読書熊録

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移民の否認は人間の否認ー読書感想「ふたつの日本」(望月優大さん)

日本政府は、日本に移民がいることを否定する。データを丁寧に紐解けば日本が移民国家であるのは明らかなのに、頑なに否認する。望月優大さんの「ふたつの日本 『移民国家』の建前と現実」は、そんな態度に真っ向から相対する。移民を否認することは、人間を否認することなんだ、と。

 

望月さんは移民の情報や移民文化の複雑性を伝えるウェブメディア「ニッポン複雑紀行」の編集長。現場に身を寄せながらも、あくまで冷静にファクトを積み上げて、見えにくい移民問題を整理する。人生の予測不可能性を収奪されていること。単純労働に追いやられ、それが不可視化されていること。移民の周囲に張り巡らされた欺瞞が、実は「日本人」にものしかかっていることに気付く。講談社現代新書。2019年3月20日初版。

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ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

 

人間を人材に漂白する

本書の学びの第一は、なぜ政府が移民を否定するのか、その思考法が読み解けることだ。それは日本に来る外国籍の人たちを、「人間」ではなく「労働力」と見るためだ。生活を持ち、家族を抱え、人と繋がる複雑な人間を「外国人材」に漂白するためだ。

 

望月さんは冒頭、1990年ごろに来日し、日本に30年近く暮らす50代のペルー人夫婦を紹介してくれる。最初は1年間の出稼ぎのつもりだった二人は、雇用契約を更新し、在留資格も更新し、日々を重ねてきた。30年間でペルーに帰ったのはわずか2回だという。

夫婦は労働者として日本に来たけれど、そこから生活を紡ぎ、移民になった。日本に住み続けることを決めたきっかけは「娘が生まれたとき」だという。望月さんはこの「人生の予測不可能性」に目を向ける。

 そもそもこうした人生の予測不可能性は外国人に限った話ではまったくない。

 例えば、私は今いる街に10年近く住んでいるが、住み始めた頃にはこれほど長く住み続けるとは思ってもいなかった。そして、これからまだ人生が続くとして、例えば2年後、3年後に自分がどこに住んでいるかを予想することも簡単ではない。いつ誰と家族をつくるか、どんな仕事につくか、自分を取り巻く様々な環境の影響で、誰にとっても住む場所は変わったり変わらなかったりするものだと思う。(p26-27)

人生の予測不可能性は、「日本人」にも備わっている。予測不可能性があるから人生なんだし、人間なんだと言ってもいい。

 

移民の否定は、人間からこの予測不可能性を奪うことだ。予測可能な「単身で、健康で、いつか帰る外国人労働者」(p33)に組み替えることだ。その条件に合意して日本に来たんだろう、と彼らに向かって言えるだろうか。それはほとんど、人間を奴隷化する試みだとは言えないか。

 

フロントドアとサイドドア

政府が移民を認めないために、日本には移民がどれぐらいの人数いるのか、統計が存在しない。望月さんは政府が設定する在留カテゴリーの統計を分析し、日本に移民に当たる人がどれほどいるかを数字で示す。本書の一つの柱にあたる部分だが、その読み応えはぜひ実際に手にとって味わってほしい。

 

この分析の延長で注目したのは、日本の「フロントドア」「サイドドア」の存在だ。政府はフロントドア、つまり正面からは「専門知識を有する外国人材」のみを受け入れていると言う。しかし実際はサイドドア、勝手口から「日系人」「研修・技能実習生」「留学生」を大量に招き入れている。このサイドドアの人材が実は日本の非正規雇用を支えている。

 留学生アルバイトが非正規雇用であることはもちろんのこと、ブラジル人労働者についても「派遣・請負」の比率が55.1%で半数を優に超えている。技能実習生に至っては、最低賃金違反などの悪質な事例も数多く指摘されており、非正規雇用の中でもより一層下位のレイヤーへと組み込まれている。

 相対的な専門性の低さは、ほかの労働者との代替可能性の高さを意味する。そして、その交換可能性の高さが低賃金と過酷な労働の受忍を要求することにもつながっていく。「いわゆる単純労働者」という言葉の背後には、日本人の非正規労働者の増加とも一体となった、「安価で不安定な労働者たちの世界」が広がっているのだ。(p95)

「いわゆる単純労働者」はフロントドアから入ってこないといいつつ、実際はサイドドアから流入し、紛れもなく「いわゆる単純労働者」となっている。そしてこの実態の中にはまたしても、「日本人」の姿が映る。予測不可能性があらゆる人間に備わっていることに似て、外国人を不安定な非正規雇用へ押しやる波は、「日本人」をも飲み込んでいる。両者は一体なのだ。

 

「彼ら」から「私たち」へ

移民を考えるほどに「日本人」の姿が見える。だからこそ、終盤に登場する望月さんのこの言葉を噛みしめたい。

 「移民」 を否認する国は、「人間」を否認する国である。人間を否認する国とは、社会の中でしか生きられない私たちから社会的な支えを剥奪する国である。社会統合の対象は外国人だけではない。この国に生きるすべての人々が対象だ。

 今、目の前にふたつの道があるーー。撤退ではなく関与の方へ、周縁化ではなく包摂の方へ、そして排除ではなく連帯の方へ。これは「彼ら」の話ではない。これは「私たち」の問題である。(p217)

移民の持つものは「日本人」も持っている。予測不可能性をつねに抱えていて、不安定な非正規雇用ではなく安定的な仕事を望んでいる。だから移民問題は「彼ら」の問題ではない。「彼ら」を含む「私たち」の社会の問題だ。

 

本当は、ここから始めなくてはいけないし、望月さんも「どうすれば私たちは、移民も日本人も一緒になって、社会を統合していけるのか」という議論をしたかったはずだ。でも、その土台は整っているとは言えない。だからこそ本書は、現状認識に紙幅を費やしてくれている。

 

そう考えると、最初の最初、政府が移民に「移民」という言葉を与えなかったことを問題視せざるを得ない。言葉を奪われた存在は、社会の中でも「ないもの」として扱われる。移民問題が「実習生問題」や「不法滞在問題」に切り分けられ、その背後のつながりが見えにくくなっているのはそもそも、この国で「移民」という言葉が封じられてきたからだ。

 

言葉に注意する。言葉が言い換えられたとき、失われたとき、そこには統合から排除へ向かう「引き波」が起こる。だから反対に、移民問題は「私たち」の問題だと言い続けるだけでも、問題を問題として手繰り寄せる力は、きっとある。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

 

 

移民、外国にルーツのある人との共生は、これからも日本社会のテーマであり続けます。いまの状態で日本が進むと、社会はどうなるのか。それを見通すために藤井太洋さんのSF小説「東京の子」は大変参考になる。2020の宴を終えた後の日本が舞台です。

www.dokushok.com

 

「ふたつの日本」の中にも登場するジグムント・バウマンさんの「コミュニティ」は、「撤退の時代」を読み解く際のテキストにぴったりです。他者と断絶し、壁を築くことは歴史的潮流になりつつありますが、その中で私たち個人は何ができるのだろう。 

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