットさんのこんな言葉にはっとさせられる。レイプカルチャーがどれほど、人類の半数を占める人たちの可能性を奪ってきたのか。

 書いておきたいことはほかにもあるが、一番大事なのはこれだ。人類の半数の生命は、そこら中に蔓延する多種多様な暴力にいつまでもつけ狙われ、消耗させられ、ときには奪われることさえもある。生きのびるだけでこんなに大変でなかったら、どれほどの時間とエネルギーをほかの大事なことに使えるか、考えてみてほしい。例えば私が知っているもっともすぐれたジャーナリストのひとりは、夜に近所を歩いて家に帰るのがこわいと言っていた。彼女は遅くまで仕事をするのをやめたほうがいいのだろうか? どれほど多くの女性が、似たような理由で仕事をしなくなったり、していた仕事を中断せざるを得なくなったりしているのだろう?(p48)

何度でも肝に銘じるべきだ。男性が女性に説教するというのは、コントロールの収奪だ。そしてそれはあらゆる面において、女性のコントロール権を男性に与えて良しとするレイプカルチャーの種だ。そして、女性を消耗させ、可能性を奪い、人類が持っている力の半分を減耗させるすさまじい「無駄」だ。

 

暗いのこそ最良の形

だから到達を目指すゴールは「性犯罪のない社会」ではない。それは真の自由の達成。女性が自分以外の誰かにコントロールされることのない、自分で自分をコントロールして、あらゆる自由に向かっていける社会だ。

 

男性が女性に説教をしないためには、レイプカルチャーを手放さなくてはならない。どうやったらいいんだろう?ソルニットさんの文章の中で、第一次大戦期のイギリスで作家をしていた女性ヴァージニア・ウルフさんに触れた章にヒントが隠れているように思う。この章ではウルフさんの「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」という言葉を紐解いていく。

ソルニットさんは、現代の我々は未来の不確実さ=闇だけじゃなくて、過去の暗さにも向き合えていない、と書く。その上でこう続ける。

(中略)自分や母親や有名人の人生について、特定の出来事や危機的状況や異文化について、 誠実さをもって書くということは、張りめぐらされた闇に、歴史の夜に、不可知の場所に、何度となく立ち戻ることなのだ。これらの闇が教えてくれるのは、知識には限界があるということだ。確かな情報もないのになぜかしらだれかが考えたことや感じたことがわかる、という感覚からしてそうで、本質的には多くのことは謎につつまれたままなのだ。(p101)

不可知の場所に立ち戻ることが「誠実さ」である。これは、男性の女性への眼差しにあっても重要なことなんじゃないかと感じられた。

 

コントロールとは欲望であり、恐怖なんだろうと思う。本質的に異なる存在である女性を「分かるもの」としたいからこそ、コントロール権を持ちたい。自分にとって理解可能な範疇に押し込めたい。それは、そうしなければ怖いからだ。「分からない」のは怖いからだ。

 

だからこそ、ウルフさんの語るように「暗いことこそ最良」だと、何度も何度も口に出してみる必要がある。男性にとって女性が分からなくてもいい。それこそが最良だと思えた時に、女性へ説教したいとは思わないんじゃないか。

分からないものへの許容度、「構え」持つ。その意味で、レイプカルチャーへの抗いというのは、たとえば本を読むとか、異文化に触れるとか、身近な「謎」への誠実な姿勢の積み重ねなのかもしれない。

 

今回紹介した本は、こちらです。

説教したがる男たち

説教したがる男たち

 

 

性犯罪の被害に遭った女性がどれほど無力化されるかは「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」を読めば痛いほど理解できます。大学や社会がレイプにどう向き合っていくか、という点でも勉強になりました。

www.dokushok.com

 

ソルニットさんの縦横無尽な知とリズミカルで熱量のある文章が、ともするとミソジニーの喧騒に紛れがちなこのテーマを非常に飲み込みやすくしてくれています。もっとこの作家さんを読んでみたい、という方には、「歩くこと」をテーマに思索を展開する「ウォークス 歩くことの精神史」をどうぞ。

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