読書熊録

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分断されないために読む本ー読書感想「アイデンティティが人を殺す」(アミン・マアルーフさん)

ヘイトが溢れている今だからこそ、本書「アイデンティティが人を殺す」を読む意味がある。分断されないために、憎しみ合わないために、この本のアイデンティティ論を学びたい。

 

著者はレバノンで生まれ、内戦を機にフランスへ移住した作家アミン・マアルーフさん。あなたはレバノン人なのか?フランス人なのか?という問いに絶えず晒されてきた。だからこそ、そうした「本質的な自己」「絶対的な帰属先」がアイデンティティだと考える危険性を丁寧に訴える。アイデンティティとは、与えられるものではなく人生を通じて構築し、変容するものだ。そう思えればこそ、多様性の共存が可能になる。小野正嗣さん訳。ちくま学芸文庫、2019年5月10日初版。

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アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

 

 

アイデンティティは皮膚の上の模様

あなたはフランス人なのか、レバノン人なのか。そのどちらもが自分自身に含まれていると言えば「半分がフランス人で、半分がレバノン人ってこと?」と返ってくる。そうじゃない、とアミンさんは語る。

 ということは、半分がフランス人で、半分がレバノン人ってこと? とんでもない! アイデンティティを切り分けることはできません。半分に分けたり、三つに分けたり、細かく区切ったりはできないのです。私には複数のアイデンティティなどありません。ただ一つのアイデンティティしかないのです。このアイデンティティはさまざまな要素から成り立っているのですが、ただ、その〈配分〉が人ごとにまったく異なるのです。(p10)

アイデンティティとはさまざまな要素の〈配分〉である。究極的なアイデンティティがあり、それを性質や趣向が装飾しているのではない。少し先に出てくるこのフレーズも、同じことを言っている。

 アイデンティティはただ一度きり与えられるものではありません。人生を通じて構築され変形されていくのです。(p 32)

もちろん生得的な人種や民族もアイデンティティだ。しかしそれは一度きり与えられるものではない。むしろ、「日本人」として生まれた人が、日本の社会で自分を日本人として実感する機会を重ねることで、「日本人」としての認識を構築していく。

 

一方で「ただ一つのアイデンティティしかない」というのもポイントだ。さまざまな要素一つ一つが「自分」に不可欠なものであると同時に、単発ではなく集合こそ「自分」。つまり「一は全、全は一」ということだ。アミンさんはこれを「アイデンティティは皮膚の上に描かれた模様なのです」と表現する。

(中略)ここまでずっと、アイデンティティは数多くの帰属から作られているという事実を強調してきました。しかし、アイデンティティはひとつなのであって、私たちはこれをひとつの全体として生きているという事実も同じくらい強調しなければなりません。ある人のアイデンティティは、自律したいくつもの帰属を並べ上げたものではありません。それは「パッチワーク」ではなく、ぴんと張られた皮膚の上に描かれた模様なのです。たったひとつの帰属に触れられるだけで、その人のすべてが震えるのです。(p 36)

パッチワークのように、ある人のアイデンティティの一部を取り外すことはできない。その一部を傷つければ、その人の全身が痛みを感じる。その人は多彩なアイデンティティを持ち、そのどれもがその人なんだ。こう思えれば、どんな小さなヘイトもすべきではないと納得できる。

 

時代のキーワードは不信

 自分はキリスト教徒だ、イスラム教徒だ・・・。究極的なアイデンティティに傾倒した時、それは「狂信」になる。戦争、紛争はここから起こる。宗教が分かりやすいけれど、宗教に限らない。アミンさんは「誰も狂信をひとり占めできない」と語る。

 いま私が言ったことは、宗教を信じていない人々のお気に召したかもしれません。しかしそういう人たちには思い出してもらわなくてはなりません。独裁や迫害を生み、あらゆる自由と人間の尊厳を破壊してきた二十世紀の最悪の厄災は、宗教的な狂信ではなく、宗教の批判者を自認していたーースターリン主義がそうですーー、あるいは宗教に背を向けていたーーナチズムや他の民族主義的な教義がそうですーー、別種の狂信によってもたらされたのだということを。(中略)

 二十世紀が私たちに教えてくれたのは、どんな教義であってもそれだけでは自由をもたらすとは限らないということになるでしょう。共産主義、自由主義、民族主義、偉大な宗教、そして世俗主義でさえも、つまり、ありとあらゆる教義が脱線し、異常なものになりうるのです。あらゆる教義の手は血で汚れているのです。誰も狂信をひとり占めすることはできません。逆に言えば、誰も人間性をひとり占めすることはできないのです。(p 65)

 

あらゆる教義が狂信に脱線しうる。それはあらゆるアイデンティティが、他人に牙を剝くヘイトに繋がりうると言い換えてもいい。20世紀でこの事実を学んだ私たちは、もう過ちを繰り返さないのだろうか。そうではない。絶対的な帰属先を欲しがる誘惑は、むしろ高まっているようにも思える。その根底には「不信」があるということが、アミンさんの言葉を追うと見えてくる。

 不信は、間違いなく私たちの時代のキーワードのひとつです。イデオロギーに対する不信、よりよい明日というものに対する不信、政治、科学、理性、近代に対する不信。進歩の概念に対する不信、二十世紀ーー有史以来前例のないほどの偉業を成し遂げてきた世紀、しかし許しがたい犯罪とかなえられなかった希望の世紀ーーを通じて私たちが信じてきたほとんどすべてのものに対する不信。さらにまた、グローバルだとか世界的だとか地球規模だとか形容しうるすべてのものに対する不信。(p116)

何もかも信じられない。希望さえ信じられない。それが時代の空気である気はしている。だからこそ、信じられる何かへ傾き過ぎてしまう。21世紀は過ちを繰り返した先に足場が広がったように思えて、実は平均台の上のようになってしまったかもしれない。奈落ばかりが拡大したのかもしれない。絶対的なアイデンティティを求めることは危険だと頭で分かっても、心は狂信を求めているかもしれないことは、自覚してもしすぎることはないんだろう。

 

役に立つ/装飾的だけでは

本書の後半は、多様なアイデンティティを守るために言語が重要だという話に移る。そのエッセンスは、動植物の多様性を守るように言語の多様性を守らねばならない、ということだ。

 

なぜか?ともすれば、いまは「役に立つ」ものしか残らないからだ。もっとも効率的で合理的なもの以外は、それを「装飾する」ほんの一部以外、なくなっていくからだ。

 私たちが動植物の種の多様性に傾けているような注意を、人間文化の多様性に傾けるべきではないでしょうか? 自然環境を守りたいという私たちのかくもまっとうな意志を、人間環境にも広げるべきではないでしょうか? 「役に立つ」種がいるだけで、あとは「装飾的」に見える、あるいは象徴的な価値を持った種がいくつかあるだけになってしまったら、自然環境の点でも人間環境の点でも、私たちの地球はなんとも哀れな星になってしまうでしょう。(p152)

この警鐘は胸に留めたい。いまは「役に立つ」ものの声が大きくなっている。大きくなりすぎているのかもしれない。本で考えてみる。役に立つ=多くの人に求められ生かされる本だとすれば、ベストセラーだけしか本棚には並ばない。もしかしたら本書も、脱落リストに名を連ねるかもしれない。その時はきっと狂信が燃え上がり、「役に立つ」人たちが「役に立たない」人たちを傷つけ虐げているだろう。

 

人はいくつもの帰属先を持ち、そのすべてが大切だと思えた時、狂信をようやく追いやられる。「私たち」と「彼ら」の分断を乗り越えられる。

(中略)もう単に「私たち」と「彼ら」ーー次の対決や次の反撃を準備している、戦闘状態にあるふたつの軍隊ーーが存在しているのではありません。「私たち」の側にも、私とほんの少ししか共通点のない人はいるし、彼らの側にも、私が自分ときわめて近いものを感じられる人たちがいるのです。(p42)

 

今回紹介した本は、こちらです。 

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 アイデンティティの大きな要素であり、分断の火種にもなりうる民族や国籍。でもその問題は欧米の話でしょう、と思ったとすれば「ふたつの日本」を手にとってほしいと思います。日本も既に「移民国家」であることが学べます。

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差別や分断の問題は、小説を通じても考えられます。特に、ジェンダーの分断は、分断「している」側になりがちな男性には見えにくいもの。「82年生まれ、キム・ジヨン」を開けば、はっきりと可視化されると思います。

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