読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

普通のおじさんの非凡な言葉ー読書感想「パリのすてきなおじさん」(金井真紀さん)

「パリのすてきなおじさん」は文字通り、パリの街角にいるすてきなおじさんのインタビューを集めた、おじさん図鑑だ。誰も彼もすてきだけれど、特別じゃない。働いて、遊んで、失恋したり泣いたりして。普通の人生を一生懸命歩いてきたおじさんの言葉はだけど不思議で、エスプレッソのようにぎゅっと哲学が凝縮している。だから本書は勇気の書でもある。自分もこの普通の人生を全力投球してみようかな、と。

 

作家でイラストレーターの金井真紀さんの肩の力の抜けた文章と、おじさんの特徴を捉えたイラストが楽しい。フランス在住のジャーナリスト広岡裕児さんの案内で、パリの深く深くまで分け入る。柏書房、2017年11月初版発行。

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パリのすてきなおじさん

パリのすてきなおじさん

 

 

百時間かけてやりたいわけさ

金井さんはおじさんが好きだ。おじさんとは何か。伊丹十三のこんな言葉を冒頭に引用する。

 「少年である僕がいるとする。僕は両親が押しつけてくる価値観や物の考え方に閉じ込められている。(中略)ある日ふらっとやってきて、両親の価値観に風穴をあけてくれる存在、それがおじさんなんです」(p2)

自分が固定されている人間関係、それによって規定される考え方、価値観。そこに風穴をあけてくれるのがおじさんだ。本書「パリのすてきなおじさん」には、そんなおじさんが次々登場する。縁もゆかりもないからこそ、だけどすてきだからこそ、本書から吹き上がる風は爽やかに感じる。

 

下町のパリ20区、ベルヴィルではシズラー(彫金師)のベテラン、フレデリック・モレルさんに出会う。47歳。祖父も父もシズラーで、17歳で出会って結婚した「かみさん」の父親もシズラー。かつて国立造幣局で硬貨や勲章、教会の鐘を手がけていたが、辞めた。フレデリックさんの理由は明快だった。

 「でもなあ、十年経って気づいたら、おれより技術のある人間がまわりにいないのよ。それで、もういいや、やーめたって」

 自分の仕事を批判する人がいない職場はつまらない。同じことを繰り返していても技量は下がっていくだけ。

 「おれは金のためにこの仕事をしてるわけじゃねえし」(p52)

 

そうして独立して、仕事を続けてきた。「金のために仕事をしてるわけじゃない」と言って実際に根を上げず、コツコツ仕事をするというのは簡単じゃない。この継続にフレデリックさんの凄みがある。フレデリックさんの仕事哲学はこのセリフに現れる。

 「俺は細かいところまで丁寧にやりたいの。機械を使えば二時間でできる仕事を、手で百時間かけてやりたいわけさ。その気になりゃいまの三倍は稼げるかもしれないけど、それはおれの仕事じゃねえから」

(中略)

 「いまは3Dプリンターを使った復元でも商売になっちまう。このセーブル焼きの壺の取っ手だってな、3Dなら七百ユーロでできるんだと。それを聞いておれは言ったのさ。じゃあ手仕事だけで六百ユーロでやってやるよってな」(p53)

機械を使えば二時間の仕事を、手で百時間かけてやりたい。3Dプリンターで七百ユーロの仕事なら、手仕事で六百ドルでやってやる。これ以上なく具体的な話。自分の仕事を自分の言葉で語れるようになることって、格好いいなと思った。

 

隙間がある街パリ

金井さんが収集するおじさんはサラダボウルという言葉がぴったりだ。

おじさんは「おしゃれなおじさん」「アートなおじさん」「おいしいおじさん」「あそぶおじさん」「はたらくおじさん」「いまを生きるおじさん」に分類されている。それぞれの分類に多様なバックグラウンドの人がいて、モザイク状になっている。「おしゃれなおじさん」の中のLGBTセンターのボランティア。「はたらくおじさん」の中には西アフリカのマリから出稼ぎに来て36年のコンシェルジュがいる。

 

言い切れるほど綺麗ではないのだろうけど、パリは多様な人が共生していることが、おじさん模様からもわかる。「共生」というとちょっと肩肘が張るけれど、パリにはきっと、隙間があるんだろうなと思った。

 

スペイン生まれのギター作家リベルト・プラナスさん、76歳。14歳で地中海に面した地元の港町アルメリアで職人見習いになる。その後、グラナダ、バレンシア、そしてイタリア、ドイツ、アメリカと転々とする。27歳、フランス国立音楽学校の先生になり、35歳でパリにギター学校を設立した。いまはモンマルトルの坂道にこじんまりとしたギター工房を構える。

 

国立学校の先生にギター学校。公的な仕事の一方で、芸術の街モンマルトルに小さな居場所を構えることもできる。リベルトさんの人生の節目にそった、ちょうどいい隙間がこの街にはあった。もちろんリベルトさんの人柄もあるけれど。

 「ぼくはねぇ、どこにいても自分の家にいる気持ち。昔からそう」(p46)

 

生きることに決めたの

金井さんはパリ礼賛を狙ってはいない。むしろ、共生と両面に起こる摩擦や衝突を理解しようと努めるし、それを読者にも見せる。印象的だったのは、2015年11月に起きた同時多発テロの現場となったカフェに足を運んだシーン。

 

「テロのことを・・・」と言いかけた広岡さんを、女主人は「それはもう昔のことです」と遮る。金井さんと広岡さんは、コーヒーだけを飲んで行くことにする。

すると、お客さんの1人の女性クロチルドさんが「ボンジュール」と声をかけてくれる。フランス語は話せない、英語ならちょっとと説明する金井さんに、ゆっくりした英語で語りかけた。

 彼女はニコニコしながら、ゆっくりの英語で言った。

 「わたしたちは、生きることに決めたの。前を向くことに決めたの。そのためには、忘れる時間が必要なの」

 わたしはうんうんと大きくうなずいた。おそらく事件後、この場所に多くの人がはなしを聞きにきたのだろう。写真を撮っていっただろう。そしてあるとき、店の人も常連客も決めたのだろう。もうテロのはなしは終わり、と。

 「よくわかりました。過去を蒸し返すような質問はしません」

 カタコトでそう伝えると、彼女はいい笑顔で言った。

 「わたしの名前はクロチルド。ようこそパリへ!」(p181)

わたしたちは生きることに決めたの。そう言い切れるまでにどれだけの逡巡があっただろう。どれだけの悲しみを噛み締めただろう。そして、この思いを見ず知らずの日本人に伝えることの勇気を思う。クロチルドさんは女主人を代弁して、テロの話はもうやめようということと、それでもあなたと分かり合いたいし、パリを楽しんでほしいという気持ちを、一生懸命に伝えたかったように思う。

 

おじさんたちの、クロチルドさんの、短くても奥行きのある言葉。生き方そのものがそこから立ち上がるような言葉。そうしたものを自分もつかめるだろうか。普通だけど、すてきなおじさんになりたいな。そう思える本だった。

 

今回紹介した本は、こちらです。

パリのすてきなおじさん

パリのすてきなおじさん

 

 

 

言葉に生き方が現れる。地に足をつけて、手を動かして考える人の言葉が面白いと思わされた本といえば、「あるノルウェーの大工の日記」を思い出します。文字通り大工さんのオーレ・トシュテンセンさんの日常、かんなでけずった木屑や工事現場の匂いが漂うエッセイ集です。

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 物語や映画の中でしかいないような存在、カウボーイ。北米で実際に働いて暮らすカウボーイの一員になり、そこから見上げる空を伝えてくれるのが「カウボーイ・サマー」です。著者の前田将多さんは元電通マンで、そのギャップも面白い。

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頼れないという貧困ー読書感想「神さまを待っている」(畑野智美さん)

貧困には種類があることをこの小説から教わった。お金がないことによる貧困。家を失うことによる貧困。食べ物にありつけない貧困。どれも深刻なのは間違いないけれど、根っこにあるのは、「誰も頼れない」という貧困なのかもしれない。畑野智美さんの長編「神さまを待っている」を読んで思う。

 

26歳の派遣会社員の女性が主人公。正社員登用の話を反故にされ、契約を打ち切られたことをきっかけに、家賃を払えず家を失い、漫画喫茶をねぐらにする。やがて男性客とお茶をする「出会い喫茶」に通うようになり、ずぶりずぶりと、深みにはまっていく。彼女はなぜ転がり落ち、そしてなぜなかなか立ち上がれないのか。そこに、関係性の貧困が見えてくる。文藝春秋。初版2018年10月発行。

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神さまを待っている

神さまを待っている

 

 

頼れるというインフラ

帯によれば、「神さまを待っている」は畑野さんが「自らの体験をもとに」描いたそうだ。WEB本の雑誌に公開されているインタビューによれば、短大卒業後に「就職せず演劇をやる」と、長くアルバイト生活を続けてこられたという畑野さん。物語の舞台にもなる漫画喫茶でもバイトをしている。やがて作家を目指す間も不安定な日々はあり、そうした体験が「神さまを待っている」には織り込まれているのかしれない。

 

主人公・水越愛は、大学卒業後に派遣社員となった。必死に就職活動をするも、内定を得られた会社はセクハラ・パワハラが目に見える会社で、辞退した。「できるだけ早く自立したくて、給料の高い会社ばかりを受けた。高望みしたのが敗因だった」と分析できる冷静さは持っていて、少しクールだけれどまっすぐな人物だ。

 

ある程度勤めれば正社員になれると思っていた派遣先の文具メーカーに、あっさりと契約を切られる。失業保険をもらいながら仕事を探すも、なかなか決まらない。やがて家賃を払えなくなった。仕事もなく、家もない。仕方なく、漫画喫茶で寝泊まりする。

 

あらすじを読んでいた時は「いきなりすぎじゃないか」とも思ったが、ページをめくっていると全く不自然じゃない。愛があっという間にいわゆる「ホームレス」となったのは、家族も友人も誰も頼らなかった、いや、頼れなかったからだった。事情があって静岡県の実家、家族とは断絶している。地元の友達とは決して付き合いが濃くなく、何より、相談なんてすれば会いたくもない実家の家族に伝わってしまう。

 

派遣を切られてお金がない。お金がなくて家を借りられない。家を借りられないからまともに仕事を探せない。この悪循環は、誰かを頼れば断てる。たとえば、実家に帰る。するととりあえず住む場所には困らず、じっくり仕事を探せる。あるいは、友達に頼ってなんとか仕事を紹介してもらえれば、短期でお金を稼いで家を見つけ直せる。

 

人間関係もインフラなんだ。何は無くとも頼れる人がいれば、人は貧困にはまり込まない。愛は、ホームレス向けの炊き出しで貧困問題を研究する女子大学院生の仁藤さんに出会い、この現実を突きつけられる。暴力的なまでに。

 「でも、こんな風に言っていても、博士になったところで、就職先なんてないんですよね。このままだったら、院を出た後は、わたしもホームレスかもしれません」

 共感を求めているのか、仁藤さんは笑顔でわたしを見る。

 「仁藤さん、院の学費や生活費は、誰に出してもらっているんですか?」

 「父ですよ」おかしな質問をされたと感じたのか、驚いた顔で答える。「実家暮らしなんで、生活費っていう感じではないですね。食事とかは、母に甘えっぱなしです」

 彼女がホームレスになることはないだろう。(p118)

愛の言う通りだ。仁藤さんは、ホームレスになることはないだろう。仁藤さんは頼れる。お金がなくなったとき、そして家がなくなったとき、仁藤さんは親を容易に頼れるし、親は容易に助けてくれるだろう。「院を出た後は、わたしもホームレスかもしれません」。仁藤さんから愛へ向けたセリフは、人間関係の「富豪」が札束で貧者の頬を叩くようなものだった。

 

普通に届かない

本書を読んでいて、男には分からないことがあるもんだなと感じた。それは先ほどの大学院生・仁藤さんに対面した愛の気付き。仁藤さんは愛と同じ26歳だった。仁藤さんは「お化粧をしていないから子供っぽく見えるんですよね」とおどけてみせたが、愛はそうじゃないと感じる。艶のある髪。肌は白くてなめらかで、綺麗に切り揃えられた爪が美しい。そしてこう思う。

 だが、彼女が若いわけではないのかもしれない。

 わたしは、キレイな服を着ているつもりだったが、全然だ。コインランドリー代を節約して、漫画喫茶のシャワー室で手洗いした服は、袖口や裾がほつれている。スーツケースに入る分だけの服なので、三パターンくらいしかない。コートは、冬の間に一度も洗わなかった。髪は、アパートを出る前からずっと切っていなくて、伸びっぱなしだ。前髪だけは自分で切り、短くしすぎた。肌はどうしようもないくらい、荒れている。顔だけではなくて、腕や足からも、なめらかさは失われた。

 スープのお椀とフォークを持つ手は、乾燥して、皺が増え、祖母を思い出すくらい老けた。(p114)

仁藤さんは着飾っているわけではない。でも、その「普通」は既に潤いのあるものだった。逆に愛が必死に身なりを整えても、その「普通」には届かない。

 

スープのお椀とフォークを持つ手が、祖母を思い出すくらいに老けたと感じたことは、胸をえぐる。本来、愛はスープにありつけるだけでも嬉しかった。それを目当てに炊き出しにきた。それがいまや、貧困によって削り取られた美しさを思わずにはいられない。こんなに苦しいことはない。

 

信じることにも資本がいる

愛は漫画喫茶を拠点に、最初は派遣の仕事をして貯金をすすめる。途中で同世代のマユに誘われ、実入りのいい「出会い喫茶」へのめり込む。女性は男性とお茶をして、「場合によっては」外出し、カラオケし、さらには「自由意志で」ホテルまで行くことで対価を得る。カギカッコにした部分が免罪符になり、形式上は風俗店ではない。実際に、愛は性的サービスを望まず、回避することで稼いでいくが、じりじりと、そこに落ち込む危険は忍び寄る。

 

サクセスストーリーであれば、マユだったり、他の仲間を携えて起死回生をしていくわけだけど、そうもいかないのが悩ましい。よく分かったのが、人と関係を結ぶことはタダじゃないということだ。体ひとつ、心ひとつあれば人間関係を築けるわけじゃない。人を信じることにも、資本がいる。

 

愛は出会い喫茶で知り合ったシングルマザーのサチの家へお邪魔する。そこでサチの子どもへ料理を教えたものの、サチは感謝するどころか、こうこぼした。

 「ああやって、ルキアに料理や掃除を教えたりしないでもらいたかったなあ。親切にしてくれる人がいるって思わせて、絶望させたくないの」(p149) 

 愛は引っかかりを覚えるけれど、どことなく理解もできる。のちに、その心情をこう表現する。

 昨夜の夜、サチさんから「絶望させたくない」と言われた時、わたしは違和感を覚えた。自分の不幸に酔っているみたいな言葉で、彼女らしくないように感じた。しかし、サチさんも出会い喫茶に来る女の子たちの多くも、希望以上に「絶望」を見つめながら、生きてきたんだ。望みを持った先には、いつも必ず「絶望」が待っていると、決めつけてしまっている。(p154)

望みを持った先に、希望がある。そう思えるのは、希望を信じ続けるエネルギーが心にあるからだ。しかし、サチをはじめ、出会い喫茶にいる女性は嫌というほど「絶望」を見てきた。信じ続ける資本を、もうとっくに使い果たしている。

 

どうしようもない現実が見える。人を頼れないことで、貧困に落ち込む。今度は貧困が続く中で、人を信じることができなくなる。仁藤さんはこの逆回転だ。親を頼れるからこそ大学院に通えて、そしてきっと、大学院での経験がよりよい仕事も、住居も、そして人間関係も連れて来る。

 

 

人を頼れない状況になると、ますます人を頼れなくなる。このことが「神さまを待っている」というタイトルに滲んでいるように思えてならない。神さまを「信じている」ではないのだ。もうとっくに、信じられるような状況ではない。作中である人物の姿勢を見て、愛がこう思う場面がある。「彼女は彼女の意思で、誰が『神さま』なのか、決めた」。誰も信じられない、誰も神さまじゃない中で、それでも決めなきゃ、生きていけない。

 

愛は果たして神さまに会えるのか。この貧困を抜け出せるのか。

 

今回紹介した本は、こちらです。

神さまを待っている

神さまを待っている

 

 

「神さまを待っている」はフィクションですが、女性の貧困、その先にある性産業というのはまぎれもない現実です。社会から女性を「弾き出す力」が、性産業を生んでいるという視点で書かれた「彼女たちの売春」が、実態を理解する助けになります。

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人間関係がないことの苦しさは、裏返せば人間関係によって人は穏やかに、豊かになれるということでもあります。人を受容すること、異なる者同士がなんとなく一緒にいられるふんわりとした関係を感じさせてくれる「メゾン刻の湯」。読むことでちょっと呼吸が楽になると思います。

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12時間後に起こるかもしれないSF小説ー読書感想「ハロー・ワールド」(藤井太洋さん)

このSF小説に描かれている出来事は12時間後に実際に起きているかもしれない。藤井太洋さん「ハロー・ワールド」はそのぐらい、超近接未来を克明に語る。物語をつくる大道具は、ドローン配送や自動運転車、ツイッター、仮想通貨などなど。帯の惹句にあるように「近未来ガジェットノベル」というのもフィットする。

 

SF作品でありながら、実はサラリーマン小説なのも面白い。大道具は最新鋭なのに、主役は専門を持たない「何でも屋」のエンジニア。何気ない仕事やチャレンジの一局面に突然、テクノロジーと人間の衝突が降りかかる。開発中のアプリが政府の不正を暴いてしまったら、告発するのかスルーするのか?大きな問題が凝縮した小さな選択を迫られる小市民な主人公に共感するし、手に汗を握るし、何より、勇気をもらえる。講談社。

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【Amazon.co.jp限定】ハロー・ワールド(特典: オリジナルショートストーリー データ配信)

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未来はもう始まっている

「ハロー・ワールド」の世界はもう立ち現れつつある。未来はもう始まっている。SF小説といえば、はるか数百年後の未来を空想したり、現実からちょっと軸がずれたパラレルワールドに浸るのが醍醐味だけれど、本作は一味違う読書体験ができる。

 

たとえば表題作「ハロー・ワールド」のテーマは「広告ブロッカーアプリ」。ウェブ上に表示される特定の広告を非表示にして、インターネットのユーザー体験(UX)を改善するツールで、実際のアプリ市場にも既に存在する。主人公のエンジニア文椎(ふづい)は、エンジニア仲間2人とチームを組んでブロッカーアプリ「ブランケン」をローンチする。会社の通常業務とは違う「ものづくり」をやってみたいという、ちょっとした遊び心だった。

 

しかし、ブランケンが突然、ある地域でのみ爆発的にヒットする。それは東南アジアの島国。なぜ?A/Bテストなんかで検討してみると、どうやらブランケンによって政府広報が消せることが受けているらしい。でも、どうして政府広報を消したいのだろう。さらに調べていくと、文椎たちは政府の「ある不正」を掴んでしまう。

 

読者はいつのまにかスリリングな未来に迷い込む。一歩先の技術に触れる物語が少しだけ道を外れて、巨大な不正や大きな危険の一端に触れてしまう。

 

本書は連作短編集の形式になっていて、続く「行き先は特異点」「五色革命」でも同様の体験が待っている。技術について楽しんでいたはずが、人間の権利や、権力の横暴や、予期せぬ事故にはまっている。

 

倫理は突然問われる、小さく問われる

物語の主人公はよく巨大な問いに向かい合う。そして確固たる正義や価値観で巨大な正解を叩き出し、巨大な成功を成し遂げる。一方で「ハロー・ワールド」の主人公、エンジニアの文椎は共感も好感も持ってしまうぐらい、小さな人だ。

 

エンジニアといっても、突出したスキルがない。プログラミングは「できる」けれど、「めちゃめちゃできる」わけじゃない。ブランケンの製作では、チームを組むグーグル社のエンジニアの郭瀬(くるわぜ)に「ちゃんと動いていないよ。もしそのアプリを育てる気があるなら、手伝わせてくれないかな。グーグルの仲間は優秀すぎで、そういう失敗を見せてくれる人がいないんですよ」(p12)とダメ出しを受けている。

 

だからチームマネジメントもやる。セールスもやる。だけど英語が流暢というわけでもないから海外出張では苦労する。よくいえば「何でも屋」。ただようするに、一介のサラリーマンだ。それがいい。

 

そんな小市民が、突然、そして小さく倫理を問われるのところにリアリティがある。勇者が魔王と戦うように、重大局面は予定調和じゃないのが現実だと思う。なんならそれが重大局面なのか、事態が進行している最中は気づかない時すらある。

 

仲間と気軽に始めたブロンケンが政府の不正に行き着いてしまうというのもそうだ。そこで文椎は悩む。ちゃんとためらう。それがいい。郭瀬から、「公表すれば第二のエドワード・スノウデンになれる」と進言された時の、文椎。

 一度も行ったことのない、誰一人として知り合いのいない国に圧力をかける?

 いつの間にか、僕は握った自分の拳を見つめていた。

 顔を上げると、郭瀬が僕を見つめていた。(p31)

高揚じゃない。そこにあるのは荷の重さと、ためらいだった。告発するのか沈黙するのか、悩み抜いて文椎はあるアクションをとるのだけれど、ためらった末に「何もしない」を選ばないところも、また胸を打たれる。

 

技術も未来も諦めない

 そう、文椎は最終的に諦めない。テクノロジーを愛するギークだけれど、現実に起こった問題へコミットすることにも関心がある。人間臭い一面がある。

 

最後に収録されている「めぐみの雨が降る」では、文椎を脅かすある男からこんな風に評される。ある男は、文椎を自分たちの計画に巻き込みたいというのだけれど、その時の問答だ。

 「いいえ。文椎さんは適任者ですよ」

 「弱虫だから?」

 「違います。人と繋がることを諦めていないからですよ。繋がりを断ち切って逃げ続けた〈ウィキリークス〉の創始者を見ればわかるでしょう。一人になった彼がやっていることは、ロシアの傀儡メディアになって西側を叩くことだけです」(p233)

文椎は自分を「弱虫」だと思っている。しかし相手から見ると「人と繋がることを諦めていない」ように見える。ここにポイントがあるように思う。人と繋がること諦めず、じたばたする限り、人はどうしても弱いんだろう。弱いからこそ人間なんだろう。

 

テクノロジーの本来はこの人間性から独立している。ブランケンは政府の不正があろうがなかろうが機能し、セールされ、売り上げを生み出す。

 

だからテクノロジーは人間を抑圧する方向にも駆動するし、それを嫌悪するのならテクノロジーを遠ざけるという選択もありうる。テクノロジーを諦めることだ。反対にテクノロジーだけを追求した時に、そこに人への繋がりがないんだったら、どこまでもよくわからない方向へ転がってしまいうる。

 

「ハロー・ワールド」はその両極に与しない。そのための道を探る物語だと思う。作家の宮内悠介さんは帯の一言書評でまさにそのことを指摘している。「藤井太洋は諦めない。技術(テクノロジー)も、そして未来も」

 

ある意味でこのSF小説はビジネス書なのかもしれない。テクノロジーと未来の結節点に立ち、その行く末を左右する小さな判断を迫られるのは、私たち一人一人かもしれないから。

 

今回紹介した本は、こちらです。

【Amazon.co.jp限定】ハロー・ワールド(特典: オリジナルショートストーリー データ配信)

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近未来とは反対に「遠未来」を考えるなら、落合陽一さんの「デジタルネイチャー」をお薦めします。コンピュータがもっともっとシームレスに、自然に溶け込むような社会で人間はどう暮らしているだろう。脳を刺激します。

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世界が分岐して「あったはずの世界」を垣間見られるのはSF小説ならではの楽しみだと思います。カンボジアを舞台に、ポルポト政権の悲劇を題材に、ビビットなパラレル世界を見せてくれるのが「ゲームの王国」です。

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ネットワーク科学の専門家が紐解く人間関係論ー読書感想「私たちはどうつながっているのか」(増田直紀)

信用の時代だと言われている。ネットワーク・つながりをどうすれば豊かにできるか、誰もが知りたいと思っている。一方で、その方法論はインフルエンサーの個人的経験が多くて、どうにも再現可能性が低いようにも思えてしまう。そこで本書が役に立つ。脳理論や複雑ネットワークの専門家である数学者・増田直紀さん「私たちはどうつながっているのか ネットワーク科学を応用する」だ。

 

鍵となる概念は二つ。人間関係の広がりを理論化した「6次の隔たり」。一方で安心感を担保する「クラスター」。この二つをバランスよく駆使することで、安心しつつ、異なるコミュニティを行き来するような関係づくりができそうだ。また、いわゆるインフルエンサーの存在を「スケールフリー」「ハブ」という概念で分析することもできる。実用的だし、知的好奇心もくすぐられる。中公新書。

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私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する (中公新書)

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する (中公新書)

 

 

スモールワールドを実現する「6次の隔たり」

増田さんのネットワーク論がまず分かりやすいのは、「人間関係は枝で表現できる」というスタートラインだ。

 

例えば会社の人間関係を考える。まず頭に浮かぶのは、会社という箱に10人、20人が入っている図。枠と人の集合が人間関係に思える。ここで「枝」を導入する。10人の集合でも、自分が枝を伸ばしているのは誰だろうか。隣の席の同僚。人事考課者の部長。仕事のやりとりが多い営業の誰々さん。このように、人間関係は基本的に二者関係で表現ができる。「私」と「あなた」の関係こそ人間関係ということになる。

 

二者関係こそ人間関係、という前提に立って、非常に面白い現象が最初に紹介される。それが「6次の隔たり」。もはや人口に膾炙しているが、世界中の誰とも6人ほどの人間を介すればつながれるという、「スモールワールド」の理論だ。

でも一見すると不思議だ。人間関係が二者関係なら、バケツリレーのようにネットワークが広がるはず。会社の同僚の知り合いの・・・というリレーを続けても、とてもアフリカにまで人の輪が広がるとは思えない。ここにどんなカラクリがあるのか?

 

増田さんは、2004年にフジテレビで放送された「アフリカのサントメ・プリンシペ民主共和国に住むアドリアーノという男性から、何人の紹介で笑福亭鶴瓶師匠にたどり着けるのか」という企画を題材にする。結論から言うと14人目の紹介で本当に鶴瓶さんまで来た。6次よりはもう少し掛かるけれど、100人、千人の単位ではないというのがポイントだ。

 

たった13人で鶴瓶さんにたどり着くまでに、とんでもないジャンプが起きている。6人目まではアフリカを抜け出すことさえなかった。しかし7人目で、南アフリカで漁業をする男性につながり、そこから彼の故郷の鹿児島に飛んだ。一気に日本だ。そこから11人目で大阪のバー経営者に行き、13人目に紹介されたスナックの経営者のお店に、鶴瓶さんが飲みに来ていて決着する。

 

「6次の隔たり」が現実に起こるのは、南アフリカで漁業を営む男性が「日本」と「アフリカ」という離れたコミュニティを架橋するように、「近道」になるような人間関係が存在するからである。

ここがポイントになる。「知り合いの多さ」よりも「近道をどれだけ持っているか」の方が「世界の広さ(あるいは世間の狭さ)」に寄与する。自分とは「異なる」ところへ顔を出す、出会いにいくことは、人生の豊かさにつながる。

(中略)リレーが効率的に起こるためには、バトンタッチが起こる2つのコミュニティの種類が似通っていないほどよい。職場仲間から自分の子どもの保護者の集いへ、あるいは学生時代の友人からバーの知り合いへとリレーする。すると、知人の連鎖は、一挙に異なる世界へと足を踏み入れることができる。(p36)

 

安心は「クラスター」で生まれる

「6次の隔たり」を学ぶことで、「近道」をつくっていけば世界が広がることがわかった。一方で、人間関係は「広さ」だけではなく「強さ」も大切。友人が100人いるよりも、困った時にも自分を支えてくれる親友が少しいる方がよほどありがたい。

 

増田さんは人間関係の強さ、安心感の部分を作る概念として「クラスター」を教えてくれる。クラスターは「複数の人が集まった時、そのメンバー全てが枝でつながっている状態」を指す。例えば3人で考えると、それぞれの枝がつながった状態はすなわち三角形。4人なら四角形に対角線が加わった形になる。

 

クラスターが安心を生むのは「ゲーム理論」で説明できる。二者関係では、特定のルール上で相手を「裏切る」メリットが浮上してしまう。だからこそ二者関係は緊張をはらみうる。

一方でクラスターの場合、AがBに裏切りを試みても、Bは依然、Cに支えられる。むしろAはCから「なんだこいつ」と思われるわけで、「裏切ると孤立する(デメリットが生じる)」という状況が成立する。だから裏切れない。これが安心の正体になる。この場合にBがいなくなっても、AとCは互いに支え合えることを「頑強性」と呼ぶ。

気づかれた方も多いように、これはいわゆる「ムラ社会」の構造と同じ。クラスターは安心を生む代わりに閉鎖的でもある。

 

それでも増田さんは、外に広がっていくつながりと同じくらい、頑強性のあるクラスターを持つことは精神衛生上、大切だと説いて、こんな例を引く。

 あなたの精神的な調子が長期にわたって優れないとする。すると、他人とのコミュニケーションをとる機会が減って、あなたは徐々に枝を失う。あなたの調子が悪いという事実は、あなたがもともとクラスター(コミュニティといってもよいだろう)に属していたならば、コミュニティ内の他の人たちが認識している。すると、「最近(あなたと)連絡とれないんだよね。大丈夫かな」と思っている人が複数いることになる。そのコミュニティの中にいるあなたの友人たちは、あなたについて話しあってくれそうだ。誰が見てもあなたが危機にあるとわかったら、友人はあなたを放っておかないはずである。あなたは助けを得られそうだ。(p102)

クラスターは誰か一人を失っても機能する頑強性を備えているが、裏を返せば誰かが失われそうになることをコミュニティとして認識する機能を持ち合わせている。それがセーフティネットということだろう。もし、この「あなた」が二者関係だけしか持ち合わせていなければ、このように「心配してもらう」という経験は得られない。

 

「6次の隔たり」で世界を広げる。一方で自分なりの「クラスター」を大切にして足元を確かにする。人間関係を豊かにするとは、つまりこういうことのようだ。

 

インフルエンサーは「先住権」

増田さんは「スモールワールド」のほかに後半で、「スケールフリー」というネットワークの性質を紹介してくれる。これは「枝をひたすら増やしていける人が存在する」という話、つまり「世の中にはインフルエンサーが生まれうる」ということになる。

 

年収の例が引かれている。年収をグラフにすると、高年収の人はひたすら高年収であることが分かる。前澤社長のように、桁違いの大富豪が存在する。人間関係、枝の数もまた同様だ。これは「優先的選択」という機能が働くからだという。人間は新しい知人を得るときに、すでに枝の多い人を選びやすい。10億円の金融資産が利息だけでも収入を生むように、人間関係の枝が多い人にはさらに枝が集まっていく。

 

このように人間関係がスケールフリーしている人を、増田さんは「ハブ」と定義する。ハブになるには3つの条件があるという。「能力」「先住権」「運」だ。このうち面白いのは「先住権」だと思う。つまり、コミュニティに先にいる人ほど優先的選択を受けやすい。あなたが立食パーティーに遅れて参加したとして、入りやすいのは人の輪ができているところ。「先にいる」かつ「枝が多い」ことで、新規参入の枝をさらに取り込める。

 

インフルエンサーのオンラインサロンに所属する方が、自分で新たにコミュニティを立てるケースが多いのはなぜだろうと思っていたが、それは「先住権」を「創出」するためなのかもしれない。裏を返すと、先住権を取れない時点でハブになれる可能性は下がるわけで、インフルエンサーの「真似をする」というのは悪手なのだろう。

 

今回紹介した本は、こちらです。

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する (中公新書)

私たちはどうつながっているのか―ネットワークの科学を応用する (中公新書)

 

 

人間関係そのものを考えるのが面倒くさくなるときもあると思いますが、そんな時は日本とまったく違う社会を想像すると楽しい気がします。「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」はまさにそんなニーズに応える一冊で、プナンという民族社会が日本の凝り固まった価値観をほぐしてくれます。

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魅力的で居心地のいいクラスターを作るのはなかなか難しい。理想の一つは、コミュニティがふんわりつながっている小川糸さんの小説の世界かも。本屋大賞にノミネートされた「キラキラ共和国」をどうぞ。

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ABTの三文字が伝え方を劇的に変えるー読書感想「なぜ科学はストーリーを必要としているのか」(ランディ・オルソン)

上手に伝えるために必要なことはたった1つ、ストーリーを学ぶことだ。

 

自分を含め多くの人が、うまく伝えられずに悩んでいる。伝えるべきことはたくさん思いつくのに、その十分の一すら伝えられていない。だけど、世の中には伝えるプロがいる。それがハリウッドだ。アメリカどころか世界中で、数千万人、数億人にその作品を届けている。だから自分たちには、ハリウッドの「ストーリーの作り方」を学ぶ価値がある。本書「なぜ科学はストーリーを必要としているのか」はその教科書になる。

 

極意はたった三文字に凝縮される。ABT。この三文字が、伝え方を劇的に変える。

 

著者のランディ・オルソンさんは科学者だ。いや、科学者だった。海洋生物学者としてハーバード大学で博士号を取得、終身在職権(テニュア)を得たものの、投げ打ってハリウッドの映画監督に転じた異色の経歴の持ち主だ。本書が面白くないわけがない。訳者は坪子理美さん。慶應義塾大学出版会。

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なぜ科学はストーリーを必要としているのか──ハリウッドに学んだ伝える技術

なぜ科学はストーリーを必要としているのか──ハリウッドに学んだ伝える技術

  • 作者: ランディ・オルソン,Randy Olson,坪子理美
  • 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
  • 発売日: 2018/07/20
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 

伝え方は退屈か混乱かどちらかに陥る

なぜ自分たちの伝え方は下手なのだろう?なぜ伝わらないのだろう。

 

普遍的なこの悩みを考える時に、「物語のスペクトラム」が役に立つ。それは、話の中に物語の要素が少なすぎれば「退屈」だし、物語の要素が多すぎれば「混乱」することを示す。

つまらない・・・面白い・・・混乱を招く

語らない・・・・語る・・・・語りすぎ(p21より)

 

「退屈」な話になるとき、その話は「AAA型」になっているとランディさんは指摘する。「そして(And)、そして(And)、そして(And)」という構造だ。

これは非物語的だ。語られるストーリーはなく、単なる事実の提示があるだけだ。誓って言うが、この構造の話は退屈になる。退屈になることは、コミュニケーションがとりうる、二つの最悪の形の一つだ(もう一つは、混乱を招くこと。これについては後で簡単に見ていく)。(p136)

事実の羅列は物語にならず、退屈になる。ランディさんの例ではこんな感じだ。

「人々が歩いています。そして、犬を連れている人もいます。そして、一人ぼっちの人もいます。そして、太陽が輝いています。そして、木もあります。そして、・・・・・・」(p136)

 

たしかにつまらないなあと思うけれど、振り返ってみれば話す時に「AAA型」になることはよくないだろうか?伝えたいことが多い時ほど、その全てを順番に並べたがる。退屈の罠に自覚しないところではまっていることは多そうだ。

 

この対極にある「混乱」は「DHY型」になる。DHYは何の頭文字か?それはぜひ本書を開いて確かめてほしい。ポイントは、コミュニケーションにおいて物語の要素が全くないのは「退屈」だし、多すぎると「混乱」になる。そしてどちらも「面白くない」。

 

オズの魔法使いはなぜ面白いのか?

ハリウッドは退屈と混乱の間の最適点を射抜いている。だから面白い。最適点の物語構造とは何か?それが「ABT」構造だ。「そして(And)、しかし(But)、したがって(Therefore)」という、物語の本質だ。

 

ランディさんは日本語版の序文で本書のサマリーをABTで表現する。

 科学は多くの人々にとって偉大な喜びであり、そして、私たちの暮らしを向上させてくれるものです。しかし、科学のことを伝えるのは時に難しくもあります。したがって、私たちはコミュニケーションにいっそうの努力を費やす必要があります。(pⅲ)

どうだろう?本書に含まれる問題意識、展開が端的に理解できると思う。

 

面白い物語には、ABTが隠れている。本書ではたびたび名作「オズの魔法使い」が例に挙がる。当てはめてみるとこんな感じだ。

  • オズはカンザスで暮らしている。しかし、竜巻に吹き飛ばされ不思議の国に迷い込む。したがって、どうにかカンザスに戻ろうとする。

 

2013年に大ヒットした「ゼロ・グラビティ」はこんな感じ。

  • 主人公が宇宙にいる。しかし、宇宙船に大量のデブリがぶつかって、主人公は宇宙で迷子になり、宇宙船も壊れる。したがって、なんとか無事に地球へ帰還しようとする。

 

ランディさんの例示の方がもっと面白いので引用する。ヒッチコックの映像から抜き出したABTだ。

 ヒッチコックの映画から抜き出してきた物語的な映像は、こんなふうになるだろう。「室内に四人の男性がいる。そして、彼らは落ち着いているように見える。しかし、その中の一人が銃を抜く。したがって、誰かが撃たれることになる」。これがABTだ。そして、これは興味を引く。(p137)

ABT構造はシンプルであり、一方でButによる緊張感、冒険の予感がある。このバランスが「退屈」の罠にも「混乱」の罠にもはまらない、最適点といえる。

 

物語とは課題解決である

良質な物語=ABT構造の威力は凄まじい。ランディさんは、同じ「気候変動」を扱った「不都合な真実」「デイ・アフター・トゥモロー」を対比して、その違いを鮮明に示す。

 

「不都合な真実」は米国の政治家で元大統領候補アル・ゴアが、人類により環境破壊の数々を明示したドキュメンタリーで、一時期とんでもないヒットになった。これは「AAA型」、ひたすらに人類の所業と暗い行く末をファクトの形で紹介する。

一方で「デイ・アフター・トゥモロー」はありえない異常気象が次々と世界を襲い、主人公らがなんとか対応する物語だ。東京には雹の雨、ロサンゼルスには巨大竜巻。もちろんそれはフィクションで、非科学的だとさえ言える。ポイントは、こちらは「ABT構造」だということ。

 

二つの作品を、世界はどう受け止めただろう?ランディさんが語る。

 AAA構造のほうの映画は、二五〇〇万ドルを売り上げた。一方、ABT構造の映画は一億八六〇〇万ドルの売り上げを達成した。人々は今でも良いストーリーが好きなのだ。

(中略)

 この世界は今も物語の力で回っていて、ストーリーが事実上すべてのものに織り込まれている。だったら、なぜそれを恐れる? これは、この本全体で投げかける、もっとも重要な疑問かもしれない。(p244−245)

世界のあらゆるものに物語が織り込まれている。この世界は今も物語の力で回っている。これが、物語を学ぶべき、ハリウッドを見習うべき理由だ。誰もが物語に惹かれる。AAA型で伝えがちな人だって、本当はABT型の物語の方が聞きやすい。

 

ランディさんが、ここまで物語を重視するのは「物語は課題解決である」という信念を持っているからでもある。

 僕は物語、あるいはストーリーを、問題に対する解決策を探し求める過程で起きる出来事の連なりと定義する。

(中略)

 すると、「ストーリーテラー」というのは、問題に対する解決策を探し求める過程で起こった出来事の連なりを、順を追って話す人に他ならない。ここで、科学におけるストーリーの役割について、どこに「問題」が潜んでいるかが見えてくる。AAA方式から抜け出せない人は、明確な問題を示すことができておらず、問題を解決する過程で起きる一連の出来事を語ってはいない。それとは反対に、彼らは大量の情報を語っているだけだ。何のためのものかわからないまま、れんが工場で完璧なれんがをただ製造し続けているのだ。(p248)

物語とは課題解決である。だから物語を語れない人は「課題が何か」に気づけていない、明確な問題意識が示せていないということだ。

 

だから、上手く伝えるということは「鋭い問題意識」をもつことなんだろう。明確な課題設定からしか、明確な課題解決は生まれない。自分が話したいことをABT型に無理にでもしてみる利点はここだ。物語を紡ごうとする中で、だんだんと課題が浮かび上がってくる。その先に、自分なりの物語が、相手に届く瞬間がやってくる。

 

今回紹介した本は、こちらです。

なぜ科学はストーリーを必要としているのか──ハリウッドに学んだ伝える技術

なぜ科学はストーリーを必要としているのか──ハリウッドに学んだ伝える技術

  • 作者: ランディ・オルソン,Randy Olson,坪子理美
  • 出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会
  • 発売日: 2018/07/20
  • メディア: 単行本
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ABT型は実は人生を面白くするためにも大切かもしれません。いろんな苦境、逆境を次の「したがって」につなげることで、人生を豊かなストーリーに変えていける。そうなると「しかし」への対応が重要ですが、「OPTION B」はそこで発揮されるレジリエンスのつけ方が学べる良書です。

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物語の力を色濃く感じたのがいとうせいこうさんの「『国境なき医師団』を見に行く」だったんですが、よくよく見てみるとここにもABT構造が隠れている気がします。ファクトを伝えるにも、やっぱり物語は重要だと思わされる一冊。

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ジャージの君へー読書感想「ナナメの夕暮れ」(若林正恭)

この本は「人生」という試合の舞台になかなか乗っかれない人のためにある。思い通り試合を運べないとか、勝てないとか、そんなレベルじゃなくて。そもそもユニフォームを着られずに、ジャージ姿で舞台の脇に立ちすくんでいる人のためにある。お笑いコンビ・オードリーの若林正恭さんのエッセイ「ナナメの夕暮れ」は、そういう人に向かって書かれている。

 

夕暮れのタイトル通り、40歳を迎えつつある若林さんの「自分探し」の旅の「終着点」が語られる。旅の終着は、人見知りでネガティブな若林さんがポジティブになったとかじゃなくて、そのまま日が暮れていくような形だ。でもそこに一抹の希望が感じられる。晴れた夕暮れの茜色が美しいように、「生きていくのも、歳を重ねるのも、悪くはないんだな」と教えてくれる。文藝春秋。

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ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 

疲れた先にある気付き

本の情報誌「ダ・ヴィンチ」の連載(2015年8月〜18年4月)に加筆した本書。背骨としてそれぞれのエッセイを貫いているのが「気付き」だと思う。「社会人大学人見知り学部 卒業見込」というエッセイ集を出した若林さんが、30代を駆け抜け、40になるにつれて見出したいろんな気付きが詰まっている。

 

テレビ番組で、パンケーキにカピバラの絵を描いて、カピバラの被り物をしながら食べるお店のVTRを見た若林さん。「昔なら鼻で笑っていた」のに、いまは「なるほど」と思ったという。こういう「ファンタジー」が必要なんだと。引用する。

 若い頃、ぼくはリアルに生きることを目指していた。この世界と自分の真実だけを芯で捉えて生きてやろうと息巻いていた。それがリアルだと信じていた。そんなことは無理だったし、ぼくがかつて「真実」と呼んでいたものだって時と場合によって簡単に姿を変える、有って無いようなものだった。それならば、今のぼくはファンタジーを選ぶ。使命というファンタジーを作り出し、それを自分に信じ込ませる。自分の仕事には意味があると言い聞かせて、虚無気味の世界にカピバラの顔を描く。趣味や娯楽を振り回し、ただ生まれて死ぬという事象にデコレーションしまくる。真実はあまりにも残酷で、あまりにも美しくて、まともに向き合うと疲れてしまうから。真実はたまにぐらいが丁度いい。(p44)

これは一言で言ってしまえば「ファンタジーの大切さに40歳目前で気付いた」ということなのかもしれないけど、そう要約するだけではしっくりこない。気付きを生み出したもの。それは「真実だけを芯で捉えて生きていくこと」が「無理だった」ということ。自分の仕事に意味を感じられないこと。生まれて死ぬという事象。真実と向き合っても「疲れる」ということ。そういう境地にあったのがファンタジーだった。

 

「まあ、いっか」と手に取ったファンタジーというもの。肯定したくて肯定したわけじゃなくて、否定して否定して、斜に構えて生きてきた先に「手に取れた」ものがファンタジーだったんだと思う。ああ、そういうものに出会えるんだ、生きていれば。若林さんの言葉に触れて感じられる希望はそんな風に、神々しくなくてむしろ仄かだった。

 

世界を肯定する自分を晒す

若林さんは別に「こんな人生が待ってるぜ」と誘ってるわけじゃない。希望があるってアジってるわけじゃない。自分が気付いたこと。気付いてしまったことを、報告してくれているというのが近い。

 

中盤の「凍える手」という章で、その思いがストレートに綴られている。「あるきっかけ」で、若林さんは「人間は内ではなく外に向かって生きた方が良い」ということを「全身で理解できた」。そのきっかけは本書で確かめてもらうとして、その時の思いを引用させてほしい。

 (中略)教訓めいたことでもなくて、内(自意識)ではなく外に大事なものを作った方が人生はイージーだということだ。外の世界には仕事や趣味、そして人間がいる。 内(自意識)を守るために、誰かが楽しんでいる姿や挑戦している姿を冷笑していたらあっという間に時間は過ぎる。だから、僕の10代と20代はそのほとんどが後悔で埋め尽くされている。(p143)

そしてこう続ける。

 そんな陰鬱な青年期を過ごしてきたから、おじさんになった今こそ世界を肯定する姿を晒さないとダメだと思った。慣れてないからたどたどしいし、背伸びをしている姿は滑稽に映るだろうけど。さっきからずっと良い格好をしようとしているけど「出待ちの男の子に向けて」なんて聞こえの良い話ではなく、自己否定の世界を生きていた「10代20代の自分のため」なのかもしれない(ここへ来てまた自意識)。(p143)

世界を肯定することを、外に開かれて、大事なものを内(自意識)じゃなく世界に持つことを、「晒している」のだと若林さんは言う。誰のためだといえば、自己否定にまみれた若い頃の自分のため。自意識を出ようとしてまた自意識に後ろ髪を引かれながらも、若林さんは「世界を肯定すること」を晒している。

 

何に希望を感じるかといえば、そんな姿を晒してもいいと思えるような、「世界を肯定すること」を「全身で理解できる」瞬間が、いまはなくても、この先待っているかもしれないということだと思う。その瞬間を迎えても、過去が「後悔」に変わるだけかもしれない。自分は何をしていたんだと。でも、夕暮れに一瞬展開するマジックアワーみたく、有無を言わせず「良かった」と思える時間が、待っていることは希望以外なにものでもない。

 

茶帯が黒帯になるための本じゃなくて

なぜ若林さんのエッセイは読んでいてここまで救われるのか。その理由がはっきり分かったのは、あとがきのこのフレーズに触れた時だった。

 一流のアスリートが「全ては自己責任だ」と言い切ったり。

 ビジネスの成功者がビジネス書なんかで強者の論理を振りかざしたり。

 マジで反吐が出る。

 そういう奴らは、

 「考えすぎ」

 「気の持ちようだよ」

 「前向きに捉えなきゃダメだよ」

 とか、

 「口角を上げよう」

 「背すじを伸ばそう」

 「挑戦し続けよう」

 みたいな、生き方音痴にとっては何の役にも立たないクソみたいな言葉を簡単に投げかけてくる。

 それを凝縮して固めたような自己啓発本なんか、当然何の役にも立たない。

 あそこに書いてあるのは、人生の茶帯が黒帯になる方法だ。

 道着すら持っていないジャージの見学が、黒帯になる方法はどこを探しても書かれていないのだ。(p210−211)

自己啓発書に書かれているのは、人生の茶帯が黒帯になる方法。道着すら持っていないジャージの見学が、黒帯になる方法はどこを探しても書かれてない。本当にその通りだと思う。

 

そもそも黒帯を目指さなければいいのかもしれないけど、いま社会はなぜか、黒帯合戦ということで話が進んでいるような気がしている。黒帯になったら最強なんじゃなく、ようやく参加資格のような。

 

だからジャージも、形の上では「黒帯を目指している」ようでなくちゃいけない。黒帯のバトルに乗っからないと、生きていくこともままならない気がする。「生産性」だとか「個の時代」だとか、ジャージでは恥ずかしいと思わせる言葉ばかりじゃないか。

 

「ナナメの夕暮れ」はかといって、「ジャージが黒帯になれる本」ではない。そもそもそんな本はないのかもしれないけど。かといって「ジャージはジャージのままでいい」でもない。黒帯だろうがジャージだろうが、道場の外の日は暮れるんだと、そこで巡り会う感情があるんだと、そんなことが分かる本だった。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

 

なんの解決にもならないけど、読むことで救われるのがエッセイの効用かもしれない。小説もまたそういう効果があって、小野美由紀さんの「メゾン刻の湯」はまさに深呼吸する隙間をくれる物語でした。ワケありの若者が集う銭湯シェアハウスのお話。

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若林さんのエッセイは前作「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」も素敵でした。まさに外(世界)へ飛び出した時の発見を綴った作品。キューバの明るい太陽が、自意識に日差しを注ぐような中身です。

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私の過去が全部違ってもそれは愛ですかー読書感想「ある男」(平野啓一郎)

愛した人の過去が全部「別人のもの」でも、その愛は愛ですか。私たちは人の「何を」愛しているんですか。小説「ある男」は、愛している瞬間は疑うことのない愛の根本について、問い掛けてくる。

 

作者の平野啓一郎さんは「マチネの終わりに」でも「愛と時間」についてテーマにした。「マチネ」は「未来」、未来を選び取ることによって過去の愛は表情を変えるんだということを教えてくれた。「ある男」は「過去」の物語だ。そして人間の生を過去にしてしまう絶対的なもの、「死」の物語だった。なお、あらすじ以上にストーリーには触れないようにしています。文藝春秋。

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ある男

ある男

 

 

愛にとって過去とは何か

帯の裏にはこんなあらすじが書かれている。宮崎に住む里枝という女性がいる。かつて、二歳の次男を脳腫瘍で失った。その後、夫と離婚することとなり、長男を伴って十四年ぶりに故郷へ戻った。

 

そこで「大祐」という男と出会い、再婚する。幸せな日々を送るも、「大祐」は事故で命を落としてしまう。悲しみの渦中で衝撃の事実が明らかになる。「大祐」は「大祐」ではなかった。名前も過去も偽っていて、全くの別人だったのだ。では、「大祐」は本当は誰なのか。

 

「大祐」でなかった「ある男」。里枝はかつて依頼をしたことのある弁護士・城戸に、「ある男」が何者だったのかを探ってくれないか、依頼する。

 

この物語は、城戸が心のうちで自問したこんな思いに集約される。「愛にとって、過去とはなんだろうか」という問い掛けだ。引用したい。

 『現在が、過去の結果だというのは事実だろう。つまり、現在、誰かを愛し得るのは、その人をそのようにした過去のお陰だ。遺伝的な要素もあるが、それでも違った境遇を生きていたなら、その人は違った人間になっていただろう。ーーけれども、人に語られるのは、その過去のすべてではないし、意図的かどうかはともかく、言葉で説明された過去は、過去そのものじゃない。それが、真実の過去と異なっていたなら、その愛は何か間違ったものなのだろうか? 意図的な嘘だったなら、すべては台なしになるのか? それとも、そこから新しい愛が始まるのか?……』(p50−51)

 

愛する人がいる。その人に惹かれる要素は、その人が積み重ねた過去の集積として、現在に現れる。里枝もまさにそうだったろう。「大祐」という人の「現在」を愛しているのは間違いないのだけれど、その根っこには「大祐」が「大祐」として歩んできた過去があると信じていた。私たちは現在を愛しているようで、無意識に、無自覚に、その人の過去も愛していることになる。

 

あんな経験をしたから、優しいんだ。こんな過去があるから、強いんだ。現在と過去の間に、いつの間にか「ストーリー」を編み出していることも珍しくない。城戸はこの「ストーリー」という部分にも思索を広げている。語られる過去は、あくまで語られる過去であって、「過去そのもの」じゃない。

 

「大祐」が語った過去は、なかった。「現在の大祐」の根となっていると信じていた「過去の大祐」はいなかった。それは、嘘なんだろうか。不誠実なんだろうか。これは読者の誰もが、自分に置き換えることが可能な問いじゃないだろうか。

 

こう考えると、里枝が「ある男」の過去を突き止めたいと願うのも頷ける。私はなぜ「大祐」だったはずの「ある男」を愛したのか。「ある男」の愛すべき要素はどんな過去に基づいていたのか。それが分からなければ、愛が本当に愛だったのか、分からないのかもしれない。

 

不思議なことだ。過去がどうあれ、その人はその人のはず。なのに、過去が揺らいで、崩れ去って、変わらないはずの愛が不安定になるのはなぜだろう。でも里枝の気持ちは理解できなくない。むしろ切実に、自分も「ある男」を知りたいと思う。

 

あなたの死はあなたにしか死ねない

愛する人の過去が違っても、その愛は揺らがないのかというのが「ある男」の根幹だけれど、この物語はそこだけにとどまらない。この問い掛けを「ある男」の側から見た時に、「過去は偽れても、偽れないものはあるのか」という別の問い掛けが出てくる。これが本書の裏面、「死」についての問いだ。

 

「大祐」だった「ある男」はもう旅立ってしまったから、第二の問いを抱えるもまた生きている者たちになる。今度は里枝の述懐を引用してみる。里枝は病で亡くなった次男・遼へ思いを馳せながら、「ある男」の死を考える。

  里枝は決して、遼の死の身代わりなってやることが出来なかった。病に冒された子供に対する、いかにもありきたりな表現だったが、彼女は心から、身悶えするほど強く、自分が代わってやりたいと願い続けていた。彼女は、当てもなく、ただ何かの奇跡が起こることをひたすら祈っていた。しかし、遼は結局、自分の死を、自分で死ぬしかなかった。里枝には、里枝が死ぬべき死しかないのだった。

 「誰が死んだの?」と里枝は胸の内で呟き続けていた。戸籍上、「谷口大祐」という人が死んだことになっている。けれども、「谷口大祐」の死はただ、本人にしか死に得ないはずだった。彼は一体、誰だったのだろう、と里枝は亡夫のことを考えた。それはつまり、彼が誰の死を死んだのかということだった。(p89)

 

自分の死は自分で死ぬしかない。「偽った過去」と対極の「身代わりのきかない死」が見えてくる。私たちは、私たちそれぞれの死を死ぬ以外にない。

 

過去を偽れるというのは、存在の不安定さを示すことでもある。例えばいま、見ず知らずの誰かがやってきて、顔も何もかもを似せて自分の人生を代わったとする。周囲も気付かないほど溶け込んだとして、その誰かが自分以上に「自分らしく」自分の人生を生きてしまうかもしれない。「ある男」が「大祐」としていきいきと暮らし、愛すべき人を見つけて、幸せな家族を築いたように。

 

しかし、死だけは代われない。生は代替可能なのに、死だけは代わってやれない。ここにきてようやく、生に立ち戻ってこれるような気がする。私たちは結局、代替できない死に向かって、なんとか自分の人生を生きていくんだな、と。

 

過去を考えて、死を考えて、結局は「いま」に流れが行き着いていく。「ある男」は、足元を照らし出す物語だったんだと、ページを閉じてみて思った。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ある男

ある男

 

 

自分の葬儀で追悼文として読まれる過去こそ、その人そのものである。「過去」「良く生きること」をノンフィクションから考えるには、デイヴィッド・ブルックスさんの「あなたの人生の意味」が参考になると思います。

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自分の今も過去も明かせない、偽れない「殺し屋」という仕事。殺し屋の男が愛すべき家族を持ってしまったら、という伊坂幸太郎さんの小説「AX」も、人が人の何を愛するかを考えられる作品です。

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ベルリンに学ぼうー読書感想「ベルリン・都市・未来」(武邑光裕)

日本は壁にぶちあたっている。戦後、エコノミックに驚異的な成長を遂げた後、直面した高齢化社会に未来を描ききれないでいる。一方で、日本と同様に敗戦を経験したある場所が、いまや最先端都市として興隆している。それが、ドイツの首都ベルリン。なぜベルリンが?そのヒント、レシピを学ぼうというのが本書「ベルリン・都市・未来」だ。

 

著者はメディア美学者で、ベルリンに在住する武邑光裕さん。ドライブ・シェアやフィンテックをはじめとして、次々に社会を刷新するスタートアップ。テクノミュージックをはじめとしたカルチャー・シーン経済。芽吹いては花咲くベルリンの先進性を間近で見ている武邑さんだからこそ、手触りのある情報を提供してくれる。太田出版。

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ベルリン・都市・未来

ベルリン・都市・未来

 

 

レガシーの壁がない

ベルリンはなぜいま、最先端なのか。それはレガシーという「壁」がないからだ。これが逆説的で面白い。戦後の冷戦で壁が築かれ、分断され、発展の機会が奪われたからこそ、いまのベルリンはフリーダムなのだ。

 

ドイツといえばやはり自動車産業。しかし、その生産拠点や、他の大企業はほとんどベルリンに立地していないという。つまりベルリンには、既得権益がない。もちろんそれは冷戦の数十年間で権益を育みきれなかったと言い換えてもいいけれども、21世紀になって訪れた変化の激しい時代、ハンディキャップは強烈なアドバンテージに転化した。

 

「再生」も力になった。東西分断からの統合というのは、強烈なイノベーションを必要とする事業だった。交通も電気も上下水道も、あらゆるものを一つにしなければ統合できない。それは行政のトップダウンで進められると同時に、民間のボトムアップもなければ成し遂げられなかった。

 

武邑さんはここに、「創発(emergent)」の素地が出来上がったとみる。自由の下地である。

 もし「ベルリンの壁」がなかったら、この街はどうなっていただろうか? 愚問であると知りつつも、壁が人々から奪ったものと、壁から与えられたものを僕らは探している。「壁」の時代の不幸を乗り越える試練の壁が与えられた。その記憶こそ、ベルリンの比類なき財産でもある。(p26)

 壁が奪ったものが、いまのベルリンの財産である。美しい逆説だ。

 

日本はこれとは逆に、高度経済成長という「成功体験」が「負債化」しているような気がする。人口増、所得増、経済拡大の右肩上がりの時代に構築した社会システムがレガシーとなって、なかなかスピーディーなチャレンジに取り組めない。いまだに「出る杭は叩く」をやっている。

 

ベルリンに学ぶとすれば、レガシーからのドラスティックな「アンラーニング」こそ日本に求められているのかもしれない。

 

蜂と木の共創関係

ベルリンの最先端性はスタートアップの活気にある。ソーシャル・イノベーションと言ってもいい。

 

たとえばドライブ・シェアでは「mytaxi」。タクシードライバーとユーザーをアプリで繋ぐというシンプルな中身だけれど、始まったのが2009年というから、日本から考えれば10年近く早い。あるいはオンラインバンクの「N26」。パスポートとスマホさえあれば、たった8分で口座開設が可能だという。

 

武邑さんはスタートアップが次々と誕生するベルリンを「蜂と木」のメタファーで解説する。

 小規模な組織や起業家は、素早いフットワークで相互受粉する「蜂」で、根を土壌に深く張る「木」は大企業や政府組織だ。その木が持つ弾力性と規模が、蜂との効果的な提携を実現する。ソーシャル・イノベーションの成功は、「蜂」と「木」との間の同盟に依存している。「蜂」は、新しいアイデアを持ち、迅速に交配が可能な小規模な組織、個人だ。「木」は斬新な創造性という意味では不足があるが、物事を起こすための根と規模(立法権限や資金、ネットワーク)を持つ政府、企業、またはNGOのような組織である。どちらもお互いを必要としている。(p143)

小回りが利き、花粉を運ぶようにアイデアをあちこちに広げる「蜂」としてのスタートアップや個人。なかなか動けないけれど、培った資本やネットワークを蜂に提供する「木」。蜂と木の「同盟関係」こそ、ベルリンの強さだという。

 

蜂と木が互いを助け合う社会の前提は、やはり「壁が築かれ、壊された歴史」だろう。荒廃した都市の再生という共通の目的を、ともに達成してきた経験だろう。

 

ここでも日本が見習うべきポイントがあるだろう。日本において蜂と木はまだまだ同盟関係とは言えないように思う。蜂が自由さを強調して木を批判し、木は不自由さを棚に上げて蜂が無責任だと嘲笑うシーンさえないだろうか。

 

これから雇用流動性が増していく中で、あるいは高齢化社会をどうクリアするのかという目的が戦後ベルリン並みの逼迫さを持ったとき、鮮やかな同盟関係を獲得できると信じたい。

 

デジタルヒッピーの夢

ベルリンのもう一つの強みはカルチャーだ。音楽、美術。ベルリンは文化の発信地であり、魅力的な観光地が揃う欧州にあってもなお人を惹きつける観光都市でもある。

 

たとえばベルリンは「テクノ首都」と呼ばれているそうだ。「ベルクハイン」という旧東ベルリンの発電所を再利用し、タービンホールがダンスフロアに塗り替えられた。一度足を踏み入れれれば、その「シーン」は強烈に脳に残る。ベルリンはクラブミュージックの夜間経済が進化して、こうした「シーン経済」が興隆している。

 

面白いのは、実はこうしたカルチャーの盛り上がりは突発的なものではなくて、源流があるということ。それがヒッピー・カルチャーやカウンターカルチャーだ。1960年代にヒッピーが夢見た世界が、グローバル化とテクノロジーの実装でベルリンに実現されていると言える。

 

環境保護、オーガニック、経済優先よりも健康、尊厳。こうしたヒッピー的価値観はいまや私たちの「理想」とそんなに違いがない。実はヒッピー的価値観は現代にあって主流化しつつある、と武邑さんは指摘する。

  資本主義の中で、個人が世界を変えることができることを示した「ユートピアのための闘争」は、実は歴史的な成功をすでに収めている。アップルのパーソナル・コンピュータ革命や、iPhoneの成功をはじめ、六〇年代後半のヒッピーたちを源流とする自然回帰や環境保全、グリーン革命、食やスキンケアを中心としたオーガニック産業、医療用だけに限定されないエンターテインメント・マリファナ解禁の世界的潮流も、現代の経済活動に不可欠な倫理感、価値観の主流とさえなっている。(p63)

 

かつての「理想」が「現実」に実装可能なのが現代なのだという認識に立てば、日本はどんな「理想」を思い描けばいいのだろう。未来になんとなく不安を抱いてしまうのは、この理想、叶えたいビジョンがもやっとしているからな気もする。ベルリンが幸福なのは、蜂と木が共創する社会という理想が、いまもこれからも持続可能だからなんじゃないか。

 

今回紹介した本は、こちらです。

ベルリン・都市・未来

ベルリン・都市・未来

 

 

未来を単なるハイテクという言葉に集約せず、過去から現在のタイムラインで考える。この発想が埋め込まれた本として若林恵さんのエッセイ集「さよなら未来」が思い浮かびました。問題意識として近いものがある。

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レガシーだらけの日本ではやっぱりアンラーニングが大事だなとなった時、テキストとしては仲暁子さんの「ミレニアル起業家の新モノづくり論」がわかりやすいなと思いました。いわゆる若者、これから時代を創っていく世代の思考法が学べると同時に、何を捨てるべきかが見えてくる一冊。

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会社は家族からチームになるー読書感想「NETFLIXの最強人事戦略」(パティ・マッコード)

会社は「管理」で出来ている。大量生産・大量消費社会にあっては、従業員の勤怠管理を徹底し、ヒエラルキー型の組織人事を徹底することで、効率的に経済活動を行えた。しかし、21世紀は「変化」の時代になった。管理は組織を硬直化させ、ルールの数々はむしろ社員の手足を縛っている。変化の時代にマッチした人事・労務制度とはどんなものなのか?本書「NETFLIXの最強人事戦略 自由と責任の文化を築く」は、一つの実験的回答を示してくれる。

 

サブスクリプション型の動画配信サービスとして日本でも急進し、新たな作品創造でも存在感を発揮するNETFLIX。その人事制度は一言でいえば、スポーツチームだ。プレーヤーは誰もがハイパフォーマー。それをチームの方針で都度組み替え、毎年、毎試合、勝利を目指す有機的な集団だ。

 

「アメリカのスタートアップだからできることだとね」と突き放すことはたやすい。でも、日本では導入できるか、そして個人としてどう参考にできるかを考える方が、きっと意味がある。著者はNETFLIXの元最高人事責任者、パティ・マッコードさん。生の言葉に触れられる。訳者は櫻井祐子さん。光文社。

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NETFLIXの最強人事戦略 自由と責任の文化を築く

NETFLIXの最強人事戦略 自由と責任の文化を築く

 

 

自由と責任こそ最高の報酬

本書を読み終えてまず、自分が働いている会社の就業規則や人事制度のガイドラインを見てみた。その基本設計は「ブラックリスト」方式だ。つまり、あれをしてはいけない、これだけは守るように、という「ルール」の順守を求める。何をすれば不正なのか、社員として許されないのかを取り決めている。

 

NETFLIXの人事思想は、これとは真逆と言っていい。その基本設計はホワイトリスト、社員が最高のパフォーマンスを生み出すための積極施策にあふれ、行動制限となるルールが極端に少ない。

 

たとえば、NETFLIXには人事考課制度と給与制度を切り離している。上司が部下の評価をしたり、それに応じて給与算定することがコストでしかないと考えるからだ。報酬は、ユーザーに対してどれだけ価値を生み出せたかで算定する。

給与はその人材の価値によって絶対的に決まる。もし業界随一のプレーヤーなら、会社の最高額ではなく、業界の最高額が支払われる。日本ではほぼあり得ない。どれだけ優秀でも相対的に給与を決めなければ、不公平だという声が必ず上がるだろう。

 

思想の根底にあるのは、従業員への「信頼」だ。NETFLIXでは従業員の一人一人に同社の経営戦略や、半期の目標・課題を徹底してレクチャーする制度もある。「経営状態なんて上層部にしか関係ないだろう」という指摘に、パティさんはこう反論する。

 私の答えはこうだ。そんなバカなら雇わなければいい。いやそれより、バカだと思い込むのはよそう。誰かがバカなことをしているというのなら、それは情報を与えられていないか、誤った情報を与えられたせいだ。(p57)

誰かがバカなことをするのは、情報が与えられないか、誤った情報を与えられたせいだ。この見方は、前提として「バカ」を人間の「性質」ではなく「状態」と見ているのが素晴らしい。言い換えればパティさんはNETFLIXの社員にバカはいないと信頼していることになる。

 

本書を通読して、NETFLIXが素晴らしいなあと思ったのはここだ。人間を信じること。一般的な人事考課制度がないのも、最高の人材には最高の給与を支払うのも、そうする理由を説明すれば社員が分かると信じているからだ。次の一文を見て欲しい。

 仕事の満足度は、グルメサラダや寝袋やテーブルサッカー台とは何の関係もない。仕事に対する真のゆるぎない満足感は、優れた同僚たちと真剣に問題解決にとりくむときや、懸命に生み出した製品・サービスを顧客が気に入ってくれたときにこそ得られる。(p156)

仕事の真の満足とは、優れた同僚と真剣に問題解決をするとき、懸命に生み出した仕事が顧客の評価を得た時に感じるもの。その通りだ!我々は、労働者は、心地よく管理されたいんじゃない。誠実に、前向きに働きたいんだ。NETFLIXはそれをわかっている。

 

チームは解雇と採用のセット

NETFLIXの会社像は「スポーツチーム」だ。パティさんは「会社は家族ではなく、スポーツチームだ」とよく語ってきたという。

(中略)優れたスポーツチームがつねに最高の選手をスカウトし、そうでない選手をラインナップから外すように、ネットフリックスのチームリーダーも継続的に人材を探し、チームを組み換えていかねばならない。そして、「会社が成功するためには、チームがどんな業績を挙げる必要があるか」ということだけを考えて、採用と解雇の決定を下すように義務づけた。(p135)

ポイントは、スポーツチームを比喩や理想ではなくて、本当に実現するということだ。それは最高の人材を集めるために、スピード感ある採用と解雇をセットで行うということを意味している。

 

印象的なシーンがある。ストリーミング事業が拡大し、ユーザーが観たい作品に辿り着けるよう検索機能の強化が求められていた。その時、ある役員はフェイスブックとの提携というアイデアにこだわっていた。パティさんはどうしたか。

 「ねぇ、フェイスブックにかけるあなたの熱意はわかったけれど、あなたは検索部門の責任者でしょう。いっそ、フェイスブックに行ったらどうかしら? 一発で採用されるわよ。あなたを失うのはとてもつらいけれど、何といわれようと今は検索機能を強化できる責任者が必要なの」(p202)

バッサリ、である。しかしこれは、冷徹なんではない。むしろNETFLIXの「自由と責任」を具現化した結果だ。パティさんはこう解説する。

 彼は優秀だったが、私たちが必要としていたのは優秀なだけの人材ではない。チームを率いてその仕事を遂行することを熱望する、優秀な人材が必要だった。彼はほどなくしてネットフリックスから別のスタートアップに移り、彼の部下の1人が喜んで後任についた。(p202)

NETFLIXが求めているのは「優秀な人材」ではなく「その仕事を遂行することを熱望する優秀な人材」だ。フェイスブックにこだわる役員を検索業務の責任者に縛っておくことは、実は会社だけではなく役員にとっても不幸だった。

 

スポーツチームが絶えず選手の移籍(放出・加入)を繰り返すように、自由と責任を重んじる会社も非常に流動性が高くなる。それは面白くもあり、シビアでもある。

 

自分で道を切り拓く

NETFLIX型の人事制度・思想が日本でスタンダードになるには、かなりの時間が必要になるだろう。だけど、終身雇用が崩壊するとはこういうことなんだと思う。会社は家族からスポーツチームになるんだ、というマインドセットでいた方が、いざその時代が到来した時にもサバイブできる。本書は先読みの教科書だ。

 

では、個人として何をすべきか? パティさんは端的に「自分の道を、自分で切り拓くこと」を挙げる。

 今日のすべての働く人たちに私ができる最良のアドバイスは、つねに柔軟性を保ち、新しいスキルを学び、新しい機会を検討し、折あるごとに新しい課題に挑戦して、新鮮な気もちで自分を伸ばしながら働けるようにしよう、ということだ。ネットフリックスでは、自分の成長には自分で責任をもち、輝かしい同僚や上司から学ぶ多くの機会を活かして、社内で昇進するなり、社外のすばらしい機会をものにするなり、自分の道を切り拓いてほしいと促した。(p140)

ここで「新しい」がいくつも出てくることが、一つのヒントなんだと思う。柔軟性とは何か。スポーツチーム型の会社で活躍するとはどういうことか。それは、新しい課題、新しいスキル、新しい機会に新しい気持ちで向かっていくことだ。

 

先のフェイスブック派の役員を考えてみる。彼にあった選択肢は、「新しい」検索機能の改善という課題にシフトして没頭するか、それとも「新しい」会社に移って自分が思うような課題に取り組むかだった。いずれにしても全てが「そのまま」というのはあり得ない。

 

スポーツチーム型の会社とは、なにも全員が本田圭佑さんのようなスター選手になれということではない。そもそもなれないだけじゃなくて、会社にとっても本田圭佑さんが11人いたら勝てるわけではないからだ。

 

課題には適材適所の人材がいる。そして課題は常にアップデートされる。絶えず「新しい適材適所」にフィットすることが、スポーツチーム型の組織で活躍する秘訣なんじゃないだろうか。 

 

今回紹介した本は、こちらです。

NETFLIXの最強人事戦略 自由と責任の文化を築く

NETFLIXの最強人事戦略 自由と責任の文化を築く

 

 

「新しさ」に対応するためには、学び続けなくてはいけない。でも、学び方の教科書は思いの外少ない。中原淳さんの「働く大人のための『学び』の教科書」はその数少ない一冊です。中原さんの人柄が滲んだ優しい中身で、読みやすいです。

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とはいえ未来が不安だ、と思う日もあります。そんな変化、ついていけないよ、と。そんな暗い気持ちになったら、村西とおるさんのことを考えてみるのが良いかもしれません。「人生、死んでしまいたいときには下を見ろ!おれがいる」。「全裸監督 村西とおる伝」をどうぞ。

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分断を超えろ!建築欲を放て!ー読書感想「バベる!自力でビルを建てる男」(岡啓輔)

 雨風を防ぎ、団欒を味わうために人は家を建てた。都市に溢れかえる人に平等に家を行き渡らせるためにモダニズムが興隆した。しかし、いつしか家は「消耗品」と化して、作る人と住む人、設計者と職人の間に深い「分断」が生まれている。そこで、「建てる悦び」を人のために取り戻すために、東京のど真ん中に自力でビルを建てることを選んだ男がいる。

 「バベる!自力でビルを建てる男」はそんな物語だ。

 

 著者の岡啓輔さんが建てる「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」は、「即興の建築」。コンクリートなのに無機質じゃなくて、壁の模様やフロアの様子は踊るように姿形を変える。紆余曲折があって、着工から10年以上経ったいまも絶賛建築中だ。この摩訶不思議な建築は、何を目指すのか、どこに向かうのか。建築史や、コンクリートの魅力といった歴史/サイエンス要素も詰まった贅沢なノンフィクション。構成は萱原正嗣さん。筑摩書房。

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バベる! (単行本)

バベる! (単行本)

 

 

全ての人に家をー「モダニズム」

 ビルといえばゼネコンが建てるもの、高層タワー、高層マンション。そんな既成概念を打ち破る岡さんの一代記が本書になる。岡さんがなぜ奮闘するのか。ここをしっかり味わうために、まずは建築の歴史を学ぶのがいい。何より、素人の自分にとってこの歴史それ自体が面白い。

 

 岡さんが高専に通って建築の基礎を学んだのは1980年代。このころ学校で教えていたのが「モダニズム」だった。モダニズムとは「Less is More」(巨匠ミース・ファン・デル・ローエ氏)。少ないほど豊かである。つまり、装飾を排して、合理性を突き詰めた建築だ。

 

 岡さんはモダニズムの背景には19世紀後半の産業革命があったと説明する。急速な都市化、人口の密集。それまでヨーロッパの建築といえば豪華な大聖堂のような、美しさを追求したものだったけれど、多くの人に家を届けるには、とてもそんなに凝ったり時間をかけたりはできない。

 そこで生まれた発想が「シンプル」、「Less is More」。これからの建築は四角い箱でOKだし、むしろそれくらいシンプルなものが美しいのだ、という思想的回答がモダニズムだった。

 

 日本に、特に東京の住環境に目を向けてみれば、モダニズムはまだまだ健在だと実感できると思う。多くの人が住むマンションはまさに「シンプルな箱」だ。逆にいえば、我々はまだモダニズム以降のたしかな建築的思想にはたどり着けていない。

 

 モダニズムから抜け出せないのは、建築が経済の枠にはまったことも大きい。岡さんは自戒を込めて指摘する。

 それは、建築が経済にがっちり組み込まれてしまったことの影響が大きい。さらには、モダニズム以降の建築家が、先人たちが苦労して編み出したモダニズムという建築のあり方に、深く考えもせず、安易に居座ってしまっているようにも思えてならない。

 モダニズムをどう乗り越えていくかは、学校で教えられるようなことではない。その道筋は、建築家がひとりひとり自分で考え、自分がつくる建築で実践していかなければならない。(p145)

 人それぞれがうまくいくために発想した「近代」を超えられず、むしろ制度疲労した近代に人が追い立てられている。そんな状況は建築だけではないだろうし、岡さんの言う通り、その先の道筋は我々一人一人思考すべきことだ。

 

モノになった家、現代の「バベル」

 経済にがっちり組み込まれた建築。それは建築が、家が、「モノ」「消耗品」「商品」になっているということでもある。岡さんはこの状況に、強い問題意識を向ける。

 

 たとえば「シャバコン」。コンクリートは水と砂と砂利をまぜて作る。本来、水の比率は40%程度に抑えることで、コンクリート本来の強度が保てる。一方で、ちゃんとしたコンクリートはねっとりとして扱いにくい。そこで不正に加水してシャバシャバにしたコンクリートがシャバコンだ。当然ながら、シャバコンの品質・強度は担保されていない。

 

 なぜシャバコンを使うのか。たとえば納期に間に合わせるために。たとえば雨の日もコンクリートの打設をするために。実はシャバコンのほうがコンクリートの表面がつるっとして、見た目には美しいという側面もある。

 ここにあるのはいずれも、経済的な合理性だ。モノとしての建築を効率よく成立させるための「手抜き」だ。

 

 岡さんは、建築の足元が揺らぐ根本に「分断」を見る。この「分断」は、本書を貫く背骨のように、繰り返し繰り返し語られる重要な言葉だ。

 いまの建築のつくられ方はあまりに不透明だ。誰がどんな部材を使ってどういうふうにつくっているか、外の人からはほとんど見えない。これは、建築をつくる人と建築を使う(住まう)人の間に横たわる、ある種の〈分断〉だ。(p28)

 あるいは建築を作る「職人」と建築を指揮する「設計屋」にも分断がある。岡さんは建築現場で、両者のトイレが分けられていることさえ見たことがある。

 いつのころからか、ものづくりのヒエラルキーの頂点には設計屋が君臨するようになった。ものづくりの主役であるはずの職人は底辺に追いやられ、設計屋が描いた一本の線を忠実に再現することがその仕事とされるようになった(それが、どんなに適当に引かれた線であってもだ)。職人が、現場で自らの創意工夫を施すことなど許されるはずもない。(p207)

 

 家を建てる人と住まう人。家を考える設計屋と実際につくってくれる職人。本来は建築を一緒につくっていくはずのそれぞれが「分断」されて、互いに不信を高めている。人にとって欠かせないはずの家にこれほど「分断」が埋め込まれていることは、現代社会の生きにくさと無縁とは思えない。

 

 古代メソポタミアの「バベルの塔」はあまりにも神に近づきすぎて、神は人々の言葉を「分断」した。これだけコミュニケーションが発達したいま、新しい、違った形の「バベル」に直面している。

 

ユートピアでも家を建てる

 岡さんが自力でビルを建てることは、この「分断」を乗り越えていく試みだ。岡さんは「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」の設計者であり、施行者であり、職人であり、そして完成すればそこに住まう住人でもある。ただ奇怪な取り組みじゃない。モダニズムが行き着いてしまった無機質さを突き破ろうとする、あくなき挑戦なのだ。

 

 自力でビルを建てるというアンサーに行き着くまでがまたドラマで、本書の一番の読みどころになる。ここではその一幕、「ユートピアの家」という思考実験を紹介したい。

 

 ユートピアの家は、岡さんが少年だったことに考えたことだ。

 話は、高専で建築を学び始めた十五歳のころにまで遡る。

 無知で単純だった少年は、建築についてこんなふうに教わった。

 建築とは、雨風や暑さ寒さをしのぎ、地震から人の命を守り、泥棒に入られないようにするためのものだ。だから、建築をつくるときは、そういう役割をきちんと果たすようにしなければならない。雨漏りしたり風で吹き飛ばされたり、地震ですぐに潰れてしまったりするものをつくってはいけない。建築とは、必要な機能を満たしたものなのだ。

 この説明を受け、十五歳の僕は考えた。

 だとしたら、雨も降らず風も吹かず、暑くもなく寒くもなく、地震も起きず、食べものも豊富で泥棒なんていないような、ユートピアみたいな世界があったとしたら、そこで人は建築をつくるだろうかーー。(p232−233)

 家は人を守るものならば、もしも、人が完全に守られたユートピアで、家はなお必要だろうか?もし必要なら、どんな家を建てるだろう。

 

 モダニズムの考えで言えば、ユートピアに家はいらないだろう。住まいの機能性を追求したからこそ、Less is Moreなのだ。岡さんも、10代の頃は「ユートピアでもつくるぞ!」と情熱に燃え、その後は結局、「つくらない派」に落ち着いていた。

 

 だが、「つくらない派」の席巻が「分断」ではなかったか。岡さんは再び、「つくる派」に踏み出す。それは、建築を作りたいから作る、「建築欲」を解き放ったとも言える。

 

 岡さんは終盤、建築とは表現なんだと思い至る。

 建築とは、紛れもまい表現活動だ。人が何かをつくる以上、そこにはつくる人のなにがしかの思いが表現されてしまう。つまらない建築をつくろうものなら、「つくることはつまらない」と表現しているに等しいのだ。

 (中略)

 建築に表現することが許されるものーー。それは「希望」しかありえない。

 たとえば住宅建築であれば、「家族が幸せな暮らしを歩む場所」として、学校であれば「ともに学ぶための場所」として、建築はポジティブな思いを表現するべきだ。(p256)

 建築は表現だ。それは「希望の表現」だ。

 

 だから岡さんは「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」を建てる。分断は乗り越えられると、つくる悦びをもう一度手にできると、「表現」するために。

 読み終えると、問われている気がした。あなたは何を表現する?と。

 

 今回紹介した本は、こちらです。

バベる! (単行本)

バベる! (単行本)

 

 

 近代の制度疲労をどう乗り越えるか?この問いにテクノロジーから挑んだ良書が、落合陽一さんの「デジタルネイチャー」です。想像もできない世界をたぐりよせる、刺激に満ちた中身です。

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 建築における分断を乗り越えること。遠いノルウェーで、一人の大工として挑んでいる方もいます。その言葉には手触りがあって、頭にも心にも入ってきます。エッセイ「あるノルウェーの大工の日記」をどうぞ。

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