読書熊録

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ジョブズのリンゴは平均時代を終わらせるー読書感想「純粋機械化経済」(井上智洋さん)

経済学者・井上智洋さん「純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落」は、「サピエンス全史」並みの話題書になるはずだ。そのぐらいのインパクトがある。本書は、AIによる時代変化を、テクノロジー論、経済論、未来予測だけでなく「人類史」のスコープで超大局的に捉えている。これは文明論だ。

 

本書の学びをワンセンテンスで表すとすれば「アダムのリンゴ(農耕化)、ニュートンのリンゴ(工業化)に続く三つ目のジョブズのリンゴ(情報化)は、頭脳資本主義をもたらし、平均的な仕事が多くの人に与えられた時代を終わらせる」。そしてその「大分岐」にあって、日本は停滞から衰退に移った清朝末期の中国に似ている。危機感が湧くとともに、シンプルにこう思う。人類史で見るAIは、こんなにも面白いのか。日本経済新聞出版社、2019年5月23日初版。

純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落

純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落

 

 

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アベレージ・イズ・オーバー

AIがもたらす変化を井上さんは「テイクオフ」と表現する。走り出した飛行機が空中に浮かび上がるくらい、決定的に事態が異なるからだ。同じような変化は、農耕革命、産業革命として人類史に記録されている。これを「三つのリンゴ」と表現する。

 人類の歴史には、三つのリンゴに象徴される劇的な変革があった。

 一つ目はアダムのリンゴで、これは紀元前9000年頃に始まった農耕革命を象徴している。この革命によって、狩猟採集社会から農耕社会への転換がなされた。(中略)

 二つ目のニュートンのリンゴは、ニュートンがリンゴの木からその実が落ちるのを見て万有引力を思いついたという逸話から、17世紀の科学革命とそれに続く工業革命(第一次・第二次産業革命)の象徴と見なすことができる。(中略)

 三つ目のジョブズのリンゴは、情報革命(第三次・第四次産業革命)の象徴だ。このリンゴは、言うまでもなくジョブズらが設立したアップルを指している。情報革命による工業社会から情報社会への転換が、今まさに進行中だ。(p469-471)

アダムのリンゴ、ニュートンのリンゴ、ジョブズのリンゴ。AIがもたらす変化は、人類三度目の衝撃と見ていい。一過性のブームではない。紛れもない大分岐だ。

 

では大分岐の先には何が待っているのか?それは「頭脳資本主義」だ。これは本書のサブタイトルにも入ってくる重要なキーワードだった。頭脳資本主義は「知識集約型」の資本主義だ。これまでの「労働集約型」の資本主義とは明らかに異なる。つまり、労働力をまとめて大量投下することが勝ち筋だった経済から、高度な知識を有する特定の人間が富を独占する経済になる。

 日本ではまだ鮮明な形で表れていないが、アメリカでは既に、IT産業や金融業に従事するごく一部の高い知力を持った労働者が、莫大な富を生み出している。

 これからあらゆる産業が、労働集約型ではなく知識集約型になっていく。知識集約型産業というのは、単純な労働力ではなく知力がより必要とされる産業だ。言い換えると、頭脳資本主義というのは、多くの産業が知識集約型になった経済を意味している。(p55)

 

頭脳資本主義は何をもたらすのか。労働集約型の産業が知識集約型に切り替わった時、何が起こるのか。それは「アベレージ・イズ・オーバー(平均の終わり)」。労働力を提供して平均的な報酬を手にできる中間層的な仕事が消滅していく。

 

どういうことか。10人でやっていた事務仕事をアプリ1個が代替するなら、10人分の労働力が余剰になる。しかし、重要なのは労働力ではなく知力だ。

余剰の10人が、頭脳資本主義が求める知力水準を達成するとは限らない。すると、10人の一部はエンジニアなどAIを動かす仕事に変わる一方で、そこに行けない労働者はもっと単純で低賃金な仕事に従事するしかない。

井上さんはこの流れを「労働移動の逆流」と呼び、これまでの産業革命とは異なっていると指摘する。

 これは重要な点で、情報社会では工業社会とは異なる現象が起きていることを意味する。工業社会では、電気掃除機や冷蔵庫、テレビなど多くの新しい財が生み出されて、そうした財を生産するために労働者の需要が増大し、農村の余剰人員を吸収した。

 ところが、情報社会では続々と新しいスマホアプリやネット上のサービスが生み出されているが、事務職などで生じた余剰人員の多くは、そうしたハイテク分野には転職しない。そうではなく、介護や清掃などの昔ながらのローテクの仕事に従事するようになる。言わば、労働移動の逆流が起きているのである。(p192)

その上で、こんな残酷な未来予測を突きつける。

 頭脳資本主義においては頭脳を振り絞って稼ぎまくるか、そうでなければ頭脳を使わずに体をほどほどに動かす安い賃金の労働に甘んじるしかない。その中間くらいのほどよい生活は営み難い。アベレージ・イズ・オーバー。「平均は終わった」のである。

 

諸国併存が発展を生む

AIがもたらす「テイクオフ」に初めて乗り出すのは中国だろうと井上さんは読んでいる。一方で、日本は一番乗りとはとてもいかないだろうと。むしろ「日本は清朝末期に似ている」という警句を告げる。

清朝末期とはどんな時代だったのか。一言で言えば、「夜郎自大」だった。

 明や清は分裂状態になく、長期間比較的安定状態を維持できた。明は北方のオイライトやタタールの侵攻を受けたが、絶え間ない交戦にさらされるような事態には至っていない。軍事的な危機が少ないので、交易を行って商業の拡大を図ったり、技術を進歩させる必要もなかった。平和にあぐらをかいて、言わば夜郎自大(世間知らずで自信過剰)に陥っていたのである。(p347-348)

長期の安定が鈍りを生んだ。にも関わらず、大国としての自信だけは持っていた。確かに耳が痛い。今のこの国の様子が重なって見えるからだ。

 

安定が停滞を生むということを裏返すと、一定の混乱は発展を生み出すとも言える。井上さんは、同時期のヨーロッパがなぜ発展したのか、その理由をこの混乱状態に求める。「分権的な諸国併存体制が発展を生む」というのだ。

 ある国が商人や科学者を弾圧しても、彼らは他の国へ亡命できる。そうすると、弾圧した国は衰退し、亡命先の国は繁栄し、前者は後者に戦争で勝てなくなるので、あらゆる国が弾圧を控えざるを得なくなる。これは蟻の群体が一部破壊されても再形成されるのに類似している。

 あるいは、ある国が経済力や軍事力の増大にとって望ましい制度を導入し成功すると、他の国も取り入れざるを得なくなる。こうして広まった制度は、特許制度だけでなく、貨幣制度、銀行制度、法人制度、学校制度、徴兵制制度など数限りなくある。

 制度間競争は、諸国併存体制(世界経済)のような分権的なシステムの下でこそ起こったのであって、世界帝国のような一つの集権的なシステムの下では実現しない。明朝や清朝の中国では、次々と新しい制度が導入されるなどということは起きようがなかったのである。(pp342-343)

ここでも日本に翻ると危機感が高まる。東京と地方の関係を見れば、それは分権からは程遠い。戦国時代を始め、日本でイノベーションが盛んだったのは分権を通り越して混乱していた頃だったことを思えば、今はいくらなんでも中央集権が過ぎるかもしれない。日本が現状を変える一歩、重要な一歩として、道州制を始めとした地方分権政策を忘れてはいけないのだろう。

 

感じるな考えろ

本書を読んで印象に残った一番のフレーズはこれかもしれない。「感じるな考えろ」

 

AIの時代には感性が大事、人間はクリエイティビティで勝負だと言われる。でも、井上さんはそうじゃないと語る。むしろ、AIが苦手としているのは「悟性」だという。悟性とは、言語を駆使した論理的思考だ。

言語には「概念」が伴う。Siriに「猫とはなんですか」と聞けば猫の画像を示してくれるかもしれないが、「自由とはなんですか」と聞いてもWikipediaを引っ張ってくるのが精一杯だろう。人間は自由という高次の概念を思考するために、たとえばナチスドイツやホッブズのリヴァイアサン論といった別の概念を組み合わせることができる。今の所、こうした論理的思考はAIの苦手分野らしい。

 

一方で「ありきたりな人間の感性はAIに代替される」というのだ。井上さんはアメリカの「グリッド」というホームページ会社を例に出す。

 アメリカのグリッドというホームページ制作会社は、人間のデザイナーを一人も雇っていない。代わりにコンピュータが、素晴らしいデザインのホームページを続々と生み出している。並みの感性ではもはや、コンピュータには打ち勝てない。(p216)

「AIは雇用を奪う」と危機を煽る言説に「だからこれからはクリエイティブの時代だ」と付け加える人がいれば注意した方がいいのかもしれない。その人はAIによる大分岐を何も分かってない恐れがある。井上さんが「感じるな考えろ」と言うのは、その本質を分かっているからだ。

 もちろん、大学のレポートや論文には感じたことではなく、考えたことを書くべきだ。ブルース・リーは「考えるな感じろ」と言ったが、学生には逆のことを指導したい。感じるな考えろ。(216-217)

感じるな考えろ。これを胸に刻むべきは学生だけではない。日本に危機感を持っても、大分岐が恐ろしくなっても、慌ててはいけない。できることは考えること。まずは勉強、勉強だ。

 

今回紹介した本は、こちらです。

純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落

純粋機械化経済 頭脳資本主義と日本の没落

 

 

「純粋機械化経済」は「人工知能と経済の未来」をより学術的により濃厚にした感じです。「純粋機械化経済」が難しそうだと尻込みしたら、先に「人工知能と経済の未来」を手に取るといいかもしれません。

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人類史という遠大なスコープを持ち出すと、物事はこんなに面白く見えるんだなというのが本書の発見でした。それを科学、生物学の分野でやってくれているのが「利己的な遺伝子」だと思います。遺伝子とは何なのか、人間が生み出した文化的遺伝子「ミーム」とは。骨太ですが、読みがいがあります。

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分断されないために読む本ー読書感想「アイデンティティが人を殺す」(アミン・マアルーフさん)

ヘイトが溢れている今だからこそ、本書「アイデンティティが人を殺す」を読む意味がある。分断されないために、憎しみ合わないために、この本のアイデンティティ論を学びたい。

 

著者はレバノンで生まれ、内戦を機にフランスへ移住した作家アミン・マアルーフさん。あなたはレバノン人なのか?フランス人なのか?という問いに絶えず晒されてきた。だからこそ、そうした「本質的な自己」「絶対的な帰属先」がアイデンティティだと考える危険性を丁寧に訴える。アイデンティティとは、与えられるものではなく人生を通じて構築し、変容するものだ。そう思えればこそ、多様性の共存が可能になる。小野正嗣さん訳。ちくま学芸文庫、2019年5月10日初版。

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アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

 

 

アイデンティティは皮膚の上の模様

あなたはフランス人なのか、レバノン人なのか。そのどちらもが自分自身に含まれていると言えば「半分がフランス人で、半分がレバノン人ってこと?」と返ってくる。そうじゃない、とアミンさんは語る。

 ということは、半分がフランス人で、半分がレバノン人ってこと? とんでもない! アイデンティティを切り分けることはできません。半分に分けたり、三つに分けたり、細かく区切ったりはできないのです。私には複数のアイデンティティなどありません。ただ一つのアイデンティティしかないのです。このアイデンティティはさまざまな要素から成り立っているのですが、ただ、その〈配分〉が人ごとにまったく異なるのです。(p10)

アイデンティティとはさまざまな要素の〈配分〉である。究極的なアイデンティティがあり、それを性質や趣向が装飾しているのではない。少し先に出てくるこのフレーズも、同じことを言っている。

 アイデンティティはただ一度きり与えられるものではありません。人生を通じて構築され変形されていくのです。(p 32)

もちろん生得的な人種や民族もアイデンティティだ。しかしそれは一度きり与えられるものではない。むしろ、「日本人」として生まれた人が、日本の社会で自分を日本人として実感する機会を重ねることで、「日本人」としての認識を構築していく。

 

一方で「ただ一つのアイデンティティしかない」というのもポイントだ。さまざまな要素一つ一つが「自分」に不可欠なものであると同時に、単発ではなく集合こそ「自分」。つまり「一は全、全は一」ということだ。アミンさんはこれを「アイデンティティは皮膚の上に描かれた模様なのです」と表現する。

(中略)ここまでずっと、アイデンティティは数多くの帰属から作られているという事実を強調してきました。しかし、アイデンティティはひとつなのであって、私たちはこれをひとつの全体として生きているという事実も同じくらい強調しなければなりません。ある人のアイデンティティは、自律したいくつもの帰属を並べ上げたものではありません。それは「パッチワーク」ではなく、ぴんと張られた皮膚の上に描かれた模様なのです。たったひとつの帰属に触れられるだけで、その人のすべてが震えるのです。(p 36)

パッチワークのように、ある人のアイデンティティの一部を取り外すことはできない。その一部を傷つければ、その人の全身が痛みを感じる。その人は多彩なアイデンティティを持ち、そのどれもがその人なんだ。こう思えれば、どんな小さなヘイトもすべきではないと納得できる。

 

時代のキーワードは不信

 自分はキリスト教徒だ、イスラム教徒だ・・・。究極的なアイデンティティに傾倒した時、それは「狂信」になる。戦争、紛争はここから起こる。宗教が分かりやすいけれど、宗教に限らない。アミンさんは「誰も狂信をひとり占めできない」と語る。

 いま私が言ったことは、宗教を信じていない人々のお気に召したかもしれません。しかしそういう人たちには思い出してもらわなくてはなりません。独裁や迫害を生み、あらゆる自由と人間の尊厳を破壊してきた二十世紀の最悪の厄災は、宗教的な狂信ではなく、宗教の批判者を自認していたーースターリン主義がそうですーー、あるいは宗教に背を向けていたーーナチズムや他の民族主義的な教義がそうですーー、別種の狂信によってもたらされたのだということを。(中略)

 二十世紀が私たちに教えてくれたのは、どんな教義であってもそれだけでは自由をもたらすとは限らないということになるでしょう。共産主義、自由主義、民族主義、偉大な宗教、そして世俗主義でさえも、つまり、ありとあらゆる教義が脱線し、異常なものになりうるのです。あらゆる教義の手は血で汚れているのです。誰も狂信をひとり占めすることはできません。逆に言えば、誰も人間性をひとり占めすることはできないのです。(p 65)

 

あらゆる教義が狂信に脱線しうる。それはあらゆるアイデンティティが、他人に牙を剝くヘイトに繋がりうると言い換えてもいい。20世紀でこの事実を学んだ私たちは、もう過ちを繰り返さないのだろうか。そうではない。絶対的な帰属先を欲しがる誘惑は、むしろ高まっているようにも思える。その根底には「不信」があるということが、アミンさんの言葉を追うと見えてくる。

 不信は、間違いなく私たちの時代のキーワードのひとつです。イデオロギーに対する不信、よりよい明日というものに対する不信、政治、科学、理性、近代に対する不信。進歩の概念に対する不信、二十世紀ーー有史以来前例のないほどの偉業を成し遂げてきた世紀、しかし許しがたい犯罪とかなえられなかった希望の世紀ーーを通じて私たちが信じてきたほとんどすべてのものに対する不信。さらにまた、グローバルだとか世界的だとか地球規模だとか形容しうるすべてのものに対する不信。(p116)

何もかも信じられない。希望さえ信じられない。それが時代の空気である気はしている。だからこそ、信じられる何かへ傾き過ぎてしまう。21世紀は過ちを繰り返した先に足場が広がったように思えて、実は平均台の上のようになってしまったかもしれない。奈落ばかりが拡大したのかもしれない。絶対的なアイデンティティを求めることは危険だと頭で分かっても、心は狂信を求めているかもしれないことは、自覚してもしすぎることはないんだろう。

 

役に立つ/装飾的だけでは

本書の後半は、多様なアイデンティティを守るために言語が重要だという話に移る。そのエッセンスは、動植物の多様性を守るように言語の多様性を守らねばならない、ということだ。

 

なぜか?ともすれば、いまは「役に立つ」ものしか残らないからだ。もっとも効率的で合理的なもの以外は、それを「装飾する」ほんの一部以外、なくなっていくからだ。

 私たちが動植物の種の多様性に傾けているような注意を、人間文化の多様性に傾けるべきではないでしょうか? 自然環境を守りたいという私たちのかくもまっとうな意志を、人間環境にも広げるべきではないでしょうか? 「役に立つ」種がいるだけで、あとは「装飾的」に見える、あるいは象徴的な価値を持った種がいくつかあるだけになってしまったら、自然環境の点でも人間環境の点でも、私たちの地球はなんとも哀れな星になってしまうでしょう。(p152)

この警鐘は胸に留めたい。いまは「役に立つ」ものの声が大きくなっている。大きくなりすぎているのかもしれない。本で考えてみる。役に立つ=多くの人に求められ生かされる本だとすれば、ベストセラーだけしか本棚には並ばない。もしかしたら本書も、脱落リストに名を連ねるかもしれない。その時はきっと狂信が燃え上がり、「役に立つ」人たちが「役に立たない」人たちを傷つけ虐げているだろう。

 

人はいくつもの帰属先を持ち、そのすべてが大切だと思えた時、狂信をようやく追いやられる。「私たち」と「彼ら」の分断を乗り越えられる。

(中略)もう単に「私たち」と「彼ら」ーー次の対決や次の反撃を準備している、戦闘状態にあるふたつの軍隊ーーが存在しているのではありません。「私たち」の側にも、私とほんの少ししか共通点のない人はいるし、彼らの側にも、私が自分ときわめて近いものを感じられる人たちがいるのです。(p42)

 

今回紹介した本は、こちらです。 

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

 

 

 

 アイデンティティの大きな要素であり、分断の火種にもなりうる民族や国籍。でもその問題は欧米の話でしょう、と思ったとすれば「ふたつの日本」を手にとってほしいと思います。日本も既に「移民国家」であることが学べます。

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差別や分断の問題は、小説を通じても考えられます。特に、ジェンダーの分断は、分断「している」側になりがちな男性には見えにくいもの。「82年生まれ、キム・ジヨン」を開けば、はっきりと可視化されると思います。

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強いとはあなたがあなたでいることー読書感想「メンタルが強い人がやめた13の習慣」(エイミー・モーリンさん)

メンタルが強いとはどういうことだろうか?サイコセラピストでライターのエイミー・モーリンさん「どんな運命が降りかかろうとも、自分の価値観に従って生きること」と定義する。そして、その強さのためには何かを「する」よりも「やめる」ことが重要だという観点で「メンタルが強い人がやめた13の習慣」を世に問うた。

 

強いとは、困難に動じないことではない。鉄面皮のように、全てをねじ伏せ、誰にも傷つけられないことではない。強いとは「あなたがあなたでいることなんだ」とエイミーさんは語りかける。あなたが本当に大切にしたいものへ、エネルギーを注ぐために。「やめること」はネガティブではなくポジティブな営みだと教えてくれる。長澤あかねさん訳。講談社、2015年8月18日初版。

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メンタルが強い人がやめた13の習慣

メンタルが強い人がやめた13の習慣

 

 

最高の自分でいられる

定義次第では「メンタルが強い人がやめた13の習慣」という本の中身は相当にマッチョになっていたはずだ。成功者が語る生存バイアスにあふれた成功の秘訣。エイミーさんの語りはまったく違う。それは、エイミーさんの境遇が影響している。「はじめに」はこう始まる。

 私が23歳のとき、母が突然、くも膜下出血で亡くなった。

 健康で、頑張り屋で、はつらつとしていた母は、この世で過ごす最後の瞬間まで、人生を愛していた。亡くなる前の晩にも、私たちは会っていた。一緒に高校のバスケットボール大会を観戦していたのだ。母はいつものようによく笑い、よくしゃべり、人生を謳歌していた。それなのに、わずか24時間後には、もういないなんて。(p2)

エイミーさんのメンタル論は悲しみから出発する。理不尽な別れから始まる。だから優しい。驚くべきことに、エイミーさんはこの後、夫も突然失い、さらに大切な人を亡くす体験をする。「どんな運命が降りかかろうとも、自分の価値観に従って生きること」。そのメンタルの強さの定義は、自らに降りかかった「運命」に思いを馳せたものだったに違いない。

 

この定義を掲げる本書の最終盤、エイミーさんはローレンス・レミューさんというカナダのヨット選手を引き合いに出す。レミューさんはソウルオリンピックに出場した。当日、メダルに手が届きそうなレースの途中で、転覆したシンガポールチームの近くを通る。レミューさんは救助に加わった。賞レースを迷うことなく手放した。結果は27位だった。この姿勢こそ、「メンタルが強い」のだとエイミーさんは言う。

 どう見ても、レミューの自尊心は、「金メダルを取ること」に左右されてはいなかった。世の中やオリンピックから報われても当然、とも思っていない。メンタルが強いレミューは、たとえ本来の目標を達成できなくても、自分の価値観に従って生き、正しいと思うことをしたのだ。(中略)

 メンタルが強いというのは、「何が起こっても大丈夫」と知っていること。私生活で深刻な問題を抱えたり、お金がなくなったり、家族が不幸に見舞われても、メンタルが強ければ、最高の備えができている。どんな運命が降りかかろうと、人生の現実に対処できるだけでなく、自分の価値観に従って生きることができる。

 メンタルが強くなれば、最高の自分でいられる。正しいことをする勇気が持てるし、自分が何者で、何を達成できるかに対して、心からくつろいでいられる。(p266)

自尊心を誰かに左右させない。レミューさんがメダルに執着せず、自尊心に従って溺れた選手を助けたように、自分で大切なことを自分で選ぶこと。そのための「備え」がメンタルの強さだ。その結果、最高の自分でいられる。最高の選手でも、最強の選手でもなく、レミューさんが最高の自分でいられたように。

 

良い習慣より悪い習慣が左右する

レミューさんはメダルを追うことを「やめた」と見ることができる。ここに、本書の真髄が見える。大切なのは、溺れた選手を助けることと並行して、メダルを追うことを適切に迅速に「やめられる」ことだ。

 

エイミーさんはそれを「良い習慣よりも悪い習慣が人生を左右する」と表現する。

 良い習慣はたしかに大切だけれど、私たちが持てる力をフルに発揮できない理由は往々にして、悪い習慣にある。世の中のありとあらゆるよい習慣を身につけたところで、悪い習慣を温存していたのでは、目標になかなか到達できないだろう。こう考えてみてはどうだろう?

 あなたの一番悪い習慣が、あなたの価値を決めている、と。(p10)

良い習慣を積み重ねるよりも、悪い習慣をやめられるか、絡め取られないか。それが大切だという確信があるからこそ、本書はメンタルが強い人が取り入れた習慣ではなくやめた習慣を俎上にのせている。

 

何かをやめれば、何かを始められる

 たとえば第4は「どうにもならないことで悩む習慣をやめる」。冒頭、離婚後に久しぶりに娘と面会したのに、元妻の振る舞いにイライラして、せっかくの時間を楽しめない男性が登場する。「そんなことより、娘さんとの時間を大切にしなきゃだめだよ」というのが要旨になるけれど、エイミーさんは専門の心理学的エッセンスをちりばめて腹落ちさせてくれる。

 何に自分の支配(統制)が及び、何に及ばないかを判断するのは、それぞれの人の考え方だ。心理学では、その考え方を「LOC(ローカス・オブ・コントロール/統制の所在)」と呼んでいる。LOC(物事を支配する力)を外に置いている人は、人生は運不運に大きくされる、と考える。だから、「なるようになる、なるようにしかならない」と考えがちだ。(p 89)

どうにもならないことで悩む習慣は、LOCの置き方と捉え直すことができる。元妻にイライラする男性はLOCをもっと内側に置けば、「まあいっか」と思えるかもしれない。

 

12番目の「自分は特別だと思う習慣をやめる」を開いてみる。主役は26歳の若さで、がんによって命を落としたサラ・ロビンソンさんだ。サラさんはがんになった後、治療センターのそばに宿泊施設を建設しようと動き出す。亡くなった後は家族が思いを引き継ぎ、資金集めに動いている。

 サラは「がんになった私は報われて当然」なんて考えに、貴重な時間を1分たりとも使わなかった。自分が世の中に与えられるものを考え、見返りも期待せず、人々を助け続けた。(p239)

 

男性とサラさんに共通するのは、「なにかをやめれば、なにかを始めることができる」ということだ。元妻にイライラすることを手放せば、娘との今に集中できる。がんという過酷な運命を嘆くことを手放せば、誰かのために力を注ぐ余地ができる。立ち戻ればそう、レミューさんがメダルを手放したことで溺れた選手を助けられたことも同じこと。

 

やめることで、本当に大切なことへエネルギーを注げる。悪い習慣から目をそらさないことで、足を取られずにいられる。なるほど、メンタルが強い人は、「やめ上手」な人なんだと本書を読んで気づかされた。

 

今回紹介した本は、こちらです。

メンタルが強い人がやめた13の習慣

メンタルが強い人がやめた13の習慣

 

 

エイミーさんが苦しみの中から本書を編み出したように、苦渋を舐めた人の経験は胸の奥深くまで届く。シェリル・サンドバーグさんの「OPTION B」もそのような本で、ぎゃ今日でも折れない「レジリエンス」とは何かを学べます。

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何に意識を向け、感じるかが「幸せ」を左右する。やめることでエネルギーの余白がうまれることと、似ている気がします。そんな「幸せのメカニズム」を学ぶには「幸せな選択、不幸な選択」がオススメです。「幸福学」の泰斗ポール・ドーランさんの著作。

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セラピーだけでなくケアもー「居るのはつらいよ」(東畑開人さん)

何かをしてばかりいる。どこかを目指して、何かを目指してばかりいる。自分の生活には「する」がギュウギュウになって、ただ「居る」ことなんてほとんどないな。「居るのはつらいよ ケアとセラピーの覚書」は「居る」を取り出して、よくよく見つめて、その奥深さを認識させてくれる。

 

筆者は心理士の東畑開人さん。京大卒の情熱に燃える若者だった東畑さんは、難航する職探しの末に沖縄のデイケア(精神障害者が日中を過ごす施設)へ就職する。そこは「ただ、居る、だけ」に溢れていた。「居る」ってなんだろう。「居る」ことは病や、生活にどんな関わりがあるんだろう。括るとすれば医療系学術書ではあるけれど、その学びは私たちの「生きづらさ」に直結してくれる。医学書院。初版は2019年2月25日。

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居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

悪いものを変えるセラピー、うまく付き合うケア

東畑さんは「専門家」で、デイケアでも専門領域である「セラピー」の力を発揮したがった。でも、デイケアの中心は文字通り「ケア」だった。「セラピー」と「ケア」。副題にもある二つの「関わり方」の違い、綱引きが、本書の大動脈になっている。

 

序盤、一つの事件が語られる。ジュンコさんというメンバーさんがいた。ジュンコさんはデイケアに加わるやいなや、他のメンバーに積極的に話しかけたり、調理の役割を積極的にこなしたりした。新入りの東畑さんにも声をかけて、意気込んだ東畑さんはセラピーをする。しかし、ジュンコさんはほどなくデイケアに来なくなった。

 

東畑さんは「俺のせいだ」と猛省する。セラピーでジュンコさんの壮絶な過去を傾聴したこと、引き出したことが、ジュンコさんを追い詰めたのではないかと。

 だけど、心の深い部分に触れることが、いつでも良きことだとは限らない。当然だ。抑えていたもの、見ないようにしていたもの、心の中の苦しいものが、外にあふれ出てしまうからだ。つらいに決まっているし、心は不安定になる。

 実際、何回かセラピーもどきをするなかで、ジュンコさんはデイケアのメンバーやスタッフからも、自分は疎まれているのではないかと話すようになっていた。心の中にあった悪いものが、現実を汚染し、被害妄想が生まれはじめていた。そして、そうなってきたところで、ジュンコさんは、デイケアにいられなくなった。デイケアから離れた。(p49)

セラピーは自分の内面にある「悪いもの」を直視し、それを変えていく作業だ。変化の作業。だけど、それは変化に耐えられる自分でなくては苦しい作業だ。自分の殻をいとも簡単に突き破って、現実を「汚染」してしまう。

だからこそ、デイケアがある。デイケアはケアをする。「悪いもの」にいったん蓋をしてみて、まずは現実と付き合ってみる。そこで自分の安定を図るのだ。だからケアとは「する」んじゃなくて「いる」ことが大切になる。

 

セラピーが悪で、ケアが善というわけではない。ただ、デイケアに来るメンバーさんにはケアが必要だったというだけだ。なぜ必要なのか。それは、一般社会ではセラピー的なものが溢れているからだ。

セラピーは線的だ。くねくねと曲がりながらも、どこかへ進んでいく。それは「成長」でもあるし、「変化」でもあるし、回復へと向かう「物語」でもある。病はいつだって「治すべきもの」として扱われる。それはもちろん大事でも、セラピーだけになれば、「治らないもの」はどんどん追い込まれていく。

 

だからケア的なものの役割がある。東畑さんは最初にそこで躓いて、ケアの奥深い世界に入っていく。

 

人を支える「依存労働」

ケアの世界に分け入っていく。そこで出会った「依存労働」という言葉が胸に残っている。エヴァ・フェダー・キティさんという哲学者がこう定義している。

 依存労働は、脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する仕事である。依存労働は、親密な者同士の絆を維持し、あるいはそれ自体が親密さや信頼、すなわちつながりをつくりだす。(キティ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』八十五頁)(p103)

他人をケアする仕事は依存労働だ。ケアとは、障害や病によって脆弱性を抱えた人に対して、発生するニーズを次々とクリアにしていくことだ。それは「依存させてあげる」仕事と言える。

 

そして依存させてあげるからこそ、そこには絆が起こるし、親密さ、信頼と不可分になる。それがケアの「しんどさ」でもある。メンバーさんと感情的な結びつきなしに、ケアをすることはできない。だから疲れる。時には精神的に激しく追い込まれる。

 

だからキティさんは、依存労働者には「ドゥーリア」が必要だと指摘する。ドゥーリアとは何か。

 出産し、赤ん坊を世話にすることになった母親のために、身の回りのことを手伝ってくれる人のことを「ドゥーラ」という。キティはそこから着想して、ケアをする人をケアするもののことを「ドゥーリア」と呼ぶ。それは「ドゥーラ」の複数形だ。ケアしつづけるために、ケアする人は多くのものに支えられることを必要とする。(p117)

面白いのは、ドゥーリアは人に限らないということ。東畑さんは、「自分にとってのドゥーリアは臨床心理学だ」と語る。

 僕にも「ドゥーリア」があった。そのうち大きなものが臨床心理学だった。僕はメンバーさんとの距離のとり方や立ち居振る舞いを臨床心理学から得ていたと思うし、メンバーさんたちの脆弱性を心理学的に理解することが、彼らを傷つけないことを可能にし、そしてそのことで自分自身を傷つきから守っていたと思う。何より、こうやってケアする仕事に価値や意味があることを臨床心理学が教えてくれた。(p117)

東畑さんは臨床心理学を学んだことで、相手が脆弱性をもっていること、その脆弱性に自分も取り込まれない距離の取り方が頭に入っていた。「知識」がドゥーリアになってくれた。

ケアに価値や意味があることを臨床心理学が教えてくれた、という一文にも注目したい。裏を返すと、ケアの価値や意味は日常的に過小評価されている。「専業主婦」という言葉、家事が仕事の劣位に置かれている風潮なんかもそうだろう。だからこそ、そのものの意味や価値を「学び取っていく」ことは非常に重要になる。

 

これを敷衍すると「私たちは何かを知ることで誰かのドゥーリアになれる」とも言えそうだ。ある社会問題を学び、その内情を理解し、それをサポートすることの価値や意味を感じること。そうすることで、その問題でケアにあたる人をケアすることができるかもしれない。

 

ケアを追いやる声

社会にはセラピー的なものが溢れている、と書いた。同じ問題意識は東畑さんも持っていて、最終盤の議論のテーマに据えている。セラピーは社会的に価値を置かれやすく、ケアは置かれにくい。東畑さんは「会計の声」と表現する。

 ケアとセラピーは人間関係の二類型であり、本来そこには価値の高低はないはずなのだけど、でも実際のところ、会計の声は圧倒的にセラピーに好意的だ。

 あなたの職場でもそうではないか? 最先端の計算をするための高価なコンピューターはぽんと購入されるけど、無償で提供されていたコーヒーはいつの間にか自動販売機で購入しなきゃいけなくなっている。投資は積極的になされても、経費は削減されていくのだ。

 同じように脳外科手術にはすさまじい値段がつくけれど、手術前の不安を鎮めるための会話や、手術後の体のお世話の報酬は低い。復職支援のためのリワークデイケアは拡大しても、居場所型デイケアは縮小していく。(p320)

どこかへ向かっていく、成長と変化と物語のセラピー。投資も、専門的手術も、復職支援も、セラピーと同じ文脈を共有する。一方で、休憩用のコーヒーや、不安を解消する会話、「居るだけ」のデイケアは、循環的で、どこにも連れて行きはしない。 

 

だから「居るだけ」の空間に声が響く。「それでいいのか」という声だ。東畑さんはデイケアで耳にしたけれど、私たちの日常でも聞こえてこないだろうか。

 

今一度、ケアとセラピーはどちらか一方が100%になっては成り立たないと認識したい。ケアだけではあまりに退屈かもしれないけれど、セラピーだけでは窒息してしまう。東畑さんは「成分」と表現する。

 繰り返します。ケアとセラピーは人間関係の二つの成分です。傷つけないか、傷つきと向き合うか。依存か自立か。ニーズを満たすか、ニーズを変更するか。人とつきあうって、そういう葛藤を生きて、その都度その都度、判断することだと思うわけです。だって、人間関係って、いつだって実際のところはよくわからないじゃないですか。だから、臨床の極意とは「ケースバイケース」をちゃんと生きることなんです。(p278)

社会はセラピーを優遇するかもしれないけれど、私たちの成分として、ケアを守っていくこと。ケア抜きで生きられると誤解しないこと。それが当面のやり方として、大切なんだと感じた。 

 

今回紹介した本は、こちらです。 

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

居るのはつらいよ: ケアとセラピーについての覚書 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

変化せよ、成長せよ。セラピー的な声に絡め取られた若者の行く末を描くのが、朝井リョウさんの小説「死にがいを求めて生きているの」です。「する」ことばかりに駆り立てられることは、恐ろしいこと。

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ケア中心に、円環的に生きている社会というのもあります。「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」は、奥野克巳さんが狩猟採集民の社会から学んだことを日本社会と対比してくれます。

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乗り物である私たちー読書感想「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンスさん)

生物とは利己的な遺伝子が生き延びるために使う乗り物である。生物学者リチャード・ドーキンスさん「利己的な遺伝子」の言説はこのワンセンテンスに集約される。この刺激的なメッセージを、400ページ余り使って大きく展開する。1976年の初版なのに、今読んでも圧倒的な新鮮味がある。

 

ドーキンスさんは、生物間の縄張り争いや、親が子を保護すること、自己犠牲的な利他的行為も、「利己的な遺伝子」をキーワードに理解できると主張するし、実際にそうしてみせる。だけどそれは、「利己的な遺伝子に従って、利己的に生きるのが自然なんだ」という帰結には至らない。むしろ、「だからこそ利他性を教え込まなければならない」。自分たちを「乗り物」として理解する時、一歩進んだ希望を見出せる。訳は日高敏隆さん、岸由二さん、羽田節子さん、垂水雄二さん。紀伊国屋書店。40周年記念版の初版は2018年2月26日。

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利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

 

 

門外漢は愚か者ではない

「利己的な遺伝子」は平易な言葉で書かれている。その意図は「初版のまえがき」に示されていて、これが痺れる。

 この本を書いているとき、想像上の読者が三人、私の肩ごしにのぞき込んでいた。いま私は、この人々に本書を捧げたい。三人のうち一人目は、一般的な読者、つまり門外漢だ。(中略)私は、門外漢は専門知識を持っていないものとは見なしたが、愚か者とは見なさなかった。思い切った単純化をしさえすれば、誰でも科学を大衆化できる。私はいくつかの微妙で複雑な考えを、数学的な言葉を使わないで、しかもその本質を見失うことなく大衆化しようと努めた。(中略)生物学はミステリー小説と同じくらい刺激的なものであるべきだと、私は前々から思っていた。生物学はまさにミステリー小説だからだ。(p33-34)

ドーキンスさんは一般的な読者は「門外漢」であるけれども「愚か者」ではないと考えている。だからこそ、「利己的な遺伝子」は面白いんだと思う。それを誰より面白いと思ってるのはドーキンスさんで、思い切った単純化を駆使すれば、その面白さは門外漢にも伝わると信じているからだ。そして目論見は大成功している。

 

たとえばこんな一節がある。利己的な遺伝子がどうして地球上に生まれたかを考える序盤。太古の昔、有機分子がたゆたう「原始のスープ」から、自分のコピーを作れる「自己複製子」が誕生した驚きを、こう伝える。

これはおよそ起こりそうもない出来事のようだ。たしかにそうだった。それはとうてい起こりそうもないことだった。人間の生涯では、こうして起こりそうもないことは、実際上不可能なこととして扱われる。それが、フットボールの賭けでけっして大当たりを取れない理由だ。しかし、起こりそうなことと起こりそうもないことを判断する場合、私たちは数億年という歳月を扱うことに慣れていない。もし、数億年毎週フットボールに賭けるのであれば、必ず何度も大当たりを取れるだろう。(p59)

なるほど、ほとんど当たらないだろうなというフットボールの予想くじも、数億年毎週すれば当たりそうだ。生物史の壮大なスケールがいつの間にか腹落ちした実感がある。ユニークな比喩、身近なものとのリンク、大胆なモデリング。全編を渡って様々な工夫が施されている。

 

進化的に安定な戦略

「利己的な遺伝子」の中心的アイデアは、それを読んだことのない人にも伝わっている。利己的なのは生物個体ではなく、もっと根源的な遺伝子である。だから読み進めてみて面白かったのは、利己的な遺伝子を補強する理論。「進化的に安定な戦略」もその一つだ。

 

進化的に安定な戦略(ESS/ Evolutionarily Stable Strategy)とは、「個体群の大部分のメンバーがそれを採用すると、別の代替戦略に取って代わられることのない戦略」(p138)と定義される。もちろん、ここでもすぐに分かりやすいモデルが導入される。この直後に来るのは「タカ派」「ハト派」の攻撃性に関するモデルだけれど、第9章「雄と雌の争い」で出てくるパートナー選びの例えが面白い。

 

ある生物の雄に「誠実」戦略と「浮気」戦略、雌に「堅実」戦略と「奔放」戦略があるとする(p265。実際の雌の戦略は「恥じらい」と「尻軽」だが、語感が現代的にそぐわない気もするので変えてみる)。「誠実」は特定のパートナーにきちんと向き合う一方、「浮気」は不特定多数との交際をしようと画策する。「堅実」は誠実なパートナーを探し、「奔放」は不特定多数との交際もOKだと考える。

 

この生物集団が、「誠実」と「堅実」だけで構成されると考える。非常に理想的に、互いのパートナーを慈しみあって暮らす社会だ。しかし、ここに「奔放」戦略の雌が現れたとする。雄は誰もが「誠実」なのだから、「奔放」はどのパートナーを選んでも誠実な対応を獲得でき、子どもを産んでも「誠実」が育ててくれるとすれば、「奔放」は「堅実」よりも利得が大きい。すると、「奔放」の遺伝子が「得する遺伝子」として集団内で拡大する。

 

「奔放」型の雌が集団内で広がると、今度は雄の中に「浮気」戦略を取るものが現れる。相手が「奔放」である限り、「誠実」より「浮気」の方が多数の雌を相手にできる。こうして「浮気」の雄が集団内で獲得すると、「奔放」は「誠実」相手に獲得していた利得を失い、むしろ「浮気」に様々な責任を押し付けられることになる。すると、「奔放」戦略の雌は勢いを失って、再び「堅実」戦略が優位になる。

 

すると、話は冒頭に戻る。「堅実」戦略の雌に「浮気」戦略の雄は相手にされないので、「誠実」戦略の方が優位になり、集団は再び「誠実」と「堅実」に至る。

 

ドーキンスさんは、この堂々巡りが限りなく続くわけではないと説く。この集団は最終的に、雄の一部が誠実で雌の一部が堅実な安定状態に「収斂」する。計算上では、雄の8分の5、雌の6分の5がそれぞれ誠実/堅実になるという。安定状態に達すれば、基本的に脅かされない。これが「進化的に安定な戦略」だ。浮気も奔放も繰り返される限り少数に追いやられ、けっして安定的とは言えない。とはいえ、その「ズルさ」は短期的に利得を得る可能性が常にある。

 

利己的な遺伝子とは、こうした「ズルさ」を孕んでいると言える。一方で、進化的に安定な戦略は、お互いの利己性がぶつかり合った結果、どこか利他性を帯びる。このバランス感が面白い。

 

人間にはシュミレートがある

「利己的な遺伝子」広まったもう一つの有名な概念が「ミーム(Memes)」だ。ドーキンスさんは、人間が生み出した「もう一つの自己複製子」としてミームを位置付ける。自己複製子、つまり利己的な遺伝子が体から体へ乗り移って時間を旅するように、ミームは脳から脳へ乗り移っていくと説く。

 

例えば「神」という概念はミームである。「利己的な遺伝子」もまさにミームとして数十年間語り継がれている。面白いのは、「ミーム」というミームも、提唱された瞬間から増幅し、世界中の人の脳に染み付いている。

 

本書を読んでみると、実はミームの議論には続きがあった。遺伝子もミームも自己増殖的であって、それ自体は価値中立的だ。遺伝子と「違って」ミームは利他的であることを望めるかについて、ドーキンスさんはイエスともノーとも言わない。人間は遺伝子の乗り物であり、ミームの乗り物である。でも、人間には、この「運命」に抗う力があるとドーキンスさんは強調する。それがシュミレート(先取りする能力)だ。

(中略)個々の人間は基本的には利己的な存在なのだと仮定したとしても、私たちの意識的に先見する能力ーー想像力を駆使して将来の事態を先取り(シュミレート)する能力ーーには、自己複製子たちの引き起こす最悪で見境のない利己的暴挙から、私たちを救い出す力があるはずだ。少なくとも私たちには、単なる目先の利己的利益より、むしろ長期的な利己的利益のほうを促進させるくらいにの知的能力はある。「ハト派の共同行為」に参加することが長期的利益につながることを理解できるし、同じテーブルに座って、その共同行為をうまく実行する方法を話し合うこともできるはずだ。私たちには、私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを教化した利己的ミームに反抗する力がある。(p345)

ドーキンスさんは利己的な遺伝子のアイデアを通じて、「人間は利己的になるのは仕方ない」と言っているわけではない。むしろ「利他性を教えよ」あるいはここにあるように「利他性を獲得せよ」と呼びかける。

 

進化的に安定した戦略で学んだように、遺伝子は「事後的」にしか「ズルさの抑制」を行わない。「こういう社会にしたい」と「事前に」願って進化する遺伝子はない。しかし、人間はシュミレートできる。未来をどうつくるかに目を向け、そのための行動を行える。

 

遺伝子にとっては、この体をどう使ってやろうかという旅でしかない。でも遺伝子の「乗り物」である私たちは、乗客、あるいは船首である遺伝子に、いかに反抗してやろうかという旅にできる。その意味で、「利己的な遺伝子」はずいぶんロックな学術書だなあと思った。

 

今回紹介した本は、こちらです。

利己的な遺伝子 40周年記念版

利己的な遺伝子 40周年記念版

 

 

名著と言われる本はやっぱり名著だなと実感しました。同じことは「ファスト&スロー」を読んだときにも感じたな、と思い出しました。人間には2つの意思決定システムがあると解き明かす、行動経済学の名著中の名著。

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ミームと遺伝子が似ているというのは、「ザ・サークル」を読むと腹落ちするように思います。「透明性」や「つながり」といった、善性の高いとされる概念がひたすら拡大した社会を描くSF作品です。

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なぜそこでは自殺が少ないのかー読書感想「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」(森川すいめいさん)

自殺件数が相対的に少ない「自殺希少地域」というものがある。そこではなぜ自殺が少ないのだろうか? 精神科医森川すいめいさんが、実際に現地を旅して感じた学びをアカデミックな知識と結びつけながら綴ってくれた本が「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」だ。

 

意外にも、自殺希少地域の人間関係は緊密ではない。むしろ疎で多。それは、「人生は問題が起こるもんだ」という前提に立ち、様々な問題を抱えた人を「多様性」として包摂するためにある。そして「対話」がある。お互いが「ゆるく」関わりあうことが、生きやすいコミュニティの秘訣のようだ。青土社。初版は2016年7月14日。

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人生は何かあるもんだ

森川さんは実際に、身近な人を自殺で失っている。救えなかった、という実感がある。そういうモヤモヤとした気持ちを持ちながら自殺希少地域を旅していて、気持ちは変遷する。その「揺らぎ」が読者としては学びになる。

 もちろんある程度の仮説はいつも立てた。仮説がなければ何も気付くことができない。しかし多くの場合はからっぽな気持ちで現地のことを感じ、そこで気付いたことやびっくりしたことをノートにメモし続けた。そういうわけで私の考えはコロコロ変わる。ある程度確信が湧くまでコロコロ変わる。そして最初の旅から数年が経ち、私はようやく考えを定めてもよいかもしれないと思うようになった。(p11)

コロコロ変わりながら、こうかもしれないと輪郭が浮かび上がってきた学び。それが本書には詰まっている。

 

森川さんの旅はもともと、自殺が少ない地域風土を研究した岡檀さんの学会発表に基づいている。そこで見出された傾向が、「自殺希少地域の人間関係は疎で多である」というものだった。

 すでに述べたように岡さんの調査によると、旧海部町の近所付き合いは緊密ではなくあいさつ程度立ち話程度の関係で、それでいて人間関係の数は多い。自殺の多い地域では緊密でとても助け合う関係にあるが、仲間どうしの数は少ないという。

 しかし実際に困ったことがあったときに助かるのは、緊密ではない旧海部町である。

 それは、お互いにどれだけたくさんのひとと出会ったかにおそらくは関係する。ひとが多様であることを知っていて、それでいて包摂しているかどうか。(p51)

自殺希少地域では、仲間ではないが助け合う関係にある(=疎)が何人もいる(=多)。人間関係が濃くない/緊密でないのは、いわゆる「希薄」ということではなくて、むしろ多様なあり方を「包摂」しているんだと森川さんは指摘する。

 多様であることを包摂できていたならば、違う意見があってもそれを排除しない。一方で人間関係が緊密で少ないと、違う意見があるとそれが目立ち、意見が異なるとその意見は排除されやすくなる。仲間どうしはみな同じでならなければならなくなる(p51)

仲間であることは圴一であることを求める。自殺であることは孤立と関係が深く、それは前段階で「違う意見」の場合があるだろう。違う意見は仲間の概念と折り合いが悪い。むしろ疎で多な人間関係の方が、違う意見を包摂する。

 

どうして疎で多な人間関係をベースにした助け合いが生まれるのか。別のパートで「人生は何かあるもんだ」(p62)という言葉が出てくる。

 「問題が起こらないように監視するのではなく、問題が起こるもんだと思って起こった問題をいっしょに考えて解決するために組織がある」(p62)

人生は問題が何もないほうが、それはもちろん良いかもしれない。でも「人生は何もない」をベースにした姿勢は、「何か」に対して異物的な眼差しを向けることになる。「何か」が起きないように「監視」するようになる。これは「仲間」が「違う意見」を排除するように動くことと相似形に見える。

 

人生は何かあるもんだ、と思う。最初からそう思う。「何か」が起こる余白を空けておき、そこに「何か」が起これば対処する。助け合う。「疎で多」な人間関係は、人生で不可避な「何か」のためにバッファを設けたあり方と言えそうだ。

 

球を打ち返し続ける「対話」

旅をしている中で、森川さんは親知らずを抜いた痕が痛くなるトラブルに見舞われた。あまりに痛くて、「旅館のおやじさん」に事情を話した。この時のやりとりが面白い。

 おやじさんは最初、痛み止めの話などをした。その場で解決できそうな提案をいくつかしてくれたが、私はだいたいのことを既に実行していたから、おやじさんの提案は何も役立たなかった。

 おやじさんは少し困った顔をしたので、私は大丈夫だと伝えて部屋に戻った。予定より早く帰るしかないかと思いながら一時間くらい耐えた後で、電車の予定を見ようと部屋から出た。そこにおやじさんがいた。

 「いつもは隣町に歯医者がいるんやけど、今日はやってないみたいや。この町の歯医者は今日休みやけど、さっきいるの見たから起こしてきちゃろう」(p43-44)

森川さんは、それは申し訳ないこと断る。するとおやじさんはさらに「ここから八十二キロ先にある歯医者が今日はやっているのがわかったから、送るわ」(p44)と提案してくれた。休みの歯医者を起こすのは申し訳ないと言ったのに、はるか遠くの歯医者まで送ってくれるとおやじさんは言う。

 

これが「対話」だ。そう森川さんは説明する。

 今振り返ると、おやじさんは私と対話をしてくれていた。この対話力は自殺希少地域の特徴だとあとでわかることになる。私の困りごとを聞き、私のニーズを私の存在を見ながら感じてくれて、その感じたことを私にまた話してくれて、決して私を説得しようとはしなかった。それはとても心地のよい時間だった。(p44)

おやじさんは、森川さんから歯が痛いと聞いて、まずは痛み止めを提案した。それでダメなら、隣町や近所の歯医者を調べる。それでダメなら、遠方の歯医者を調べて連れていくと言う。そのどれもが「提案」であって、はじめから「やるよ」と持ちかける。でも、森川さんが断れば深追いしない。

 

まるでテニスのように、助けるための球を打ち返し続ける。ぶつけるのではない。あくまでラリーになるように、相手のニーズにはまる位置へ打ち込んで、かつ返しやすい速度に球を調整する。「私のニーズを私の存在を見ながら感じてくれて」というのはきっとポイントだ。人として向き合いつつ、フォーカスするのはあくまでニーズに。疎で多な人間関係で助けるけども、仲間とまでは言わないというのと、シンクロする。

 

ネットで再現できるんじゃないか?

森川さんの問題意識は、こうした自殺希少地域にある人間関係のあり方が、失われているのではないかという所にある。だからこそ、疎で多なネットワークや対話の所作は学ぶべき価値がある。

 

一方で、もしかしたらこうしたあり方は、インターネットと技術を持って再現できるんじゃないかとも思う。たとえば、送迎アプリの「クルー」が思いつく。

crewcrew.jp

車に乗せて目的地まで送ってもらう「ヒッチハイク」や「相乗り」を、アプリを使って再構築している。乗せてくれる人は「仲間」じゃない。でもアプリを触媒にした出会いはまったくの他人じゃない。それはまさに「疎で多」な誰かの一人であり、新しい意味での「ご近所さん」とも言えなくもない。

 

クルーは移動のニーズを満たすべく誕生したサービス。もしも同じように、様々なニーズに対応した「手助け」のハードルがアプリを通じて下がるのならば。それによって困りごとを解決し、人の手を握れるのならば。それはアルゴリズムを通じた「対話」の形に見えなくもない。

 

自殺希少地域が長い歴史で培ってきた、人を生かすコミュニティは、そのまま都市に移植できはしないだろう。かといって、日本中を農村に戻すことも夢物語でしかない。残された道は再構築だとして、そこにテクノロジーを駆使する余地はきっとあるんじゃないだろうか。

 

今回紹介した本は、こちらです。

その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――

その島のひとたちは、ひとの話をきかない――精神科医、「自殺希少地域」を行く――

 

 

つながりが増したはずの社会で、助けを求められないということがどれほど苦しいことか。畑野智美さんの小説「神さまを待っている」は、まさに緊密な人間関係からこぼれ落ちた若い女性が、簡単に貧困へ陥ることが描かれています。

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人と対話することも豊かであれば、自己との対話もまた必要なプロセス。菅野仁さんの「愛の本」は読みやすく、本質的な自己理解の方法を説いてくれます。

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残業は解剖できるー「残業学」(中原淳さん+パーソル総合研究所)

「残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか?」は、残業のメカニズムを明らかにする本だ。残業は個人の能力の問題でもないし、止むを得ず発生する現象でもない。残業は解剖できる。原因を構造化できる。その上で、効果的に対策を打っていくことは可能だと本書は教えてくれる。

 

胃や膵臓や肝臓という言葉を知ることで、「身体が痛い」を「胃が痛い」と解像度の高い説明に置き換えられる。同じように「残業学」は言葉をくれる。辛いはずの残業に高揚感を覚えるのは「残業麻痺」である。上司が入れ替わっても残業が改善しないのは「多元的無知」「組織学習」が起きているからだ。すぐには会社は変わらなくても、この学びは確実に会社員へ希望をもたらすと思う。筆者は立教大学経営学部教授の中原淳さんと、パーソル総合研究所。光文社新書。初版は2018年12月20日。

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残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

 

 

残業抑制は社会維持のために必要

残業の抑制、いわゆる「働き方改革」は、なぜやらなければいけないのか?本書を読んでまず刺さったのが、この問いに対する「視座の高さ」だ。中原さんの著作やブログは、この「視座」が高度を持っていて、かつ本質的なのが魅力だけれど、今回も例外じゃない。

 

本書の答えはズバリ「働く人を増やすため」。超高齢化し、労働者人口が減っていく日本にあっては、働く人を増やさなければ社会を維持できないからだ。

 「働く人」を増やすにあたって大きな障壁となっているのが、当たり前に残業をする「長時間労働」スタイルです。これがスタンダードである限り、「働く人」=「長時間労働が可能な一部の人」となり、いつまでたっても「働く人」の数を増やすことができません。つまり、長時間労働の雇用慣行が、共働き夫婦、外国人、高齢者などの「長時間労働ができない人」の労働参加を大きく「阻害」しているということです。(p32)

働く人を増やさなければ、労働力を確保できない。しかし、長時間労働が「前提」のいま、共働き夫婦、外国人、高齢者などの労働参加が「阻害」されている。この「壁」を取り払うことこそ、働き方改革だ。個人でも、部署でも、会社でもなく、社会のために働き方改革は必要なのだ。

 

この高い視座を持つことで、残業を個人の問題に矮小化せずに済む。残業を語る時、誰しもに「私の残業観」(p36)がある。「若い時に残業を厭わないから成長した」とか「会社が勝つためには残業が必要」とか「残業を嫌がるなんて軟弱」とか。こうした「残業武勇伝」が現れがちだけれど、高い視座を持つことで「いや、そういう次元じゃないんですよ」と一蹴ができる。問題を考える時には、高い視座を持つ。この学びそのものが、何をするにも役立ちそうな気がしている。

 

もちろん、個人にとって働き方改革が「どうでもいい」わけでは断じてない。中原さんはここでも大局的に見る。働き方改革は、単に労働時間を短縮することではない。それは「よき働き方」を獲得し、「希望の持てる人生」を送るためのステップだ。

 この「残業学」で向き合ってきた「長時間労働是正」という問題のゴールは、「仕事に希望が持てるようになる」ことであり、ひいては、働く人たちが「希望の持てる人生」を送れるようになることです。

 「よき働き方」は、「ライフ」を精神的にも経済的にも支えます。

 働きながら、子育てもして、家族との時間を過ごす。

 趣味を楽しみ、時には学び直したり旅をしたりもする。

 介護をしたり、自分が病気になったり、大切な人との別れがあったりもする。

 仕事に希望が持てるような働き方が可能になれば、「ワーク」は人それぞれ「ライフ」の中の適切な場所に位置づけられるはずです。(p320-321)

働き方改革の先に、「ワーク」と「ライフ」が対立しバランスする次元を超えて、「ライフ」に「ワーク」が内包された未来がある。ワークがライフを支え、ライフがワークに還元していく生き方がある。

 

成長を偽装する残業麻痺

本書は残業の現状認識からメカニズム分析、対策の打ち方まで一気通貫して学べる。さらに大学の教室のような講義形式で話が進み、読みやすい。残業をめぐるあるあるに様々な言葉を当てはめてくれるのが痛快だけれど、中でも印象に残ったのは「残業麻痺」だ。

 

本書の執筆にあたって行われた大規模調査で、こんな発見があったという。

(中略)端的に表現すると、次のようなワンセンテンスになります。

 「超・長時間労働」によって「健康」や「持続可能な働き方」へのリスクが高まっているのにもかかわらず、一方で「幸福感」が増してしまい残業を続けてしまう人がいる。(p103)

明らかにハードな超・長時間労働をしているのに、なぜか幸せそうな人。いる。たしかに職場にいるこんな人は「残業麻痺」だと中原さんは指摘する。

 

なぜ「麻痺」なのか。それは、超・長時間労働をする人が本当に幸福とは言えないからだ。超・長時間労働層の「食欲がない」「ストレスを感じる」「実際に重篤な病気や疾患を持っている」といった健康リスクに着目すると、残業がない層に比べて2倍近くに跳ね上がっているという(p110)。

 

ではなぜ残業麻痺の人たちは、本当はつらいのに幸福だと感じているのか。そこには「成長実感」がある。残業時間が長くなるほど、成長実感が増えていくのだという。しかし、これでいいのかと中原さんは問題提起する。

 しかし、果たしてこの「成長実感」は未来に向かった質の良い「学び」になっているのでしょうか? 残業が多かった時期と個人のキャリアの成長時期が重なったことで、「長時間働いた」という「達成感」を「成長」と勘違いしているのではないでしょうか。これが私の問題提起です。(p128)

「残業が多い時期」と「キャリアの成長期」が「たまたま」重なったことを、「残業によって成長した」と勘違いしていないか。残業麻痺は、成長実感を成長と「偽装」しているのではないか。

 

この問いは、重く胸に留めて置く必要がありそうだ。残業は成長をもたらさず、健康リスクを増大させる。でも一線を越えると、成長実感が麻薬のように幸福感をもたらしてしまう。その末路は、薬物中毒者のそれとあまり変わらないかもしれない。

 

残業は組織の病

もうひとつ面白いと思ったワードが「組織学習」だ。

 

組織学習とは、1970年代以降、ハーバート・サイモンさん、レヴィット・マーチさんら組織論研究者のアイデアで、組織があたかも学習したかのように、決まった仕事が定着していく現象を指す。中原さんは、残業もまた組織学習されると考えた。

 私は「長時間残業」のメカニズムも、この「組織学習」によって説明ができると思います。大事なことなので繰り返しますが、個人レベルでは、「麻痺」「残業代依存」が起こり、個人の「習慣」として定着します(個の学習)。そこに、組織レベルでは「集中」「感染」が起こり、組織内の非公式な「制度」として定着します(ヨコの学習)。これらの異なるレイヤーのメカニズムが互いに強化しあい、単なる「個人の意識」レベルを超えて残業習慣を「組織全体」に根付かせる「負の組織学習」が起きるわけです。(p203)

「個の学習」として始まった残業の習慣が、周辺へ「ヨコの学習」を起こし、最終的には「負の組織学習」に陥る。組織があたかも1人の人間、生命体のように、残業を学習していく。その意味で、残業とは「組織の病」とも言えそうだ。

 

「組織学習」と似た現象に「多元的無知」がある。多元的無知とは、「自分はAだと思っているけれど、自分以外はみんなBと思っているだろうな」と想像する時、AではなくBに合わせた行動を取ってしまうこと。面白いことに、組織の全員が多元的無知を起こすと、みんながAだと思っていても、実際はみんなBを選択してしまう。「みんなが思っていると想像する」だけで、幻想でしかないBが「自己成就」してしまうのだ。

 

「残業することはいいことだとみんな思っているだろうな」と思うと、組織全体で「残業することはいいことだ」という価値観が顕在化してしまう。各個人の「本音」は「残業なんてないほうがいい」だとしてもだ。「病は気から」の反対で、気から病を起こしてしまう。

 

人の病を治すには応急的な対応と持続的な対応があるように、中原さんは残業という「組織の病」に「外科的」と「漢方薬的」の二つの対応策を用意してくれている。もちろん一朝一夕では治らない。でも、社会のために、希望ある生き方のために、根気強く付き合っていく必要がある。

 

今回紹介した本は、こちらです。

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

残業学 明日からどう働くか、どう働いてもらうのか? (光文社新書)

 

 

 

「残業学」とセットで、中原さんの前著「働く大人のための『学び』の教科書」を読むと、いいリンクが生まれると思います。残業麻痺が引き起こす偽りの成長ではなく、本当の成長のためにはどんな「学び」が必要かを学習できます。

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調査と分析を駆使することで、現象はどこまでも可視化できる。矢野和男さんは、このことを「幸福」に対しても適用して、幸福を定量的に測るという試みをしています。その結果は「データの見えざる手」をどうぞ。

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移民の否認は人間の否認ー読書感想「ふたつの日本」(望月優大さん)

日本政府は、日本に移民がいることを否定する。データを丁寧に紐解けば日本が移民国家であるのは明らかなのに、頑なに否認する。望月優大さんの「ふたつの日本 『移民国家』の建前と現実」は、そんな態度に真っ向から相対する。移民を否認することは、人間を否認することなんだ、と。

 

望月さんは移民の情報や移民文化の複雑性を伝えるウェブメディア「ニッポン複雑紀行」の編集長。現場に身を寄せながらも、あくまで冷静にファクトを積み上げて、見えにくい移民問題を整理する。人生の予測不可能性を収奪されていること。単純労働に追いやられ、それが不可視化されていること。移民の周囲に張り巡らされた欺瞞が、実は「日本人」にものしかかっていることに気付く。講談社現代新書。2019年3月20日初版。

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ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

 

人間を人材に漂白する

本書の学びの第一は、なぜ政府が移民を否定するのか、その思考法が読み解けることだ。それは日本に来る外国籍の人たちを、「人間」ではなく「労働力」と見るためだ。生活を持ち、家族を抱え、人と繋がる複雑な人間を「外国人材」に漂白するためだ。

 

望月さんは冒頭、1990年ごろに来日し、日本に30年近く暮らす50代のペルー人夫婦を紹介してくれる。最初は1年間の出稼ぎのつもりだった二人は、雇用契約を更新し、在留資格も更新し、日々を重ねてきた。30年間でペルーに帰ったのはわずか2回だという。

夫婦は労働者として日本に来たけれど、そこから生活を紡ぎ、移民になった。日本に住み続けることを決めたきっかけは「娘が生まれたとき」だという。望月さんはこの「人生の予測不可能性」に目を向ける。

 そもそもこうした人生の予測不可能性は外国人に限った話ではまったくない。

 例えば、私は今いる街に10年近く住んでいるが、住み始めた頃にはこれほど長く住み続けるとは思ってもいなかった。そして、これからまだ人生が続くとして、例えば2年後、3年後に自分がどこに住んでいるかを予想することも簡単ではない。いつ誰と家族をつくるか、どんな仕事につくか、自分を取り巻く様々な環境の影響で、誰にとっても住む場所は変わったり変わらなかったりするものだと思う。(p26-27)

人生の予測不可能性は、「日本人」にも備わっている。予測不可能性があるから人生なんだし、人間なんだと言ってもいい。

 

移民の否定は、人間からこの予測不可能性を奪うことだ。予測可能な「単身で、健康で、いつか帰る外国人労働者」(p33)に組み替えることだ。その条件に合意して日本に来たんだろう、と彼らに向かって言えるだろうか。それはほとんど、人間を奴隷化する試みだとは言えないか。

 

フロントドアとサイドドア

政府が移民を認めないために、日本には移民がどれぐらいの人数いるのか、統計が存在しない。望月さんは政府が設定する在留カテゴリーの統計を分析し、日本に移民に当たる人がどれほどいるかを数字で示す。本書の一つの柱にあたる部分だが、その読み応えはぜひ実際に手にとって味わってほしい。

 

この分析の延長で注目したのは、日本の「フロントドア」「サイドドア」の存在だ。政府はフロントドア、つまり正面からは「専門知識を有する外国人材」のみを受け入れていると言う。しかし実際はサイドドア、勝手口から「日系人」「研修・技能実習生」「留学生」を大量に招き入れている。このサイドドアの人材が実は日本の非正規雇用を支えている。

 留学生アルバイトが非正規雇用であることはもちろんのこと、ブラジル人労働者についても「派遣・請負」の比率が55.1%で半数を優に超えている。技能実習生に至っては、最低賃金違反などの悪質な事例も数多く指摘されており、非正規雇用の中でもより一層下位のレイヤーへと組み込まれている。

 相対的な専門性の低さは、ほかの労働者との代替可能性の高さを意味する。そして、その交換可能性の高さが低賃金と過酷な労働の受忍を要求することにもつながっていく。「いわゆる単純労働者」という言葉の背後には、日本人の非正規労働者の増加とも一体となった、「安価で不安定な労働者たちの世界」が広がっているのだ。(p95)

「いわゆる単純労働者」はフロントドアから入ってこないといいつつ、実際はサイドドアから流入し、紛れもなく「いわゆる単純労働者」となっている。そしてこの実態の中にはまたしても、「日本人」の姿が映る。予測不可能性があらゆる人間に備わっていることに似て、外国人を不安定な非正規雇用へ押しやる波は、「日本人」をも飲み込んでいる。両者は一体なのだ。

 

「彼ら」から「私たち」へ

移民を考えるほどに「日本人」の姿が見える。だからこそ、終盤に登場する望月さんのこの言葉を噛みしめたい。

 「移民」 を否認する国は、「人間」を否認する国である。人間を否認する国とは、社会の中でしか生きられない私たちから社会的な支えを剥奪する国である。社会統合の対象は外国人だけではない。この国に生きるすべての人々が対象だ。

 今、目の前にふたつの道があるーー。撤退ではなく関与の方へ、周縁化ではなく包摂の方へ、そして排除ではなく連帯の方へ。これは「彼ら」の話ではない。これは「私たち」の問題である。(p217)

移民の持つものは「日本人」も持っている。予測不可能性をつねに抱えていて、不安定な非正規雇用ではなく安定的な仕事を望んでいる。だから移民問題は「彼ら」の問題ではない。「彼ら」を含む「私たち」の社会の問題だ。

 

本当は、ここから始めなくてはいけないし、望月さんも「どうすれば私たちは、移民も日本人も一緒になって、社会を統合していけるのか」という議論をしたかったはずだ。でも、その土台は整っているとは言えない。だからこそ本書は、現状認識に紙幅を費やしてくれている。

 

そう考えると、最初の最初、政府が移民に「移民」という言葉を与えなかったことを問題視せざるを得ない。言葉を奪われた存在は、社会の中でも「ないもの」として扱われる。移民問題が「実習生問題」や「不法滞在問題」に切り分けられ、その背後のつながりが見えにくくなっているのはそもそも、この国で「移民」という言葉が封じられてきたからだ。

 

言葉に注意する。言葉が言い換えられたとき、失われたとき、そこには統合から排除へ向かう「引き波」が起こる。だから反対に、移民問題は「私たち」の問題だと言い続けるだけでも、問題を問題として手繰り寄せる力は、きっとある。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実 (講談社現代新書)

 

 

 

移民、外国にルーツのある人との共生は、これからも日本社会のテーマであり続けます。いまの状態で日本が進むと、社会はどうなるのか。それを見通すために藤井太洋さんのSF小説「東京の子」は大変参考になる。2020の宴を終えた後の日本が舞台です。

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「ふたつの日本」の中にも登場するジグムント・バウマンさんの「コミュニティ」は、「撤退の時代」を読み解く際のテキストにぴったりです。他者と断絶し、壁を築くことは歴史的潮流になりつつありますが、その中で私たち個人は何ができるのだろう。 

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女性が電撃を放てるようになった世界ー読書感想「パワー」(ナオミ・オルダーマンさん)

ある日、女性が手のひらから電撃を放てるようになった。まるでデンキウナギのように。本気を出せば、男性の命さえも奪えるようになった。裸一貫で、手ぶらで。じわじわと、男性優位の世界は転回を始める。ナオミ・オルダーマンさん「パワー」は痛快な男女逆転小説だ。そして男性にとっては、この上ないディストピア小説と言っていいかもしれない。手にしていた全てを奪われる。女性が受けてきた抑圧を、疑似体験できる。安原和見さん訳。河出書房新社。2018年10月30日初版。

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パワー

パワー

 

 

「女性が支配する世界」の「歴史小説」

物語の始まりは、ある作家が編集者に宛てた手紙。新作を書いてみたという。それは「広く認められた考古学説のノベライゼーション」だという。編集者は拾い読みをしていたく気に入る。返信の感想には、こうある。

 それはともかく、じつに楽しみです! おっしゃっていた「男性の支配する世界」の物語はきっと面白いだろうと期待しています。きっといまの世界よりずっと穏やかで、思いやりがあってーーこんなことを書くのはどうかと思いますがーーずっとセクシーな世界だろうな。(p8)

何かがおかしい。この編集者は、「男性の支配する世界」が「いまの世界」より、ずっと穏やかで思いやりがあるんだろうなと夢想している。最初の作者の手紙とすり合わせる。なるほど、彼らのいる時代は「女性が支配する世界」なんだ。そして、もはや考古学的出来事になった、遥か昔の男性が支配する世界を想像している。

 

そう、本書「パワー」は、女性が支配する未来に書かれた「歴史小説」という形をとる。かつて、男性が支配していた世界。それが変わるまでの物語だ。実に痺れる導入だと思う。もう男性支配は、終わってるんだから。

 

支配と抑圧の源泉は「力」

作家が書いた小説「パワー」(本書「パワー」の中で歴史小説「パワー」が展開する、メタ構造になっている)。最初の小見出しにはこうある「あと十年」。何かが起こる十年前から物語がスタートする。母親と二人でいる自宅を、男たちに襲撃された少女ロクシー。その窮地で、ロクシーは唐突にパワーに目覚める。

 なにかが起ころうとしている。耳の奥で血管がどくどく言っている。ぴりぴりする感覚が背筋に、肩に、鎖骨に広がっていく。その感覚が、やればできると言っていた。おまえにはその力があると。(p15)

パワーとは、電撃だった。ロクシーは手のひらから雷霆(いかずち)を繰り出せるようになった。作者はこう記す。「ロクシーは最年少で、最初期のひとりだった」。

 

電撃を放つ能力は、世界中の少女の中で目覚める。電撃を受けた大人の女性も、同様に力が呼び起こされた。どうやら鎖骨にある「ステイン」という器官が発電するらしい。不思議なことに、この力は女性にのみ発現した。男性には与えられなかった。

 

物語は主に4人の視点が交代しながら進む。まずロクシー。彼女はロンドンのマフィア一家の娘でもある。里親に虐待を受けているアメリカのアリーは、導かれるように修道院へ入ることになる。同じくアメリカの市長マーゴット。そして、唯一の男性であるジャーナリストのナイジェリア人トゥンデは、世界中に飛びこの現象を記録する。

 

女性が抑圧された中東の国では、ベール姿の女性が政権を転覆させる。アフリカでは売春を強要されていた女性たちが反乱を巻き起こす。電撃を手にした瞬間、男女の優位関係は逆転する。男性が女性を腕力でねじ伏せてきたように、女性は致死的な電力で男性を排除できる。

 

力に目覚めたマーゴットの心境の変化が印象的だ。州知事の男性ダニエルらと対峙している時。もちろん、これまではダニエルが優位だった。政治の世界は圧倒的な男性社会。でも、マーゴットはこう思う。

(中略)彼女ははるかに高く洗練された領域にいる。肺を満たす空気は氷の結晶で、すべてが澄みきって清潔な領域。実際になにが起こっていようと大した問題ではない。彼女にはこのふたりを殺すことができる。それこそが第一義的に重要な真理だ。(p94)

ダニエルに何を言われても、マーゴットの心中は穏やかだ。澄みきっている。それは、「いざとなれば目の前の男の命を奪えるから」。これまでは逆だった。ダニエルはいざとなれば、目の前の女性を倒すことができた。権力の源泉は物理的なパワーである。パワーがあるから支配できる。そんな「真理」が浮き彫りになる。

 

力を手にした女性は「男性」になる

抑圧されてきた女性が、軛を逃れる。世界を変えていく。その先には、優しい風景が広がりそうなものだ。横暴で、粗野で、子どもっぽい男性が支配したからこそ、世界は絶望的だったのではないか。でも、話は簡単にはいかない。

 

各地で女性による支配が確立されていく。ある場所で、ジャーナリストの男性トゥンデはこんな体験をする。

 路上で女たちの集団ーー笑ったり冗談を言ったり、空に向かってアークを飛ばしたりしているーーのそばを歩いたとき、トゥンデは胸のうちでこうつぶやいた。ぼくはここにいない、ぼくは何者でもない、だから目を留めないでくれ、ぼくを見ないでくれ、こっちを見てもなんにも見るものはないから。

 女たちはまずルーマニア語で、それから英語で声をかけてきた。彼は歩道の敷石を見つめて歩いた。背中に女たちが言葉を投げつけてくる。淫らで差別的な言葉。だが、彼はそのまま歩きつづけた。

 日記にこう書いた。「今日初めて、路上でこわいと思った」インクが乾いたとき、その文字を指でなぞった。真実は、その場にいない者のほうが耐えやすい。(p331)

力を誇示し、集団で、誰もが歩けるはずの路上で、性的・差別的な言葉を投げつける。この景色は、どこかで見たことがある。女性が道を怖くて一人では歩けないと嘆く世界が、逆転した形で再現されている。

 

まるで女性が「男性」になっている。ジェンダーを理由に、それに付随するパワーを武器に、一方的に相手を支配する「男性的なもの」になっている。ここに大切なことが詰まっていると思う。問題なのは、パワーを乱用すること。そしてパワーがある者が、ないものを支配できるという考え方そのものなんだ。

 

歴史小説「パワー」は、徐々にカウントダウンを短くしていく。あと十年だった序盤は、八年、五年と、「その時」に近づく。女性のパワーが発現して、十年後、世界はどうなるんだろうか。見届けてほしい。

 

今回紹介した本は、こちらです。

パワー

パワー

 

 

 

オルダーマンさんは同じく小説家マーガレット・アトウッドさんから指導を受けたといいます。アトウッドさんの「侍女の物語」も、同じくジェンダーをテーマにしたディストピア小説。女性が生殖のための「道具」にされる世界を描きます。

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SFではなく、現代小説としてジェンダーを扱ったものでは、「82年生まれ、キム・ジヨン」がオススメです。お隣・韓国で、女性が生まれてから働くまで、ずっとずっと「背負わされている」状況が巧みに物語化されています。

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新しい本能をつくるー読書感想「生き残る判断 生き残れない行動」(アマンダ・リプリーさん)

人間は「新しい本能」をつくることができる。本書「生き残る判断 生き残れない行動 災害・テロ・事故、極限状況下で心と体に何が起こるのか」が示してくれる希望はそこにある。人間の認知・身体的な本能は、現代の災害下では時に不利になる。だけど、知性的な訓練で、動物的本能と同程度に、防災に役立つ姿勢を育てることができる。

 

ジャーナリストのアマンダ・リプリーさんのノンフィクション。9・11同時多発テロ、ハリケーン「カトリーナ」、バージニア工科大学銃乱射事件、ビバリーヒルズ・サパークラブの大火災、エア・フロリダ90便墜落事故など、さまざまな極限状況から生存した人々へ丹念にインタビューし、その場で「本当に起きること」を抽出していく。積み上げたファクトを科学的理論で整理して、ストーリー性と学術性を高度に両立したルポタージュだった。岡真知子さん訳。ちくま文庫。2019年1月10日初版。

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生き残る判断生き残れない行動 (ちくま文庫)

生き残る判断生き残れない行動 (ちくま文庫)

 

 

不安の方程式

本書は「こうすれば生き残れる」というハウツーではない。同じ災害は二つとなく、同じ行動を取っても生き残れない場合もあるだろう。当然、命を落とした人の行動が間違っていたということもない。最善を尽くしても命を奪われるのが災害だ。その上で本書は、「極限状況下で人はどんな風になるのか」と丁寧に向き合う。そして、なんとか危機を逃れる方法はないのかを模索していく。

 

極限状況下で人に到来する現象といえば、パニックが思い浮かぶ。しかしリプリーさんは、「実際には、災害やテロで人がパニックを起こすことは少ない。それよりも遥かに、別の反応が起こる可能性が高い」と書く。これこそ、本書の端的な学びでもある。

 

実際にまず起こるのは「否認」である。人は危機的状況を「何かの間違いだ」と思いがちだ。その後、「思考」する。逃げるよりもはるかに、恐怖して、考え込んでしまう時間が長い。そしてようやく「決定的瞬間」が訪れる。ここで集団がパニックに陥ることもあれば、なおも麻痺したまま逃げられないこともある。そして中には、英雄的な行動に出て命を救ったり、あるいは自らの命を落としたりする。

 

否認・思考・決定的瞬間という流れを理解するのに、リプリーさんが提唱する「不安の方程式」が役立つ。方程式はこうだ。

不安=制御不能+馴染みのなさ+想像できること+苦痛+破壊の規模+不公平さ(p84)

例えばテロを考えてみる。テロは起こす側にコントロール権があり、被害者に制御は不能。人生に一度あるかないか、馴染みはない。一方で、9・11を始め、テロの被害は既に我々の中にはっきり映像化されている。計り知れない苦痛と破壊。そして、どこで誰が巻き込まれるかは、なんの公平さも公正さもない。つまりテロは、不安を抱かせるあらゆる要素を持ち合わせた、超巨大な不安と言える。

 

一方で、交通事故はどうだろう。車は自分で運転できるし、毎日目にしていて、一方で何かの不具合が起きるなんて想像することはない。苦痛と破壊はテロよりはまだ小規模だろう。交通事故の被害者の数の方が圧倒的に多いのに、テロの方が「怖い」理由はここにある。そんな不安を、直視することは難しい。だからこそ、人は本能的に否認してしまう。

 

否認し麻痺する心と体

パニックより前に、人は否認する。9・11が起きた際、世界貿易センターで人々がどのように行動したかを分析したカナダ国立協議会ギレーヌ・プルーさんはこう書いているという。

(中略)「火災時における実際の人間の行動は、”パニック”になるという筋書きとは、いくぶん異なっている。一様に見られるのは、のろい反応である」と、雑誌「火災予防工学」に掲載された二〇〇二年の論文に彼女は書いた。「人々は火事の間、よく無関心な態度をとり、知らないふりをしたり、なかなか反応しなかったりした」(p41)

災害下で人は、無関心な態度、知らないふりをする。のろい反応になる。本当はすぐにでも逃げなければいけない状況でこそ、人は否認してしまう。この認知的なクセを自覚するだけでも意味は大きい。もし災害に巻き込まれて、「大丈夫、大丈夫」と緩慢になったら思い出せばいい。それは否認であって、災害下の典型的な反応だと。

 

否認は身体的な作用も大きい。ミズーリ州セントルイスの警察学校指導教官、ブルース・シッドルさんは、研究で次の結果を導き出した。

(中略)彼は、心拍数が毎分百十五回から百四十五回のあいだに、人は最高の動きをすることを発見した(休んでいるときの心拍数はふつう約七十五回である)。この範囲だと、人々はすばやく反応し、視覚も良好で、複雑な運動技能(たとえば車の運転)もうまく使いこなす傾向がある。

 だが約百四十五回を越すと、機能が低下しはじめる。血液が心臓のほうに集中するせいか喉頭の複雑な運動制御も機能を停止して、声が震えだし、顔が青ざめ、手の動きがぎこちなくなる。視覚、聴覚、距離感覚も衰えはじめる。(p144)

人間はある程度のストレスなら身体パフォーマンスを高めるカンフル剤にできるけれど、極限のストレスに対しては機能低下を起こす。運動能力だけでなく視覚や聴覚も衰える。だから動きがのろくなるわけだ。

 

また、否認と似たような反応に「麻痺」がある。これは否認、思考の壁を超えて決定的瞬間のフェーズになったとき、なおも行動を起こせない状態だ。実は麻痺も、人間の本能的な機能。カエルが死んだふりをするのと同様、野生では動きを止めることで捕食者の関心を削ぐことができる。あるいは運動量を減らしてやり過ごすことで、災害が過ぎ去るのを待つことができる。非常に適応的だけれど、悲しいことに、人間が直面する災害やテロのもとでは裏目に出る。

 

文化的進化

では「生き残る判断」や「生き残る行動」はないのだろうか?人間は認知的・身体的に自然発生する反応によって逃げ遅れ、命を落とさざるを得ないのか。リプリーさんは諦めない。人間には遺伝的進化ともう一つ、「文化的進化」があると語る。

 だが進化には二種類ある。遺伝的なものと文化的なものである。どちらも人間の行動を方向づけるが、文化的な進化の速度のほうがずっと速くなっている。現在、訓練などによって「新たな本能」を作り出す方法がいくつもあり、どうすれば行動がよりよいものになるのか、あるいはより不適切なものになってしまうのかを学ぶことができる。また言語を伝えていくように、現代のリスクにどう対処するかについて伝統的な方法を伝えることもできる。(p22)

私たちは訓練によって「新たな本能」を作り出すことができる。リプリーさんはこの新たな本能にこだわる。それは、彼女がインタビューした生存者の中に本能としか言いようがない根源的な思考法を見出したからだろう。

 

1982年1月、大量の雪が降り注ぐ米ポトマック川に、エア・フロリダ90便が墜落した。この飛行機に乗り合わせ、生存したジョー・スタイリーさんへのインタビューで、リプリーさんは当時の様子をこう描写する。

 意識が戻ったとき、スタイリーは座席にまっすぐ座ったまま、首まで水に浸かっていた。フェルチはまだ隣にいた。まわりではほかの人たちがうめいている声が聞こえた。やがて飛行機が沈みはじめた。機体は水面下に落ちていき、非常に長く思える間、ゆっくりと沈み続け、ついに川底で止まった。(p325)

衝撃で意識を失い、目を覚ました時にはもう飛行機は極寒の川に沈んでいた。まさに否認したくなる状況だ。こんなことあってはならないと。しかし、スタイリーさんは違った。

(引用続き)その間、スタイリーは頭の中でチェックリストをつくっていた。やるべきことがたくさんあった。まず最初に、左脚を救い出す必要があった。ひどい骨折をして残骸にはさまれていたのだ。またシートベルトもはずさなければならなかった。それからフェルチを助けなければならない。本書に登場する生存者の多くと同様、軍事訓練を受けていたため、つねに計画を立てることを教わっていた。おそらくそれが彼の命を救ったのだろう。「そういった訓練を受けることはものすごくためになります」と彼は言う。「どうすべきか思案しながらそこに座っていたりしないのです。行動するんです」(p325)

スタイリーさんは、それまで受けてきた軍事訓練で「チェックリストをつくり、それに基づき行動する」という思考法を定着させていた。それをこの極限状況下でも発揮した。まず骨折してしまった左脚をどうにかする。そしてシートベルトを外し、隣の秘書フェルチさんを助ける。「すべきこと」を整理したことで、スタイリーさんは否認も思考も乗り越えてすぐに決定的瞬間のフェーズに移行した。

 

スタイリーさんは訓練によって、計画し即行動するというやり方を「本能化」した。それが自動的に駆動し、幸いにも墜落事故から生存することができた。人間は本能の奴隷ではない。人間らしい修練で、望ましい本能にアップデートできる。生きていくために、生き残るために、大切な学びになった。

 

今回紹介した本は、こちらです。

生き残る判断生き残れない行動 (ちくま文庫)

生き残る判断生き残れない行動 (ちくま文庫)

 

 

認知のクセを自覚し、現実を直視し、そこから地に足の着いた希望を描く。自らを「楽観主義者」ではなく「可能主義者」だと語る、ハンス・ロスリングさんと、その著書「ファクトフルネス」を思い出しました。世界は良くなっているし、もっと良くなることを、データと認知科学の知見から明らかにする本です。 

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極限状況下で生き延びることを至上命題にする人といえば、やはり軍人でしょう。タリバン兵に包囲された経験を持つクリントン・ロメシャさんの回顧録「レッド・プラトーン」は、弾薬や血の匂いが立ち上りそうなくらい生々しいノンフィクションです。 

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