読書熊録

本に出会う歓びを、誰かと共有したい書評ブログ

もっとも小さな独裁主義ー読書感想「説教したがる男たち」(レベッカ・ソルニットさん)

男性が女性に説教することはもっとも小さな独裁主義である。それは女性を無知で無力な存在だと断定し、さらには「道具」のように扱うことをよしとする。たかが説教ではないんだと、「説教したがる男たち」を読めば分かる。

 

これは自身が女性として、あるいは女性の研究者・文筆家として様々な差別に直面したレベッカ・ソルニットさんの怒りの書でもある。男性が女性へ説教することを「当たり前」としたとき、それは憎むべき文化の種になる。「レイプカルチャー」である。種が芽を伸ばし、花開いた先に、女性へのおぞましい暴力と支配がある。民主主義が独裁者を生まぬよう絶えざる努力が必要なように、我々は、特に男性は、内なる独裁主義に目を向けなければいけない。ハーン小路恭子さん訳。左右社、2018年9月10日初版。

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説教したがる男たち

説教したがる男たち

 

 

男尊女卑はコントロールの収奪

「説教したがる男たち」は、ソルニットさんがまさに説教された経験を出発点にする。その男性はパーティーで会ったソルニットさんが研究者と知ると「その分野で非常に重要な書籍が出版されたのを知っているかね」と「説教」した。

ソルニットさんは唖然とした。なぜならその書籍の著者がソルニットさん自身だったからだ。それを知った男性も唖然とした。男性の頭の中には、目の前の女性が聡明な研究者だという認識は露もなく、「自分が教えてやるべき存在」だったのに、覆されたからだ。

 

これは「男」の問題ではなく「男たち」の問題なんだとソルニットさんは示す。たとえば、このエッセイが書かれた2013年、サンフランシスコの路上では、男性が性的な誘いを断られた女性を切りつけるという事件が起きた。ソルニットさんはここに「独裁主義」を見出す。

 つまり、別の言い方をすればこの男は、自分が選んだ被害者にはいかなる権利も自由も存在せず、自分だけが相手をコントロールし、罰する権利を持つような状況をつくり出した、ということだ。ここで思い出されるのは、暴力とは何よりもまず、独裁主義のようなものだということだ。その前提はこうだーー私には、お前をコントロールする権利がある。(p34-35)

女性を切りつけた男は「女性をコントロールする権利」があると思っていた。そして重要なのは、コントロールする権利が肝心の「女性本人にはない」としていることだ。だからこそ性的な誘いを断ることを許さず、一方的な罰を与えた。相手をコントロールし、コントロールされる相手の権利を踏み潰すこと。それはまさしく独裁主義だ。

 

だから男尊女卑というのはコントロールの問題なのである。それは差別の問題の枠をもう超えていると言っていい。男性が女性に説教をするとき、その男性は目の前の人をコントロールできることを「確認」し「履行」させようとしていると言っていい。

 

醸成されるレイプカルチャー

そんな大げさな、と思う男性もいるかもしれない。でも、そうではないのだ。説教は独裁主義の最も小さな形式であるだけで、独裁主義であることは免れない。男性から女性への独裁主義が最悪の形で発現するとどうなるだろう?それは先に例示されたような性犯罪、すなわちレイプである。

説教とレイプは女性をコントロールする権利の表出として地続き。説教をすることで、レイプが可能な環境を「醸成」している。これこそがまさに「レイプカルチャー」である。

 

レイプカルチャーとは、女性を「無力化」する空気だ。女性の言葉はいつも無視されてきた。ソルニットさんはまるで、ギリシャ神話のカサンドラだと嘆く。正確な予知能力を持っていたのに、カサンドラには誰にも信じてもらえない呪いが掛けられ、誰もその言葉に耳を貸さなかった。

 たいして珍しいことではない。女性が男性、特に体制の中心にいる人物を批判すると、女性の主張が事実であるかどうかはおろか、話をする能力やその権利があるかどうかまで疑いにかけられる。何世代にもわたって女たちは、現実が見えていないとか、混乱しているとか、人を操ろうとしているとか、悪意に満ちているとか、陰謀を企てているとか、もともと不正直な性格だとか、大概その全部に当てはまるとか言われてきた。(p127-128)

女性の主張を認めないどころか、人格批判まで至る。これはソルニットさんの周辺に限ったことではなくて、日本でも容易に想像ができる。痴漢に遭った女性の服装が問題になるのはなぜだろう?レイプ被害を訴えた女性に高度な立証が求められるのはどうして?

 

男性の自分は夜中に異性につきまとわれる経験をしたことがない。「それはあなたが不用心だからだ」なんて言われたことがない。それは男性がレイプカルチャーにおいて「コントロールする側」であり、「コントロールを奪われた側」ではないからだ。

 

だから自分はソルニットさんのこんな言葉にはっとさせられる。レイプカルチャーがどれほど、人類の半数を占める人たちの可能性を奪ってきたのか。

 書いておきたいことはほかにもあるが、一番大事なのはこれだ。人類の半数の生命は、そこら中に蔓延する多種多様な暴力にいつまでもつけ狙われ、消耗させられ、ときには奪われることさえもある。生きのびるだけでこんなに大変でなかったら、どれほどの時間とエネルギーをほかの大事なことに使えるか、考えてみてほしい。例えば私が知っているもっともすぐれたジャーナリストのひとりは、夜に近所を歩いて家に帰るのがこわいと言っていた。彼女は遅くまで仕事をするのをやめたほうがいいのだろうか? どれほど多くの女性が、似たような理由で仕事をしなくなったり、していた仕事を中断せざるを得なくなったりしているのだろう?(p48)

何度でも肝に銘じるべきだ。男性が女性に説教するというのは、コントロールの収奪だ。そしてそれはあらゆる面において、女性のコントロール権を男性に与えて良しとするレイプカルチャーの種だ。そして、女性を消耗させ、可能性を奪い、人類が持っている力の半分を減耗させるすさまじい「無駄」だ。

 

暗いのこそ最良の形

だから到達を目指すゴールは「性犯罪のない社会」ではない。それは真の自由の達成。女性が自分以外の誰かにコントロールされることのない、自分で自分をコントロールして、あらゆる自由に向かっていける社会だ。

 

男性が女性に説教をしないためには、レイプカルチャーを手放さなくてはならない。どうやったらいいんだろう?ソルニットさんの文章の中で、第一次大戦期のイギリスで作家をしていた女性ヴァージニア・ウルフさんに触れた章にヒントが隠れているように思う。この章ではウルフさんの「未来は暗い。思うにそれが、未来にとって最良の形なのだ」という言葉を紐解いていく。

ソルニットさんは、現代の我々は未来の不確実さ=闇だけじゃなくて、過去の暗さにも向き合えていない、と書く。その上でこう続ける。

(中略)自分や母親や有名人の人生について、特定の出来事や危機的状況や異文化について、 誠実さをもって書くということは、張りめぐらされた闇に、歴史の夜に、不可知の場所に、何度となく立ち戻ることなのだ。これらの闇が教えてくれるのは、知識には限界があるということだ。確かな情報もないのになぜかしらだれかが考えたことや感じたことがわかる、という感覚からしてそうで、本質的には多くのことは謎につつまれたままなのだ。(p101)

不可知の場所に立ち戻ることが「誠実さ」である。これは、男性の女性への眼差しにあっても重要なことなんじゃないかと感じられた。

 

コントロールとは欲望であり、恐怖なんだろうと思う。本質的に異なる存在である女性を「分かるもの」としたいからこそ、コントロール権を持ちたい。自分にとって理解可能な範疇に押し込めたい。それは、そうしなければ怖いからだ。「分からない」のは怖いからだ。

 

だからこそ、ウルフさんの語るように「暗いことこそ最良」だと、何度も何度も口に出してみる必要がある。男性にとって女性が分からなくてもいい。それこそが最良だと思えた時に、女性へ説教したいとは思わないんじゃないか。

分からないものへの許容度、「構え」持つ。その意味で、レイプカルチャーへの抗いというのは、たとえば本を読むとか、異文化に触れるとか、身近な「謎」への誠実な姿勢の積み重ねなのかもしれない。

 

今回紹介した本は、こちらです。

説教したがる男たち

説教したがる男たち

 

 

性犯罪の被害に遭った女性がどれほど無力化されるかは「ミズーラ 名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度」を読めば痛いほど理解できます。大学や社会がレイプにどう向き合っていくか、という点でも勉強になりました。

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ソルニットさんの縦横無尽な知とリズミカルで熱量のある文章が、ともするとミソジニーの喧騒に紛れがちなこのテーマを非常に飲み込みやすくしてくれています。もっとこの作家さんを読んでみたい、という方には、「歩くこと」をテーマに思索を展開する「ウォークス 歩くことの精神史」をどうぞ。

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SF初心者のサーチライトにー読書感想「NOVA 2019年春号」(大森望さん責任編集)

SF小説を読んでみたいけれど、なんだか難しそうだと尻込みする気持ちもある。そもそも何から読めばいいか。そんな悩みを持つ人に本書はうってつけ。アンソロジー「NOVA 2019年春号」はSF初心者にとってサーチライトになる。

 

各作品50ページほどでさくっと読めるけれど、展開される世界観は濃い。書き手は新井素子さん、小川哲さん、佐藤究さん、柞刈湯葉さん、赤野工作さん、小林泰三さん、高島唯我さん、片瀬二郎さん、宮部みゆきさん、飛浩隆さんの10人。SFの世界とはこんなにも広くて深いのかと思い知らされる。主婦女性の半径50メートルの話から、月面まで。時間軸も紀元前まで。「もっとSFを読みたい」と思えることうけあいの内容だ。河出文庫。2018年12月20日初版。

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NOVA 2019年春号 (河出文庫 お 20-13)

NOVA 2019年春号 (河出文庫 お 20-13)

 

 

住宅街から月面まで、果ては古代まで

SFの世界に踏み出して驚いたのは、必ずしも「近未来」の話ばかりじゃないということだ。想像を超えるテクノロジーやロボットが出てくるだけが芸じゃない。本書に収録されている作品の振り幅も極めて広い。

 

一番バッターを努める新井素子さんの「やおよろず神様承ります」の主人公は主婦の女性。舞台は住宅街、彼女の半径50メートルの日常になる。書き出しはこんな感じ。

 世の中に。

 専業主婦程、不当に低く評価されている職業はないと思う。

 いや、これ、ほんとよ?(p15)

まるでエッセーか何かのようだけれど、これもSF。たしかに想像を掻き立てる世界が広がっていく。

 

赤野工作さんの「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」はタイトルからすれば新井さんの世界観に近いイメージも湧くけれど、書き出しはこう。

格闘ゲームと超高速通信

 フレームとは、対戦型格闘ゲームにおける時間の最小単位を示す言葉である。(p191)

まるでゲームの説明書のそれである。赤野さんは架空のゲームをレビューしていくサイト、という形式をとった小説「ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム」で話題をさらった方で、本作も月面と地球の間で格闘ゲームを行った二人のうち一方の独白というスタイルになっている。設定はゴリゴリの未来。ある意味SFらしいと言えるけれども、読みごごちは全く未体験のものだ。というかテーマの「対戦ゲームの通信遅延」なんてこれまで一度も考えたことがなかった。

 

射程は何も未来に延びるばかりじゃない。小川哲さんの「七十人の翻訳者たち」は紀元前262年、プトレマイオス朝のアレクサンドリアであった聖書をギリシア語に翻訳する作業がテーマになる。70人が35組に分かれて翻訳したところ、全てが同じ訳になった不可思議を巡って、王と部下が問答する。

 

長編小説「ゲームの王国」で、ポル・ポト政権下の大虐殺と未来を結ぶ長大な時間軸を用いた小川さん。本作でも2036年の世界と物語を交互させる。この年、かの「七十人訳聖書」の成立の秘密が記されたパピルスがようやく解き明かされようとしている。紀元前に起きたことと、未来に判明する「真実」は、果たして一致するのか。

 

SFは社会を映す

SFは空想世界を物語にする。それはその世界に構成される「社会」も描写することになる。だからSFは社会を映す。空想が現実に照り返されて、私たちがいま生きる社会のありようを考えさせられる。

 

柞刈湯葉さんの「まず牛を球とします。」は、牛を殺すのは動物愛護的に嫌だけれど、牛を食べたい、相反した願望を「牛球」という人工肉を開発することで解決した世界が描かれる。牛の遺伝子ではなく、大豆のDNAテンプレートに牛肉の成分を発現する遺伝子を加えた製品だ。

 

ただ、牛球が実現した工場で働く人や見学者は我々より理性的になっているとか倫理的になっているとかではない。工場見学者への広報を担当する「おれ」は語る。

 どうせ内部構造はCGを見ないと分からないのだから、わざわざ実際の牛工場を見にくる必要性がよく分からない。自分たちの食べる肉の製造工程を見ることで、人生にどういった利益があるのだろう。

 せいぜい「実物を見たことがある」という体験によって、自分の知識にストーリー性を与え、他人に対して優位に立てるくらいだろう、とおれは思っている。

 「私はジャカルタの食肉工場を見学し、自分たちが普段食べている肉がどんなふうに製造され、どのように食卓まで運ばれてくるかを学んできましたよ。あなたたちはきちんと理解していますか? ネットの仮想世界だけで分かったつもりになっていませんか?」

 といった具合に。(p166)

ありそうな話だなあと思う。倫理的な技術ができたとして、人間が倫理的になるわけでもないんだろうな。むしろいつだって、「倫理的でありたい」という欲求から自由になれずに、それをマウンティングという方法で確認したくなりそうだな、と。

 

宮部みゆきさんの「母の法律」は、虐待した親の親権を制限し、被虐待児を救済、ようご家庭へつなぐ「マザー法」が成立した世界を描く。虐待が問題化して慢性化している現在からすれば、それらが解決した理想世界と言える。

主人公はマザー法に救われた少女。あるきっかけで、法律が制御しきれない事態に直面する。ここでも同じ。問題を解決した社会には、新しい問題が生じる。むしろ問題の影の濃さは増してしまい得る恐怖を、宮部さんはドライな筆致で描いていく。

 

「次」はいっぱい揃っている

「この作家さんの作品は面白い」となれば、「次の一歩」は山のように用意されている。責任編集者の大森望さんも「序」でこう記す。「読者のみなさんにも、編者が味わった喜びを共有するとともに、いまの日本SFがいかに豊かな実りの時代を迎えているかを実感していただければさいわいです」(p5)。もう既に果実はたくさん実っている。

 

自分は本書で初めて、飛浩隆さんの作品に触れた。収録作「流下の日」「四十年間、偉大な首相が統治した美しい国」が描かれる。予想通り、安定して美しいはずの国には不穏な空気が漂う。ユートピアは本当にユートピアなのか。飛さんの言葉は一粒一粒の密度か濃くて、ほんの数十ページでここまでぎっしりした世界を繰り出せるのかと驚嘆した。

 

もう少しこの世界観を味わいたくて「象られた力」を手に取った。こちらはもう少し長めの中編作品が4つ収められている。いくつもの惑星に文明が繁茂し、言語だけでなく「図形」が強大な力を有する未来を描いた表題作のほかに、体を共有する奇形の双子ピアニストを主人公にした「デュオ」も面白かった。「流下の日」に連なる物語世界を十二分に味わえた。

 

象られた力 kaleidscape (ハヤカワ文庫 JA)

象られた力 kaleidscape (ハヤカワ文庫 JA)

 

 

既に読んだ中では小川哲さんの「ゲームの王国」は収録作の世界観に近い。もっとがっつり未来感のある「ユートロニカのこちら側」も圧倒的に面白い。

 

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佐藤究さんの「Ank:」もおすすめ。収録作「ジェリーウォーカー」のおどろおどろしい感じをもっとエッジーに感じられると思う。

 

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もしも「NOVA」でSF熱に火がついたら、投下できる燃料は尽きることはない。

 

今回紹介した本は、こちらです。

NOVA 2019年春号 (河出文庫 お 20-13)

NOVA 2019年春号 (河出文庫 お 20-13)

 

 

 

入門書といえば、行動経済学の格好の入り口になる一冊の「『行動経済学』人生相談室」を思い出します。行動経済学者のダン・アリエリーさんが、新聞読者の質問に軽快に答えていきます。

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SFで高まった社会、未来への感度をさらに研ぎ澄ますには、「インターネットは自由を奪う」がいいかもしれません。GAFAのリスク、インターネットの陰をいち早く痛烈に批判した本だと思います。

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「本当の自分」から「自分のほんとう」へー読書感想「愛の本」(菅野仁さん)

本当の自分を探しても見つかりはしないだろう。そうじゃない、自分にとっての「ほんとう」を探そう。自分がどうすれば「生きることの味わい」を感じられるのか。そのために外へ出よう。他者と関わろう。社会学者菅野仁さんの「愛の本」はそんな転回を呼び掛ける。

 

本書は語り掛けるような、手紙調の文体で書かれていて、子どもも普段読書をしないという人もきっと読みやすい。テーマは他者。それは自己とは異質で、自己を脅かす上での脅威になり得て、一方で繋がり合う深い喜びをくれる存在。だから自己啓発書ではない。照らし出すのはむしろ、自己を一歩踏み出して、外にいる誰かと出会うための道だ。ちくま文庫。2018年12月10日初版。

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愛の本 (ちくま文庫)

愛の本 (ちくま文庫)

 

 

 

自分にとってのほんとう

本書が素晴らしいのは、いわゆる「自分探し」に対する新しい考え方をくれるからだ。菅野さんは自分探しが目指す「本当の自分」よりも、「自分にとってのほんとう」を探すことを提案する。

 こんなふうにイメージし直したらどうだろう。

 〈いま・ここ〉という〈生の現場〉からどこか遠くにある「本当の自分」という実体的な何かを夢想するのではなく、〈いま・ここ〉の自分の居場所を大切にしながら、その中で「自分にとっての〈ほんとう〉」を求めることへと「本当の自分探し」を転換してみる。

 すると、「本当の私」へのこだわりは、「幸福の条件」にとってとても大切なものとなるし、現実逃避のようなあやうさもだいぶ薄らぐ気がするんだ。(p50)

自分探しは〈いま・ここ〉にいる自分の否定と紙一重だ。どこかに理想的な「自分」がいて、現状の自分がそこまでたどり着けることが前提になっている。ここには、自分はもっと大人物になれること、そして今は大したことがなくても急激にそんな理想へ喧嘩できること、二重のありえない楽観がある。それは「現実逃避」に陥るリスクがある。

 

だから菅野さんは〈いま・ここ〉にいる自分に目を向けようと言う。そして、理想とは違う自分、本当ではないと思える自分が、何を「ほんとう」と感じられるかを問う。「自分にとってのほんとう」とは何か。菅野さんは「生のあじわい」という言葉を使う。

「自分にとっての〈ほんとう〉」というのは、いろいろな活動の中で「これは自分にとってぴったりだな」とか「これをしていると〈ほんとうに〉楽しい」とか、そういう〈生のあじわい〉が自分の中に強く感覚されることだとぼくは考えている。(p50)

自分探しにおける本当の自分は、自己像の問題になる。それは言ってしまえば「どんな自分に見られたいか」と同義になる。「自分にとってのほんとう」探しでキーになるのは「見え方」ではなく「感じ方」だ。自分が何をすれば、どうすれば「ぴったりな感じ」や「ほんとうの感じ」を得られるのか。活動・アクションを通じて自分の感覚を尖らせていくのが、「自分にとってのほんとう探し」になる。

 

この考え方が素敵なのは、自分がどうあれ、そこには何かしらの「ほんとう」があるということだ。いくら惨めでも、思うような自分じゃなくても。そんな自分にとっても「ほんとう」はきっとある。それを感じられた時、〈いま・ここ〉の自分が少し好きになれると同時に、不思議と一歩、前進ができる気がする。それこそがきっと、「生のあじわい」なんじゃないか。

 

他者もまた「ほんとうを求める」主体

自分にとってのほんとう、という考え方を出発点にすると、他者と気持ちよく関わる道筋もなんとなく見えてくる。

他者とは、何か。菅野さんは竹田青嗣さんという方の「他者の二重性」を鍵にする。

 哲学者の竹田青嗣によれば、他者とは、二重の本質的性格を持っている。それは、自分にとっての「脅威の源泉」であると同時に「エロス(生の歓び)の源泉」であるという二重性だ。さらにぼくの考えでは、「エロスの源泉」は〈つながりそのものの歓び〉と〈承認の歓び〉の二つの側面からなると思う。(p28)

他者とは自己にとって脅威でありながら、同時に「生のあじわい」に欠かせないつながりや承認を与えてくれる。その二重性があるからこそ、他者を恐れつつも、他者と関わり合っていく。そして生のあじわいを噛み締め、自分にとっての「ほんとう」を考えるヒントを掴む、そんなプロセスが大切になる。

 

これを逆から考えてみることも重要だ。つまり、他者にとって「自分」という自己はなんなのか。それは彼/彼女にとっての脅威であり、生のあじわいの源泉。もっと根源的に考えてみる。他者は、彼や彼女は、「その人にとってのほんとう」を求める、「自分」と同じ一個の「主体」だということだ。

「その人にとってのほんとう」というところを肝に銘じたい。つまりそれは「自分のとってと同じほんとう」ではない。自分にとってほんとうであることが、その人にとってほんとうではない。この「異質性」をベースにしたコミュニケーションが重要だと、菅野さんは強調する。

 だから社会の変化を考えたとき、「異質性」を前提にしながら、より心地よいつながりを作るにはどうすればよいのかという発想が大切になるとぼくは考えている。人々が「同じであること」に期待してつながりを作るよりは、「違っていること」を前提としながら、その異質性をベースにつながりや信頼を作っていく知恵と楽しさを求めていくことが、きっととても現実的な考え方なんだと思う。(p91)

「同質性」をベースにするから分かり合えるのではない。「異質性」をベースに心地よいつながりを作ることができる。それは「自分にとってのほんとう」があるように「他者にとってのほんとう」があることを理解すればいい。自分にとってのほんとうを大切にすることと、他者にとってのほんとうを尊重することは、矛盾しないのだから。

 

どんなに落ち込んでも「保つ」

それでも現実は甘くないことを、菅野さんはちゃんと織り込んでいる。他者が、その集積として立ち上がる「社会」が、「自分にとってのほんとう」を大いに揺さぶり、時にはボロボロに壊しうることを、ちゃんと分かってくれている。

 

たとえば野球をすることが「自分にとってのほんとう」だとする。でも、決して野球選手になれるほどの実力はない。「ほんとう」を仕事にすることは叶わない。こんなとき、どうすればいいんだろう。現実と理想のバランス。菅野さんは絶対解はないとしつつ、こう語る。

 でも、もし共通の「形」というものがあるとすれば、それは、どんなに落ち込んだり不安になったときでも、身近な他者の承認を少しずつでも得られるようにする気持ちを、それなりに保ち続けることだろう。(p172)

「保つ」。他者と関わり、承認を得ていくことを諦めないこと。菅野さんは草野球を続ける男性のこんな言葉にヒントがあると指摘する。

 「ぼく(=男性)は野球部時代ショートを守っていて、それなりに一生懸命練習しました。で、30歳を超えたいまでも、飛んできたゴロに合わせてグラブを差し出すグラブさばきの技術がしっかり体に残っている。そのことが、単にグランドの上でだけでなく、チームにおける人間関係を作るときの大きな支えにもなっているんです」(p174)

男性はショートのグラブさばきに、野球における基本技術に、何かしら日常へ援用できるものを感じている。この感覚こそ、男性にとっての「ほんとう」だ。ショートをちゃんとやるように、男性は人間関係において男性らしい役割を果たせる。

 

もしもプロ野球選手という理想に到達できないからといって野球を手放してしまっては、男性のような草野球の学びは得られない。どんな状況であっても「保つ」ことで、自分にとっての「ほんとう」は形を変えて、自分に内在してくれる。

 

「ほんとう」を最大限花開こうと拘泥するとすれば、それは〈いま・ここ〉を捨ててまで本当の自分探しをしていた頃となんら変わらない。そうではなくて、「ほんとう」を抱きしめて、保っていくこと。それが世知辛い社会を生きていく上で大切なことなんだろう。

 

今回紹介した本は、こちらです。 

愛の本 (ちくま文庫)

愛の本 (ちくま文庫)

 

 

自分の中ではなく外にこそ、自分の「ほんとう」を感じさせてくれる何かがある。この問題意識はジェイムズ・リーバンクスさんの「羊飼いの暮らし」にリンクします。歴史的な羊飼いとして生きることは、たとえ自分の名前が残らなくても、長い長い鎖の輪の一つになる喜びをくれると、リーバンクスさんは語ります。

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自分をこじらせて中年になっても、まだそこから変化できる道があるよ。そんな実体験を軽妙なタッチで語ってくれるエッセーが「ナナメの夕暮れ」です。著者はオールナイトニッポンのパーソナリティも務めるオードリーの若林正恭さん。

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可能主義者になるー読書感想「ファクトフルネス」(ハンス・ロスリングさん他)

世界は悪くなっているように感じられる。しかし、観測可能なデータを見る限り、世界は過去に比べて良くなっているのだ。貧困に苦しむ人、大人になる前に命を落とす子どもの数は減り、女子教育、インターネットへのアクセスは増えている。世界が良くなっているのに、悪くなっているように誤解してしまう。この原因は人間の「本能的な思い込み」にあり、「ファクトフルネス」はそこから私たちを解放してくれるツールになる。

 

著者はスウェーデンの医師で、グローバルな公衆衛生改善に尽力してきたハンス・ロスリングさん。息子のオーラ・ロスリングさんとその妻アンナ・ロスリング・ロンランドさんと共に書き上げた。

ハンスさんは自身を「楽観主義者ではない」と語る。わたしは真面目な「可能主義者」だと。根拠のない不安も、根拠のない希望も持たない。人類はこれまで進歩してきた根拠があるのだから、さらなる進歩は可能だと信じている。根拠=ファクトをきちんと見つめて思考すること。「ファクトフルネス」は、可能主義者への第一歩を誰にでも開いてくれる。上杉周作さん、関美和さん訳。日経BP社、2019年1月15日初版。

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FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

  • 作者: ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド,上杉周作,関美和
  • 出版社/メーカー: 日経BP社
  • 発売日: 2019/01/11
  • メディア: 単行本
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ゆっくりした変化でも変わっていないわけではない

「ファクトフルネス」は事実を歪めてしまう「思い込み」を10通りに類型し、その危険性と改善方法を指南してくれる。大切なのは「なぜ思い込みを改善するべきなのか」ということ。それはデータとして確かに世界は良くなっているからだけではなく、まだまだ未来は良くなる余地があるからだ。ハンスさんはそう確信していて、熱意を持って伝えてくれる。本書はノンフィクションでありながら、ハンスさんがどうして可能主義者になり、可能主義者であることはなぜ大切なのかを力説する半生記でもある。

 

特に読者の胸に迫るのは、後半で語られるハンスさんの「失敗」だ。ハンスさん自身も思い込みに囚われたことで、文字通り取り返しのできない事態を招いた。そのことを「35年間誰にも話せなかった」と語っている。きっとハンスさんはこの痛みを胸に刻み、こうして「思い込みを自覚して、解きほぐして、事実を見よう」と語っているんだろうと思えた。ここは読みどころなので、本書を開いて出会ってほしい。

 

別の素敵な話をしたい。良い変化は小さい、という話だ。ハンスさんは所々でこの前提に触れる。悪い変化、例えばテロや災害は頻度は少なくても劇的だから、ニュースになるし印象に残りやすい。良い変化は小さくてゆっくりしているから、なかなか話題にならない。だが、それは「変化していない」わけではないと。ハンスさんが引く「自然保護区の拡大」がわかりやすい。

 紀元前3世紀に世界で初めて自然保護区をつくったのは、スリランカのデーワー・ナンピアティッサ王だった。ヨーロッパで同じような考え方が生まれたのは2000年も後で、イギリスのウェスト・ヨークシャーが初めてだった。アメリカでイエローストーン国立公園ができたのは、その50年後だ。1900年までに地球上の0・03%の土地が保護された。1930年にはそれが0・2%になった。本当に少しずつ、10年単位で森林がひとつ、またひとつ保護され、保護区域の面積は増えていった。1年単位の増え方は微々たるもので、数字に表せないほどだ。でもいまでは地表の15%が保護区域になり、その面積は増え続けている。(p231)

最初の自然保護区から、ヨーロッパで同様のものができるまでに2000年かかった。1900年段階でもその割合は0・03%。しかしそんなゆっくりした小さな変化も、積み重ねた今は15%までたどり着いた。たしかにハンスさんの言う通りだ。ゆっくりした変化でも、変化がないわけじゃない。そして変化がポジティブである限り、世界は少しずつ良くなっている。

 

この変化を「見られる」ことこそ、ハンスさんの意志だ。見ようとするからこそ見える。その意志を、ハンスさんは「可能主義」と言う。

 わたしは日頃から、人類のすばらしい進歩について誰かに語るたびに、「ハンスさんは楽観主義者なんだね」とレッテルを貼られる。正直、いい加減にしてほしい。わたしは楽観主義者ではない。楽観主義者というと世間知らずのイメージがあるが、わたしはいたって真面目な「可能主義者」だ。

 「可能主義者」とは、根拠のない希望を持たず、根拠のない不安を持たず、いかなる時も「ドラマチックすぎる世界の見方」を持たない人のことを言う。ちなみに「可能主義者」はわたしの造語だ。

 可能主義者のわたしは、「人類のこれまでの進歩を見れば、さらなる進歩は可能なはずだ」と考える。単に楽観しているわけではない。現状をきちんと把握し、生産的で役に立つ世界の見方をもとに行動している。(p88)

事実を見れば、人類はさらなる進歩は可能だとハンスさんは考える。無根拠に楽観しているわけではない。そして無根拠に悲観しもしない。このどっしりした思想に、メラメラとした意志の炎が感じられるから、本書は面白い。

 

思い込みは本能である

裏返せば、確固たる意志で可能主義者になろうと努力しなければ、いとも簡単に無根拠な楽観や悲観に転がっていってしまう。これが本書を読んで面白い、もう一つ。思い込みとはミスや無知ではない。愚かだから思い込むのではない。思い込むのは人間の本能だ。

 

「ファクトフルネス」が類型化した思い込みは次の通り。

  1. 分断本能ー世界は分断されている
  2. ネガティブ本能ー世界はどんどん悪くなっている
  3. 直線本能ー世界の人口はひたすら増え続ける
  4. 恐怖本能ー危険でないことを恐ろしいと考える
  5. 過大視本能ー目の前の数字が一番大事
  6. パターン化本能ーひとつの例がすべてに当てはまる
  7. 宿命本能ーすべてあらかじめ決まっている
  8. 単純化本能ー世界はひとつの切り口で理解できる
  9. 犯人捜し本能ー誰かを責めれば物事は解決する
  10. 焦り本能ーいますぐ手を打たないと大変なことになる

一つの本能に一章を割り当て、ハンスさんが実際に目撃した本能の噴出例、そのデメリット、そしてデータに基づく反証を行なっていく。どの章も非常にエキサイティングだ。

 

たとえば第1章。私たちは当たり前のように「先進国」と「途上国」と言う。女性一人当たりの子どもの数と、子どもが5歳まで生存する割合で両者の違いを考えてみよう。子どもの数が少なく、生存率が高い方が先進国になる(日本はまさにそうだ)。すると、途上国の枠内にはインドと中国を含む125カ国が収まる・・・・・・のはもう「過去」の話だ。なんとこのデータは1965年のもの。2017年版にアップデートすると、ほとんどの国は出生率が低く生存率が高い。かつて先進国だった水準には地球上の全人口の85%が含まれ、かつて途上国だった枠内にいるのは13カ国、人口割合でたった6%まで下がっている。

なのに、頭の中にある「先進国」と「途上国」の枠組みが変わっていない人がほとんどではないか?「私たち」と「彼ら」を分けたがる「分断本能」が、文字通り我々の本能だからだ。

 

有名な下図を思い出せばいい。私たちはそれが本能だといくら自覚しても、本能に縛られてしまう。下図の線が上下同じだとわかっても、差があるように見えるのは止められない。

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だから、ファクトフルネスを学び、何度も点検していく必要がある。

 

わたしもファクトフルになれる

思い込みは本能である。対してファクトフルネスは技法、そして意志である。これは希望だと言っていい。私たちは誰もが本能に縛られる一方、誰もがファクトフルネスを駆使した可能主義者になれる。

 

1989年、ハンスさんは当時のザイールにいた。キャッサバが原因とみられる神経麻痺症状を調査するために、ある村に入っていた。認可を取り、資材や通訳も用意に2年ほどの時間を掛けた。調査は食品サンプルと、血液、尿の採取。シンプルなはずだったが、落とし穴があった。一体なにをするのか、村長には説明したものの、村人には十分に説明していなかったのだ。

 

ハンスさんがいるテントに男たちが集まる。男たちは「血を盗まれる」と思っていた。ナタを持った人もいる。一同は殺気立っている。ハンスさんは通訳を介して調査内容を説明した。それでも不信感の消えない男たちに、50歳くらいの女性が大声を張り上げた。

 「わかった?筋が通ってるじゃないの。黙って!この先生の言ってること、もっともでしょ。血液検査しなくちゃ。はしかでみんな死んだの、覚えてる?子供もたくさん亡くなった。そのあと、お医者さんが来て予防接種をしてくれたじゃない。そしたらはしかで子供が死ななくなったでしょ。わかった?」(p312)

この後しばらく女性と男たちは問答するが、最終的に女性が腕を差し出し「先生、採血して」とまでやり切ったのもあり、男たちは鎮まった。ハンスさんは、この女性の行動こそファクトフルネスだったと回想する。

(中略)あの女性がしたことは、まさにファクトフルネスだった。群れになった村人たちのドラマチックな本能をすべて理解し、本能を抑えることを助け、筋の通った主張で村人を説得した。あのときは注射器や血液や病気への恐れから、村人の恐怖本能が引き出されていた。パターン化本能がわたしをズルいヨーロッパ人のように見せていた。犯人捜し本能から、村人は血を盗みに来た邪悪な医者を懲らしめたがった。焦り本能から、村人は深く考えずに判断を下してしまった。

 そのプレッシャーの中で、あの女性は前に進み出て、人々を説得した。それが学校教育のおかげでないことは確かだ。あの女性は村を出たことはないはずだし、文字も読めなかったと思う。どう考えても統計学なんて聞いたこともないだろうし、統計を学んだこともないはずだ。でもあの女性には勇気があった。そのうえ、緊張が極限まで高まる中で、冷静に考え、誰もが納得できる道理を完璧な言葉で表現することができた。(p314)

男たちは一瞬で4つの本能を駆使して思い込んだ。「恐怖本能」に基づいて冷静になれば危険でないものに直感的恐怖を抱いた。ハンスさんの見た目から「ズルいヨーロッパ人」の典型に当てはまると勝手に判断したのは「パターン化本能」。この異常事態の責任を誰かに取らせなければという「犯人捜し本能」が、今すぐに行動しなければ大変なことになるという「焦り本能」でさらにドライブした。

 

そんな中、女性はハンスさんの説明から得られた事実を、ハンスさんを信じるに足る根拠と考えた。さらに、はしかで大勢がなくなったこと、その後に医者の予防接種で改善したことも根拠にした。そしてその冷静な思考を、勇気を持って伝えた。さらに正しい言葉で表現した。

女性が一歩を踏み出したように、ファクトフルネスの根幹は勇気だ。冷静な思考を信じて、表現する勇気。その思考を、本能に流される楽さに売り渡さない勇気。その意味で、本書を読んだことは我々がファクトフルネスを発揮するための手助けにならない。重要なのは、ここで学んだことを勇気を持って再現できるかだ。

 

ただ、ここでも可能主義者的に考えよう。私たちは「ファクトフルネス」を手に取った。事実を冷静に見られるようになりたいと行動した。それを根拠にすると、未来の私たちはもっと、勇気を発揮できるはずだ。

 

今回紹介した本は、こちらです。

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

  • 作者: ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド,上杉周作,関美和
  • 出版社/メーカー: 日経BP社
  • 発売日: 2019/01/11
  • メディア: 単行本
  • この商品を含むブログを見る
 

 

 思い込みの本能は止められないという話は、行動経済学の人気テキスト「ファスト&スロー」でも語られています。思考コストを軽くするために直感的な選択をするファストな考え方(システム1)は止められないんだから、うまく使っていくしかない。

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データそのものに希望があるというより、希望を持ってデータを使うことに意味があるんだなと「ファクトフルネス」で実感しました。矢野和男さんの「データの見えざる手」もまさに、可視化することで現状をよくしていこうという意志があります。

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長い長い鎖の小さな輪ー読書感想「羊飼いの暮らし」(ジェイムズ・リーバンクスさん)

「羊飼いの暮らし」はイギリスで600年以上続く羊飼いの家系をつなぐジェイムズ・リーバンクスさんのエッセーだ。リーバンクスさんは言い切る。私の名前など残らなくていい。100年後も羊飼いの仕事が続いていれば、その土台のほんの一部が自分なんだろう。それでいい、と。

 

個人的なストーリーのようで、内包するテーマは大きい。自然と暮らすことの厳しさ。そうやって形作られた美しい情景が、観光として消費されるもどかしさ。現実と折り合いをつけながらタフに生きること。ファーマーが生きる場所から、都市に暮らす私たちはあまりにも遠い。でも、彼らの生き方はほんのり熱を持ったヒントになる。濱野大道さん訳。ハヤカワ・ノンフィクション文庫。2017年7月25日初版。

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羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

雨、臭い、血

リーバンクスさんはイギリスの「湖水地方」で、フェルという山岳地域を含む農場を営む家系に生まれ育った。「ファーマー」の祖父の背中を追いかけていた。祖父を世界の誰よりも尊敬してきた。父もまたファーマーで、衝突を繰り返しながらも共に農場を営んできた。そんなリーバンクスさん自身、ファーマーであるし、ファーマーであることが自分自身であると深く理解している。

 

羊飼いと聞くとまさに牧歌的なイメージだった。だけど、全く違う。ファーマーの暮らしは過酷そのものだ。たとえば冬。目覚めの情景はこんな様子だ。

 窓を叩きつける風と雨の音に目が覚める。ベッドに横になったまま外に眼を向けると、薄汚れた茶色いじゅうたんが敷かれた谷の姿が見える。ヒース、泥、骸骨のようなオークの木。遠くの峡谷から、小川の激流が石にぶつかる轟音が聞こえてくる。フェルの頂上を覆うのは、鈍色の雲。朝、窓の外を見るわずかな瞬間が、どんな一日が待ちかまえているかを教えてくれる。ウォーキングブーツで作業できる楽な一日になるのか、防水仕様の防寒着を着込んでの闘いのような一日になるのか。(p282−283)

自分だったらそのまま布団にもぐりこんで寝ていたいけれど、ファーマーにそれは許されない。朝起きた瞬間から、極寒の中、雨と風が吹きすさぶ。そんな中、当然、外での仕事が山のようにある。羊はリスケジュールを許してなんてくれない。

 

あるいは冬に備えた干し草の一部が腐り、それを処分するときにはひどい臭いが漂う。その時の様子をリーバンクスさんは思わず鼻をつまみたくなるように伝えてくれる。

(中略)しかし、この水浸しの巨大なガラクタを牧草地から撤去するのは、死体を動かすようなものだった。残酷で、不快で、無意味で、腐臭まみれの仕事だった。私たちは、数千の梱を石造りの納屋の廃墟に移動することにした。それから一端に火をつけると、遠くに離れて様子を見守った。が、呪われた物体はなかなか燃えず、何週にもわたって陰気にくすぶりつづけた。(p109−110)

残酷で、不快で、無意味で、腐臭まみれの仕事でも、やらなくてはならいのがファーマー。それを放置しても、誰かがやってくれることなんてないのだから。

 

血も流れる。2001年に発生した口蹄疫では、ほとんど戦争のように数多くの羊の命を、人の手で奪わざるを得なかった。

(中略)これほどまちがっていると感じられることをしたのははじめてだった。これまでの教えのすべてに反することだと感じずにはいられなかった。

(中略)処分された羊の多くは、祖父が一九四〇年代に買いつけた優れた雌羊の子孫たちだった。六〇年間の積み重ねは、わずか二時間で吹き飛んでしまった。(p248)

淡々とした言葉に深い悲しみが滲む気がする。湖水地方で続いてきた羊飼いの歴史は600年超。そのうち60年間のバトンを引き継いだ祖父の努力が、たった2時間で消える。それでも、ファーマーは生きていく。いや、生きていかなくちゃならない。

 

もっとタフになる

ファーマーはこんな厳しい環境をどう生きぬくのか。答えは、タフになること。羊の毛狩りで、熟練の父にまったく及ばずヘトヘトになっていたリーバンクスさんは、結局のところこんな考えに行き着いた。

 しかし、このような場所で成長すると、タフな仕事の連続によって甘い考えは消えていく。自分がもっとタフになるか、逃げ出すしか選択肢はない。口先だけの人間はすぐにボロを出し、その場に坐り込み、昼下がりにはもうへとへと。同じころ、ベテランの羊飼いたちは、いま仕事を始めたばかりにのように黙々と働きつづける。(p60−61)

 

タフになることは傷つかないことではない。むしろ多少の傷を気にせず生きていくことになる。それは「バーク」という言葉に表れる。樹皮を意味するこの言葉が、ファーマーの間ではこんな風に使われる。

 「父さん、手が切れてるよ」

 「こんなの怪我のうちに入らない。ちょっとぶつけてバークが剥がれただけだ」

 出血が止まり、かさぶたができ、いずれ傷は治るーー農場の生活のなかでは、血はいたって正常なものだ。(p337)

ちょっとした傷は人間の「バーク」が剥がれただけ。大したことはない。傷はやがてかさぶたになって、治る。だからファーマーは過酷な環境に臆することはない。

 

リーバンクスさんは表紙にも書いてある通り、オックスフォード大学を卒業している(その経緯はリーバンクスさん、いや、ファーマーの家系に生きるものならではの家族との衝突や反発の先にあるので、ぜひ本書で確かめてほしい)。だからこそ、ファーマー以外からファーマーがどう見えるかを熟知している。そしてその距離感を冷静に眺める。特に、風光明媚な湖水地方を「楽しむ」観光客に目を向ける。

 

観光客の目には、ファーマーの暮らしは映らない。ただファーマーが築き上げた農場や、丹精込めて育てている羊の群れを「景色」として味わう。リーバンクスさんは端的に、そうした観光的消費への疑問を言葉にする。

(中略)横殴りの雨のなか、あるいは雪の降る冬のあいだ、観光客はひとりも来ない。だとすれば、彼らの”湖水地方愛”は好天の季節限定なのだろうか?(p136)

観光客は朝から憂鬱になる冬の寒さも、ダメになった干し草を焼く嫌なニオイも、あかぎれもかさぶたも、見ていない。ましてや体験する気なんてない。逆に言えば、ファーマーはその全てを受け入れるからこそ、自然と持続可能な関係を結ぶ。タフであることは、ファーマーにとって自然と生きるための最低条件でもある。

 

長い長い鎖の小さな輪

こんな過酷な暮らしは、本当に楽しいんだろうか?とちょっと思った。しかし、まさにリーバンクスさんをはじめファーマーは、ファーマーであり続けることを持って想像を超えた喜びに出会う。雨の日も風の日も、冬も夏もファーマーであり続けるからこそ、見えるものがある。本書ではいろんな表現で、随所にちりばめられているけれど、「長い長い鎖の小さな輪」という表現が気に入っている。

(中略)山は人を謙虚にさせ、人間の尊大さや勘違いを一瞬のうちに根こそぎにする。私は共有のフェルを利用する牧畜業者のひとりであり、歴史の浅い小規模な農場の運営者にすぎず、長い長い鎖の小さな輪でしかない。おそらく一〇〇年後には、私が羊を山で放牧していたことなど、なんの意味もない事実になる。きっと、私の名前を知る者は誰もいなくなる。しかし、そんなことはどうでもいい。一〇〇年後もファーマーたちが同じフェルに立って同じ仕事をしているとすれば、そのほんの一部を作り上げたのは私なのだ。いまの私の仕事が、過去のすべての人々の働きの上に成り立っているように。(p396−397)

鎖はつながっている。リーバンクスさんは、今の自分の仕事と生活が、過去のあらゆるファーマーの働きの上に成り立っていることを知っている。同様に、自分の仕事が未来のファーマーにとっての礎になる信じている。過去と未来の、壮大な流れの、結節点にいるという確信が、リーバンクスさんをタフにする。

 

この感覚は、私たちに一番欠けているものかもしれないと思う。今の空気はむしろ、鎖を断ち切ることに必要以上の価値を見出してはいないか。過去を否定して、自分が新しく、なるべく個性的で大きな、鎖の起点になることがもてはやされている。でも結局は、誰かが引き継ぐことでしか鎖は成り立たない。無数の「続ける」という努力と決意によって、過去は未来へ引き継がれてきた。 

 

自分の名前なんてどうでもいいと思えることが、穏やかでどっしりとした、人間の幸福なのかもしれない。めくりめく四季の、ほんのワンシーンになるように。

 

今回紹介した本は、こちらです。 

羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

「羊飼いの暮らし」はビビットに、イギリスのファームの様子を目に浮かべさせてくれました。同じような体験は、前田将多さんの「カウボーイ・サマー」でもあったなあ。北米の草原、そこに実在する、生活を送るカウボーイに出会えます。

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リーバンクスさんの言葉は、実際に羊飼いであるから紡ぎ出せる生活者の言葉。「あるノルウェーの大工の日記」もまた、同じように手触りのある言葉に触れられます。

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誰かの人生の脇役になれるんだー読書感想「フィフティ・ピープル」(チョン・セランさん)

私たちは誰かの人生の脇役になれる。それは希望だ。それを教えてくれる物語が、ソウル生まれの作家チョン・セランさん「フィフティ・ピープル」だった。

 

みんながみんな、自分の人生の主人公なのだと言われる。でも人生という物語は必ずしも大河ドラマのようじゃなくて、主人公として充てがわれた物語がなかなか苦しいこともある。思い通りにいかないこともあるだろう。でも、私たちは主人公である「だけじゃない」。誰かの人生に華を添え、ふとした瞬間を支え、もしかすると、掛け替えのない存在にすらなれるのかもしれない。

「フィフティ・ピープル」は主人公が50人いる物語だ。それぞれの話は5ページにも満たない。その代わり、誰かの物語にひょこっと顔を出す。それがなんとも、心地よかった。亜紀書房「となりの国のものがたり」シリーズ。斎藤真理子さん訳。2018年10月17日初版。

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フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

 

 

あの子の人生で手を振る

群像劇といってもたいてい、5、6人が上限じゃないか。それが50人(正確には51人)。笑っちゃう数字だけれど、全然嫌ではない。表紙に描かれているような、ちょっととぼけたイラストがそれぞれのキャラクターを立たせてくれるのもいい。

 

舞台は韓国の首都圏のどこかにある大学病院。面白いのが、50人は看護師や医師だけじゃないこと。悲しい殺人事件の関係者。街中で起きた陥没事故の被害者。たまたま旅行で近くに来た人。病院はいろんな人が行き交う交差点としてセットされている。

 

お気に入りのシーンの主人公の一人は、まさにたまたま病院に厄介になった。名前はスティーブ・コティアン。ハンドボールのナイジェリア代表で、国際大会で食べた弁当で食あたりになり、病院へ搬送された。なんとなく韓国への苦手意識を持ったまま、迎えた後半。ふと、病室から窓の外を眺めた。

(中略)するとふいに、隣の建物の屋上に女性が一人立っているのが見えた。テントが全部消えた空き地を見おろしている姿が寂しげに見える。何であんなに寂しそうなんだろうと思っていると、女性がスティーブの方に顔を向けた。

 スティーブは手を振った。とっさの行動だった。女性もこっちを見て手を振ってくれた。

 女の人が親切な国だな。暮らしたいとは思わないけど、それでもまた来てみたい。スティーブの韓国に対する気持ちはちょっと和らいだ。(p241)

異邦人が出会った少しうれしい瞬間。これだけでもほっこりするけれど、「フィフティ・ピープル」の素敵なのは、この瞬間を「脇役側」から見る物語があること。

 

手を振ったのは病院で働く女性医師のイ・ソラだった。周囲の評判は「つきあいづらい人」。はびこる女性蔑視にきちんと争う姿を「剣の舞」と揶揄されたりする。実は、スティーブが入院した日、ソラが陣頭指揮をとってバザーを開いていた。「テントが全部消えた空き地」とはそういうことだ。あの瞬間は、ソラにとってはこんな感じだった。

 去年よりたくさん寄付金が集まった。ソラは満足だった。最後まで一緒に動いてくれた人たちと公園を完璧に掃除し、病院の倉庫にテントを返すともう夜も更けている。クールな性格なのにエネルギーをすごく発散したので、疲れてしまった。(中略)いちばん軽蔑すべきものも人間、いちばん愛すべきものも人間。その乖離の中で一生、生きていくだろう。

 誰かがじっと見ているような気がして、振り向いた。本館の病室の下の方の階で、窓際にいる人がちょっとためらってから、ソラに手を振った。ソラも手を振り返した。窓が暗くてよく見えなかったけれど、手のひらだけは優しかった。(p311)

素敵だ。なんと素敵なんだろう。70ページを経てこのシーンに至った時、優しい電撃を浴びた気がした。手を振り、手を振り返すという動作。人生のほんの、ほんの1シーンだ。でも、スティーブは「韓国ってそんなに悪くない」、ソラは「手のひらから感じる優しさ」をそれぞれ受け取った。人が人を思う気持ちを交換した。

 

スティーブはソラの人生の、ソラはスティーブの人生の、脇役になった。ほんの小さいものかもしれないけれど、明かりを灯した。これは紛れもなく希望だと思った。

 

自分のことはちょっぴり悲しかったり嬉しかったり

それぞれの主人公の物語は5、6ページに満たない。3ページの時もある。その短さと、セランさんがまぶすほろ苦さが「フィフティ・ピープル」のもう一つの魅力。人生ってそうじゃないか。ちょっぴり悲しかったり、たまにちょっぴり嬉しかったりするもんじゃないか。

 

たとえばユ・チェウォン。病院で随一の凄腕外科医の女性だ。マシーンのような精密な手術で知られるし、メンタルも鋼のよう。だからこそ、病院創立者の会長の長姉(83歳)の手術という重責を担う。いや、押し付けられる。「私はもう手を引くから、君が執刀したまえ」と科長が言ったのは、たぶん責任回避だ。

 

でもチェウォンは向かっていく。こんな思いで。

   チェウォンも自分の居場所をずっと探し求めてきたといえる。すごく小さいときから待ちつづけ、探してきた「適所」はもしかしたらここかもしれないと、ついに最近、思いはじめた。生やさしい場所ではない。重い負荷のかかる居場所だ。だがチェウォンは、自分が頑丈な部品であることを知っていた。(p69−70)

手術は無事に済んだ。でも、手術部位に炎症が残った。それで会長の機嫌は悪いらしい。チェウォンは廊下で夕食のパンをかじりながら思う。

 どこか正しい位置、適切な場所、自分の居場所を見つけたかった。工場にあるすごく効率的なロボットの腕が、今ここに立っているチェウォンを持ち上げて、そこに運んでくれたらいいのにと思った。

 「だけど、世界は効率的じゃないもんね」

 パンにはピーナツクリームが少し入っていた。あんまりにちょっぴりなので、びっくりするほどだった。(p71)

主人公としてチェウォンはこれ以上ないくらい輝いている。あんまり好きな言葉ではないけれど、いわゆる「スペックが高い」。それでも人生はほろ苦いんだ。それはちょうど、パンに入っていたピーナツクリームがあまりに少なくてびっくりするほど、なかなか満足にはいかないものだ。

 

だからこそ、ソラとスティーブの間の交歓が人生の希望だと思う。もちろん、チェウォンにも誰かの脇役になる瞬間がある。それがまた、いい。

 

「入り口の風船」みたいに

役者あとがきによると、セランさんは「入り口の風船みたいな作家でありたい」と語っているそうだ。「複雑な思考や苦悩を読者と共にしてくれる作家はたくさんおられるので、私は軽やかな、気安い作家になりたい」という。なるほどなあ。たしかに「フィフティ・ピープル」に収められた物語はポップで、いろいろと悲しいこともあるけれど、シリアスになりきらない。

 

そもそも脇役というのも、入り口の風船みたいなものかもしれない。見過ぎして歩くかもしれない。でも思い出を語らう瞬間、その情景にふっと、鮮やかな風船の彩りが蘇るかもしれない。誰かにとって重要人物になることが脇役になるということではないんだろう。互いの人生の交差する瞬間に、少しでも優しい気持ち、少しでも美しい何かを、置いていければきっとそれでいい。そんなことを思った。

 

今回紹介した本は、こちらです。

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

フィフティ・ピープル (となりの国のものがたり)

 

 

誰かの人生に彩りを加えるような素敵なひと。金井真紀さんの「パリのおじさん」に登場するおじさんたちは、まさにそんな人たちだよなあと思い浮かびました。パリの市井のおじさんを集めた、おじさん図鑑。響く生き方が記録されてます。

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人と人の関係をもっとアカデミックに考えたいなら、ネットワーク論の専門家増田直紀さんの「私たちはどうつながっているのか」がオススメです。六次の隔たり理論など、人とのつながりを科学的に理解するフックが紹介されます。

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この本に出会えてよかった2018

2018年は「出会えてよかったな」と思える本がいくつもあった。「ためになった」とか「面白かった」とかというより、人生のこのタイミングで読めてよかったな、そういう意味で「出会えてよかった」と。なんだか本は人に似ている。出会うべくして出会うことがあるなと感じた一年でした。本棚を見渡して、記憶を思い起こして、10冊チョイスしました。

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今年初めて参加してみた古本市の写真

1.「さよなら未来」

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この本を読んで「未来」に振り回されなくなったと思う。テクノロジーだったりサイエンスの最先端を扱う雑誌「WIRED」日本版の編集長をされていた若林恵さんのエッセイ集。なんだけど、そうした「未来的なもの」を突き放す姿勢、冷静に考え直す目線がある。それは透徹していると言っていい。

 

根底にあるのは、「未来」とは「想像できる未来」だけじゃないでしょうという問いかけ。たとえばビッグデータで子どもの適性を見抜けるようになったとして、そんな「合理的」「技術的」選択から、メッシのような驚くべき才能は現れるだろうかという話が出てくる。あるいは、いつの間にか「社会」が「経済」を動かすんじゃなく、「経済」の中に「社会」が組み込まれてしまった現状から未来を想像しているよね、と。その無自覚の前提は、本当に創造的なのかと批判する。

 

「未来などない、あるのは希望だけだ」という哲学者イヴァン・イリイチさんの言葉が鮮烈に印象に残る。未来に期待しすぎて、未来を至上しすぎて、いつのまにか人間が開発され消費される「材」になっていること。その足枷から抜け出すべく、希望を描きなおすこと。その大切さを言葉のシャワーで教えてくれる本だった。岩波書店。2018年4月19日初版。

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2.「これからの本屋読本」

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この本を読んでから、積ん読をするようになった。こんな一節がある。

 本との出会いもまた、人と似て一期一会だ。ぼくは、気になる本はなるべく、その場で買って帰るようにしている。もちろんどこで買っても一緒だから、著者名やタイトルだけをメモしておけば、あとでネットで買うことも、近所の本屋で買うこともできる。図書館で借りることもできてしまう。けれどその瞬間、その本が気になるときの「その感じ」は、もう二度とやってこない。(p35)

 著者の内沼晋太郎さんはこんな風に、本ってなんと素敵なのか、それを扱う「本屋」とはなんと面白い仕事なのかを丁寧な言葉で伝えてくれる。ページをめくるたびに本が、本屋が好きになれる。

 

内沼さんが言う「本屋」は、店舗を構えて新刊本を売る本屋だけじゃない。「本をそろえて売買する人」だけじゃなくて「本を専門としている人」も本屋だと。だから「人生に本屋を取り入れる」、そんな風に本屋的な生き方ができるんじゃないかと提案してくれる。もしかしたらこのブログも一つの本屋になれるかも、と希望が灯った。NHK出版。2018年5月30日初版。

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3.「ゲームの王国」

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今年一番最初に読んだ小説で、その瞬間に「今年一番面白かった小説になるかもしれない」と唸った。小川哲さんが「ハヤカワSFコンテスト」受賞後に放った長編。

 

すごいのは、SFってこういうことかという近未来世界や、新技術を柱にしつつ、舞台はカンボジアで、しかもポル・ポト政権の大虐殺というテロルを真正面からとらえていること。さらに片田舎の少年少女を主人公にして、土着の不思議な能力も織り込む。てんこ盛りなのに、乱れない。大河小説ばりの骨太なストーリーが全てを生かしきったまま、濁流のように読む方へ突っ込んでくる。SFってこんなに面白いのかと目を見開かされた。「ゲームの王国」読了後、SF作品を読む回数が格段に増えた。早川書房。2017年8月15日初版。

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4.「ハロー・ワールド」

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本を読むというより、本を「体験する」という感覚を味わえた。SF作品なんだけれど、「もう始まっている」という実感が伴った。同時に、一人のサラリーマンが世界にどう対峙できるかという「会社員小説」でもある。文字/文学/SFあらゆる意味での可能性を広げる、拡張性の高さに驚いた。

 

とまあ小難しく書いてみたけれど、端的に言えば「勇気が出る」。いまを生きること。この先へ歩くこと。そしてしがない会社員であること。著者の藤井太洋さんは、この物語で全てを肯定してくれているように思った。

 

帯にある宮内悠介さんの推薦コメントも痺れるし、この作品の熱量の全てを物語っている。「藤井太洋は諦めない。技術(テクノロジー)も、そして未来も」。講談社。2018年10月16日初版。

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5.「メゾン刻の湯」

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今年は「生産性」という言葉が粘っこくまとわりついた。誰に投げつけられたわけでもないんだけれど、花粉みたく日々いやーな気持ちにさせられた。小野美由紀さんの小説「メゾン刻の湯」はそんな違和感を吹き飛ばして、洗い流してくれた。

 

いろんな「生きにくい」若者が集まるシェアハウスを舞台にした群像劇。なんだか、応援したくなる。共感する、とはちょっと違う。むしろ共感というのが言うほどたやすくないことを伝えてくれる物語だ。読むことで自分の中にぽっかりいい感じの空気穴を持てる。深く深く、深呼吸ができるはず。ポプラ社。2018年2月10日初版。

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6.「広く弱くつながって生きる」

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「メゾン刻の湯」とセットで読むことで効用が増す、ジャーナリスト佐々木俊尚さんのエッセイ。読み終えると、「他人と関わって生きよう、だけど、ゆるくやろう」と思える。それは二つの意味で世に溢れる言説のアンチテーゼになる。まず「個としてブランディングしていく」ということ。そして、「共感をたくさん得て生きる」ということ。二つの軛(くびき)から自由にしてくれる。

 

もうひとつ、人生はピークハントではなくロングトレイルなんだ。だからその道中を楽しもうよ、という話も胸に残った。

 人生も同じです。通過点をゴールだと思いすぎたり、あらぬゴールを仮定して期待感を高めるから、かえって失望感や徒労感も大きくなります。峠を越える繰り返しにすぎないと認識し、いま歩いていることを楽しんだ方がよほど毎日が充実すると思います。(p180)

幻冬舎新書。2018年3月30日初版。 

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7.「あなたの人生の意味」

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書き出し・オブ・ザ・イヤー。この一文を読めただけでも、もう満足である。

 私は最近よく考えることがある。人間の美徳には大きく分けて二つの種類があるのではないかということだ。一つは履歴書向きの美徳。もう一つは追悼文向きの美徳。(p11)

そして著者であるニューヨークタイムズの名コラムニスト、デイヴィッド・ブルックスさんは、「人は履歴書向きの美徳を誇るけれども、ほんとうは追悼文向きの美徳こそがその人の人生を意味するんじゃないか」と語りかける。本当にその通りだ。どの学校を出てどの会社で働いたかよりも、あの人は勇気と優しさがあり、出会えてよかったと言われる生き方をしたい。

 

そのための根性論ではなくて、キング牧師を支えたラスティンや、アイゼンハワー、モンテーニュといった追悼文向きの美徳を磨いた歴史上の偉人の生き方を紐解くのがいい。この本を読んでからも当然、何度も見失って結局は履歴書向きの美徳を追いかけている。でもこの本があるから、立ち止まって、自分を戒められる。ハヤカワ・ノンフィクション文庫。2018年7月15日初版。

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8.「なぜ科学はストーリーを必要としているのか」

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ストーリー(物語)の力が、魅力が、ばしばしと伝わってくる。今年読んだ本の中でもずば抜けて、著者の熱量がにじみ出ていたように思う。ランディ・オルソンさんはまるで火の玉のようにストーリーへの愛を滾らせる。海洋生物学者というキャリアを放り出して、ハリウッドの映画監督に転じたというのも面白い。

 

学びがシンプルなのもいい。本当に大切なことはシンプルなんだろうなと思う。ストーリーの極意、それはABTだ。そして(And)、しかし(But)、したがって(Therefore)という要素をちゃんと組み込むことで、人を引き込むストーリーになる。たとえばオズの魔法使いはこう。

  • オズはカンザスで暮らしている。しかし、竜巻に吹き飛ばされ不思議の国に迷い込む。したがって、どうにかカンザスに戻ろうとする。

ちょっとかもしれないけれど、この本を読み終えてからは伝え方の物語性を意識できるようになった。慶應義塾大学出版会。2018年7月30日初版。

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9.「パリのすてきなおじさん」

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こんな風に生きたいと思った。こんなおじさんになりたいと。読み終えた後に湧き出るそんな感情が、宝物だと思う。作家・イラストレーターの金井真紀さんが、フランス在住の広岡裕児さんの案内でパリのいろんなおじさんと出会い、語らう「おじさん図鑑」。

 

なんと言うか、「普通」に頑張ろうと思えた。パリのおじさんはみんな、わりと普通だ。彫金師、カフェの店員さん、事務職員さん。でも、それぞれ人生で何が大切で、どう生きたいかはちゃんと見えている。それが言葉ににじみ出る。たとえば彫金師のフレデリックさんの言葉。

 「俺は細かいところまで丁寧でやりたいの。機会を使えば二時間でできる仕事を、手で百時間かけてやりたいわけさ」(p53)

もうこれだけで十分。この言葉を発せられる人生を歩けたというのがかっこいい。だから自分も頑張りたい。こんなおじさんになれるように。柏書房。2017年11月10日初版。

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10.「フィフティ・ピープル」

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まだ読みたてほやほやで、これから感想エントリーを書きたいと思う。年が終わるギリギリにも素晴らしい本に出会えるから、読書というのは侮れない、気を抜けない。

 

群像劇。ただし、主人公が50人もいる。もうその時点で面白いなと思って手に取った。一つ一つのストーリーは5ページとかそのくらい。連作短編集の形式で進む。

 

しかしまあ読むと深かった。この本のすごいところは、「誰かの脇役になる希望」をありありと描いていること。50人は自分のパートでは主人公だけれど、ほかのパートでは見事な脇役になる。時には名前さえない脇役になる。それがいい。すごく輝いて見える。誰かの人生に華を添えることは、こんなにも豊かなことなんだと教えてくれた。作者のチョン・セランさんはお隣韓国で注目の作家さんみたい。亜紀書房。2018年10月17日初版。

 

2019年も素敵な本に出会えますように。

誰にとっても悪じゃないが、誰かにとって悪であるー読書感想「フーガはユーガ」(伊坂幸太郎さん)

伊坂幸太郎さんの最新長編(2018年12月時点)「フーガはユーガ」は「悪」についての物語なんじゃないかと思った。そんなことを考えずともただただ面白い。だけど読後、この物語に登場する悪、邪悪さがどうにも忘れられない。

 

キーワードは双子、誕生日、瞬間移動。帯にある通り「僕たちは双子で、僕たちは不運で、だけど僕たちは、手強い」ことが示される物語だ。この不運はいろんな象られ方をするけれど、どれもこれもが邪悪さを持つ。それはいわゆる悪役じゃない。誰にとっても真っ黒な存在じゃない。むしろ一般的にはどうでもよくて、でも私、この場合は「僕たち」にとってどこまでも凄惨な存在だ。実は局所的な悪こそ手に負えない。だけどラスト・センテンスにあるように主人公の双子は、手強い。実業之日本社、初版は2018年11月10日発行。

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フーガはユーガ

フーガはユーガ

 

 

「魔王」で描かれた邪悪さと違う

伊坂幸太郎さんの作品で悪、邪悪さがはっきり見えたなあと印象深いのは「魔王」だった。この時の悪は「権力」とも言えそう。国民的人気を集めつつある首相に、独裁者の予感を感じ取った主人公が、ちょっとした「超能力」で立ち向かうのが「魔王」だった。

 

この時、悪が悪として認識されていないのがポイントだった。独裁者の予感と、そこへの危機意識を持ち合わせていたのは主人公だけで、むしろ国民は頼り甲斐のあるリーダーくらいに感じていた。この「包まれた悪」は「ゴールデンスランバー」における国家、「モダンタイムス」における検閲システムという形で表現されていたように思う。「火星に住むつもりかい?」の平和警察もそうか。

 

「包まれた悪」は巨大であり、いつまでも包みを解かない。つまり誰からも邪悪と思われずに、実質としては人々を支配して、邪魔するものは秘密裏に排除する。そういう途方もなさに打つひしがれつつ、ゾウに挑むアリのような主人公へ「頑張れ!」とエールを送るのが楽しみだった。

 

だけど「フーガはユーガ」の悪はちょっと毛色が違う。

 

局所的な悪

若干のネタバレになるかもしれないけれど、割と序盤で描かれるし、物語の本質はもう少し別のところにあるので許されると信じて書く。

 

「フーガはフーガ」では非常に暴力的な父親が現れる。主人公の常盤優我(ゆうが)、弟風我(ふうが)の父である。双子は「あの男」と呼ぶ。この父親が「フーガはユーガ」における悪の一角をなすけれど、特徴は、極めて局所的な悪だということ。

 

父はひどい暴力を双子に振るう。幼少期から、ずっと、ずっと。読者としては早く父親をなんとかしてくれと思う。双子の知略でも、誰かヒーロー的な人物の登場でもいい。でもなかなか、双子は救い出されない。

それは父親が家の外では「どうでもいい」からだ。こんなシーンがある。色々とあり(ページで言えば70ページぶんくらいあり)、優我(僕)が仙台にある公立高校へ進学し、風我は学校へ行かずに働くことにする。双子でそう決める。そこに担任教師が割って入り、風我も高校に行くようにと説得しようとする。

 「どうして、そんなに一生懸命なんですか」卒業したら働く、という方針を変えなかった風我は、最後にそう訊ねた。

 先生は、眼鏡をかけた四角い顔の、生真面目な顔つきだったのだけれど、「単に心配なんだ」と答えた。

 「先生も、俺たちのアパート来たことあるから、分かってると思いますけど、そういう意味ではうちは、先生が心配になることだらけ、ですよ。貧乏だし、無関心な母親と、ひどい父親と」

 先生は呆気に取られたようだった。役所に相談、であるとか、児童養護施設がどうこう、であるとか言いかけた。

 「大丈夫です」僕は言い、風我も同時に首を横に振った。「気持ちは嬉しい。だけど、簡単に解決しないことは俺たちのほうが分かっている」(p76-77)

担任は「心配」まではする。でもそこまでだ。もしもこの担任がもっと踏み込めば、ひどい父親は物語の序盤も序盤で退場できたかもしれない。でもそうはならない。担任にとって、そもそも双子が中学を卒業するまでに関わった社会の誰にもとって、父親の暴力はそこまでの喫緊性を持たない課題だったから。

双子が言う通り「簡単に解決しないことは俺たちのほうが分かっている」。誰よりも緊急で、誰よりも重大な問題として父親を抱えているのは、優我であり風我だった。

 

だからこの父親は今後も双子に悪を発揮し続けるし、双子はなんとかこの悪に、たった2人で立ち向かうほかない。伊坂さんの作品が救いなのは、双子は丸腰ではないこと。伊坂印といってもいい、ちょっとしたパワーを、双子も持ち合わせている。

 

父親のように「誰にとっても悪じゃないが、誰かにとって悪である」存在に、伊坂さんは少しずつフォーカスしているような気もする。2017年に本屋大賞ノミネート作品となった「AX」では、おなじみの「殺し屋」というアウトローを主人公にしながら、その殺し屋が恐妻家で温かい家庭を築く。この平穏を脅かすのが殺し屋に仕事を発注する人物だが、まさに一般社会ではどうでもよくて、この殺し屋にとってのみ重大な存在になる。

 

「包まれた悪」と「局所的な悪」は、実は立ち向かう側が孤独な戦いを強いられる点で共通する。明らかな悪や、全般的な悪は、糾弾するにあたって仲間と連帯できる。それが気持ちいいと感じる人すらいるかもしれない。でも伊坂作品の主人公はいつだって土俵際だ。そして「局所的な悪」はことさら、仮に打ち破れても自分以外にとってはどうでもいいんだろうなという点で二重に孤独だと思う。

 

でも、物語の外で、現実で、身近なのは「局所的な悪」な方かもしれない。家族で、職場で、コミュニティで。自分だけの困りごとには誰にでもある。双子のような不思議な能力はなくても、そこに向かっていく活力を、物語は授けてくれる。

 

今回紹介した本は、こちらです。

フーガはユーガ

フーガはユーガ

 

 

当事者にとっての意味が外部にとって自明じゃないこと。そして孤独、人を頼れないことがどれだけ人を追い詰めるかを感じ取れる物語が「神さまを待っている」です。作者の畑野智美さんの実体験を練りこみつつ、女性の貧困を描き出します。

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本文中でも触れた殺し屋のストーリー「AX」も非常に面白い。殺し屋が恐妻家だったら、人の命を奪うのに、奪われたくない大切な家族がいたら、というねじれた設定はなんとも歯ごたえがありました 

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自衛隊に学ぶストレス管理ー読書感想「心の疲れをとる技術」(下園壮太さん)

戦場以上にブラックな職場はきっとない。しかも負けは許されない。そんな究極の仕事に臨む人たちのストレス管理は一体どうなっているのか。本書「自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れを取る技術」はその一端を垣間見せてくれる。

 

著者の下園壮太さんは、元陸上自衛隊心理幹部。隊員のカウンセリングを重ねて理論を構築し、退官後もカウンセラーとして活躍されている。軍事組織ならではの発想はサラリーマンにも間違いなく活かせる。たとえば「予備」という、戦闘を継続するための考え方。目に見えない疲れを自覚するための「EEI(Essenntial Element of Information)」という考え方。心の体調を崩さない「予防薬」になる。朝日新書。

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自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術 (朝日新書)

自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術 (朝日新書)

 

 

「予備」と「7〜3の発想」

防衛には「予備」という発想がある。計画段階で予備という「何もしない」「使わない」余裕を「任務」として織り込むという。平均的な軍隊は、総力の3分の1から4分の1を予備に割り当てる。

 例えば、4個中隊を指揮する大隊長は、3個中隊を並べて防御し、1個中隊は、不測事態への対処として「予備」という任務を与える。

 逆に言えば、10の力があっても、7か8の行動しかとらないということだ。(p194)

4個中隊があれば、1つの部隊は「備えることが任務」になる。この10の力があっても7か8の行動しかとらないという発想が、ストレスケアでもポイントになる。

 

下園さんが引く大砲の例がわかりやすい。大砲には「最大発射速度」という「一番早く撃てるスピード」とは別に「持続発射速度」が決められている。最大発射速度はその大砲の全力ではあるが、そのまま撃ち続けると砲身が壊れてしまう。一方で持続発射速度は最大発射速度の4分の3、つまり「予備」を抜いた速度に設定されていて、これなら壊れずに撃てる。

戦闘が過酷なのは「いつ終わるか分からない」という点だろう。大戦末期を考えてみても、物資が尽きていく中、戦い続けていく過程で様々な悲劇があった。もし確実に勝負を決着できるなら、大砲を最大発射速度で撃ってもいい。でも、相手は一度撤退するかもしれないし、作戦を変えたり、予期せぬ行動に出るかもしれない。そうして戦闘が長引けば、最大発射速度で大砲を壊すことが致命的なダメージになりうる。

 

下園さんは、仕事においても予備を織り込んだ働き方が大切だと説き、「目標の7〜3バランス」というツールを提案する。

 

たとえば「人から頼まれると嫌と言えない」自分にコンプレックスを持っているとする。この性格を変えようとした時、「今は手一杯なのでBさんに回してください」とピシャリと答える「嫌と言える理想の自分」を10とする。対して「嫌と言えない現状の自分」は0になる。

では、中間の5はなんだろう。「今、ちょっと手が離せないんですが、どうしても急ぎなら、そちらを優先します」と躊躇しながら引き受ける。もうひとつ強気な7なら「他の方に頼んでみていただいて、でも無理そうならやります」、やや弱気な3なら「少し悩んでいる様子を見せつつ引き受ける」かもしれない。

最大発射速度の10は、理想的な自分かもしれない。しかし慣れないことをすれば疲れるし、周囲に角も立って、ストレスになる。その「無理」があなたという「砲身」を壊すかもしれない。だからちょっと「予備」を設けて、7から場合によっては3の行動をする。0の自分からはちょっと前進し、10の自分から見てもある程度努力をした自分は、ストレスと自信のベストバランスが狙える。

 

10の姿は憧れる。他人が10で奮闘している様子はさらに輝かしく見えるし、自分がダメに思える。でも仕事というのは、自分という大砲を派手にぶっ放すことが目的じゃない。むしろなるべく砲身を長持ちさせて、「戦い続ける」ことが大切になる。

 

EEIで疲労を可視化する

自衛隊のハードなレンジャー訓練。1人は無言で黙々と任務をこなす。もう1人はいつもぐちぐち不平ばかり漏らしている。訓練を最後までこなせるか、注視すべきはどちらか。下園さんは「弱音を吐かない隊員ほど、急に折れてしまう」と語る。逆に不平を言う隊員の方が、「何がつらいのか」が可視化されていて、対応が容易だという。

 

弱音を吐かない隊員は、別に好き好んで辛さを我慢しているわけではない。むしろ、辛さや疲労を自覚できていないケースも考えられる。「自分は疲れていない」と思ってしまうのだ。下園さんは、疲労は可視化しにくいこと、また人間は疲労に麻痺するシステムを備えていることに注意が必要だと指摘する。

 

自衛隊は、この可視化をシステム化している。交代制で任務に当たる部隊がチェンジする際「任務解除ミーティング」というブリーフィングを行う。

(中略)そのポイントは次の六つだ。①隊員の報告を受ける、②隊長が情報を与える、③隊員の困っていることを聞く、④隊員の身体症状のチェック、⑤隊員の意見具申を受ける、⑥隊長が現実的視点を示す。(p119)

六つのポイントのうち最重要なのは③隊員の困っていることを聞く、にある。おそらく3番目という比較的前半に共有することにも意味がある。例えば先に身体症状を言ってしまうと、困っていることを「体調に問題がないからいいか」と過小評価してしまう恐れもある。まず主観的な違和感を言語化することで、隊員の心の内をカタチにできる。

 

もうひとつ、軍隊には「EEI」という考え方がある。Essential Element of Information の頭文字で、敵の活動が分からない場合に、「相手の行動によって変化する重大な情報」を指標に、その変化によって情報収集するというやり方になる。

 例えば、攻撃すると読んだなら、「この道路の交通量が増えるはず」とか、「直前に通信量が増える」などのチェック項目を挙げ、その文脈で情報処理する。すると、漠然と見ていただけでは気がつかない兆候に、一貫性を見出しやすいのだ。(p57−58)

自分自身の疲労が見えにくいなら、疲労に関するEEIを設定する。疲れていればどうなるのか。食事量が減る。友達とのラインの回数が減る。アイスクリームを食べる量が増える。自分の行動がどう変化するかに自覚的になれば、疲れすぎるという状態に差し掛かる手前でストップができる。

 

子どもの強さ、大人の強さ

戦闘というのは人類誕生から繰り返されていて、そう考えると企業活動やサラリーマンの仕事、知的労働なんかよりはるかに歴史が長い。その現場でストレスケアに当たってきた下園さんの理論は、科学的裏付けはともかくとして、ぱっと聞いてすっと腑に落ちる説得力がある。

 

その一つが「子どもの強さ」と「大人の強さ」という考え方。下園さんは、心の強さにはこの2種類があると考えている。

「子どもの強さ」は、大人になる準備として「鍛える」という発想で培われた性質になる。たとえば「我慢する」。あるいは「諦めない」「一人でやり抜く」「完全にやり切る」もそうだ。我々は生まれてから20年弱をかけて、子どもの強さを高い強度で学習させられている。

 自分に対する評価は厳しくあることを求められ、簡単に今の自分に満足してはならない。

 これが「子供の強さ」の中核をなしている。

 このような態度が大人をはじめ周囲から賞賛された。

 そして子供の心の強さは、子供時代、実際に成功に結びつきやすかった。というのも、子供時代は毎年自分自身の体力・知力が成長する。我慢して努力していれば、だんだんできてくるようになる。

 また、学校などで与えられる課題も、努力や忍耐で克服できるものが多かった。この結果、私たちは、この子供の心の強さを強く「学習」してきているのだ。(p32)

 

一方で「大人の心の強さ」は、もっと「守り」に注目した強さになる。努力しても報われない。知力・体力が落ちていくのに仕事量はむしろ増える。そんな理不尽さ、あるいは不公平、不平等に「めげない」のが大人らしい強さ。

あるいは正論、子ども時代には正解だった対応が間違いになることもある。上司がチームワークを重んじるならばチームワークを、個人の成果を重視するならそれに則る方がベター。ベストアンサーは状況次第だし、柔軟に理屈を使い分ける大人の方が強い。

 

この社会で生きづらくなっているのは、「子どもの心の強さ」が強い人なんじゃないかと下園さんは指摘する。頷ける。子どもの価値観のまま戦えば、まさに最大発射速度での戦闘に陥りがちになる。予備がなくても回復力や成長力で補ってきたのが子どもだけれど、回復力も成長力も永続しないのが大人。それでも戦い続けるための苦肉の策が「大人の心の強さ」なんだろう。

 

「大人の心の強さ」は伸ばすよりも養うもののようだ。うまく疲労を回復しつつ、ぼちぼちやる。そのために下園さんは「動」のストレス解消だけではなく「静」のストレス解消を身につけることを勧める。子どもは有り余る体力で、ストレス解消もスポーツだったり旅行だったり、とにかくアクティブ。でも大人は回復するための体力も乏しいわけで、もっと静かな趣味を育てていこうと。日曜大工、料理、映画鑑賞、俳句や短歌。心に栄養を与えることで、また理不尽にも向かっていける。

 

今回紹介した本は、こちらです。

自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術 (朝日新書)

自衛隊メンタル教官が教える 心の疲れをとる技術 (朝日新書)

 

 

 科学的アプローチ、組織論からストレスケアについて考えるのもまた面白いです。北欧の産業医療の専門家による「STOP STRESS」は格好の参考書です。「ストレスとは環境負荷が自己評価を上回る状態である」など、ストレスケアを考える基本的なフレームワークを学べます。

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戦い続けるスタンスが重要である、というのは、実は極限の挑戦者たる起業家にとっても大切なようです。「START UP アイデアから利益を生み出す組織マネジメント」は、ラスベガスのポーカー大会を例に、起業のポイントを小説形式で学べます。

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人はなぜ知ったかぶるのかー読書感想「知ってるつもり 無知の科学」(S・スローマンさん&P・ファーンバックさん)

人間はどうしてここまで進化したのか。複雑なビルを建設し、原子力を生み出せたのはなぜか。賢さ、知性があり、それを磨いてきたことが大きい。しかし、人間は時に大きな過ちも犯す。「知ったかぶり」をしてしまうし「知っていると思い込む」ことも少なくない。では「なぜ」知ってるつもりになってしまうのか?そう根本を問われるとなかなか答えられないわけで、だからこそ「知ってるつもり 無知の科学」が解き明かしてくれる「人間の知ったかぶりのメカニズム」は面白い。

 

スティーブン・スローマンさんと、フィリップ・ファーンバックさんの認知科学者コンビが執筆している。人間が賢いのは、一人ではなくみんなで考えるという「認知的分業」を徹底しているから。だからこそ「他人の知識」を「自分の知識」と思い込んでしまう錯覚も起こりうる。加えて知性は個人として独立しているのではなく、コミュニティと密接に関わっているからややこしい。

 

では、人間は「知ってるつもり」から脱せられないのか?議論はその先まで続いて、読者を知的に遠くまで連れて行ってくれる。土方奈美さん訳。早川書房。

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知ってるつもり――無知の科学

知ってるつもり――無知の科学

  • 作者: スティーブンスローマン,フィリップファーンバック,橘玲,土方奈美
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/04/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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他人を頼るからこそ人間は賢い

この世のあらゆるものは「認知的分業」の産物である。スローマンさんらはまずこの前提を強調する。たとえば食器洗いを想像してみる。私たちは洗剤の作り方も知らないし、それぞれの化学成分の効能も知らない。そもそも蛇口をひねって水を出すけれど、なぜ蛇口をひねると水が出るのか、その原理を説明することはできない。全て「誰か」が研究し、解き明かし、構築してくれたものでしかない。

 

言い換えれば、人間の知性は「総和」であって「単体」ではない。アインシュタインのように個人として爆発的な知性を持っている人でも、たった一人で蛇口や洗剤を生み出すことは不可能だった。

 

面白いのは、一人の人間で考えても「脳は知性の一部でしかない」ということだ。たとえば、このエントリーの最初の一文を覚えているだろうか?きっと覚えていないはずだが、それによって不安にはならないだろう。なぜなら指をスクロールし、視線を動かせばその一文が「あることは分かっている」からだ。

あるいは、住み慣れた我が家の全体像が分からないと答える人はいない。人間の視野はスポットしか見えないにも関わらず、みえない家の全体像を「分かっている」と思えるのは、「見れば分かるから」。ここでも、分業的に、「情報の外部化」が働いている。

 

人間は膨大な「外部支援装置」を頼りにしている。それが人間の知性の本質だと、スローマンさんらは語る。

 ここまでで、個人レベルでは比較的無知なのに、なぜ人類は自らを取り巻く環境を思うままにできるのかという問いに、多少は答えられたと思う。外部からの手助けがあれば、個人はかなり無知ではなくなる。身体を含めた身の回りの世界が記憶装置や外部支援装置の役割を果たすことで、それらがないときよりずっと賢くなる。(p121)

他人や、外の世界の何かを頼れるからこそ、人間は賢い。

 

グループシンク(集団浅慮)の罠

だからこそ、人間は「他人の知性」を「自分の知性」と勘違いする。これが「知ってるつもり」「知ったかぶり」につながる。情報を外部化し、シームレスに使う分業能力が裏目にでる格好だ。

 

面白い例が本書で紹介されている。グループのプロジェクトにおいて、人間はいつも「自分の貢献度を高く見積もる」という。既婚夫婦に「夫と妻が担っている家事は全体の何%か」を尋ねると、自己評価の平均は50%を超えた。足し合わせると100%を超えてしまうのは、きっと夫は妻の、妻は夫の、「やってもらった家事」を適切に認識できていないからだ。

 

この「他人と自己の知性の混同」が話をややこしくする。つまり人間はたった一人で思考するわけではなく、常にコミュニティや社会と連結して思考しなくてはならない。その結果、集団における知性は相互作用を起こして、「無知が無知を呼ぶ」というネガティブ・フィードバックになりうる。この危険性をスローマンさんらも指摘する。

 これが知識のコミュニティの危険性だ。あなたが話す相手はあなたに影響され、そして実はあなたも相手から影響を受ける。コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。その結果、実際には強固な支持を表明するような専門知識がないにもかかわらず、誰もが自分の立場は正当で、進むべき道は明確だと考える。誰もが他のみんなも自分の意見が正しいことを証明していると考える。こうして蜃気楼のような意見ができあがる。コミュニティのメンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない。(p191)

誰も適切な専門知識を持っていないのに、「知ってるつもり」が伝染することで、コミュニティ全体が知識を持っているように装う。こういった現象を「グループシンク(集団浅慮)」という。

 

グループシンクに陥った場合、知性はほとんど「カルト的な思い込み」「教義」に変質してしまう。互いの無知が支え合い、蜃気楼のはずの意見を岩のように確かだと誤解してしまう。だから、その意見を容易に変えられない。誰も自分が無知だったとは認めたくないし、信じていたものが蜃気楼だとは思いたくない。

 

日本であれば原子力政策や、夫婦別姓をめぐる議論が対立的になるにはグループシンクが影響しているからかもしれない。なんとも悩ましい話だなあと思う。人間は分業するからこそ賢いし、一方で分業するコミュニティによっては浅はかにもなりうる。

 

「賢い」とはチームへの貢献

本書はこのあと、グループシンクをどう解消するかにも触れていく。そのソリューションは簡単ながらこんな効果があるのか、と目から鱗が落ちるものだった。その中身は本書で確認していただくとして、ここではさらに先の議論、「そもそも賢いとはどういうことなのか」を紹介したい。

 

認知的分業が人間の賢さの理由であり、反対にとんでもない思い込みの原因でもある。これを個人の側から見てみれば、「賢い」とはチーム(集団、社会、コミュニティ)にどう貢献しているかという話になる。つまり、「賢さとは個人の性質ではない」

 知識のコミュニティに生きているという事実を受け入れると、知能を定義しようとする従来の試みが見当違いなものであったことがはっきりする。知能というのは、個人の性質ではない。チームの性質である。難しい数学問題を解ける人はもちろんチームに貢献できるが、グループ内の人間関係を円滑にできる人、あるいは重要な出来事を詳細に記憶できる人も同じように貢献できる。個人を部屋に座らせてテストをしても、知能を測ることはできない。その個人が所属する集団の成果物を評価することでしか、知能は測れない。(p230)

「賢い」とはチームへの「貢献」のことである。知能テストの成績、個人としての知的レベルとは必ずしも一致しない。この認識は子育て論として、あるいはいま大人の人がどう成長していくかについて、意外に大切な前提だと感じた。

 

賢さがチームへの貢献であるとき、「賢くなる」とは「チームにどう貢献できるかを想像すること」と言い換えることができる。もちろん難しい問題を解く頭の回転の速さがある人は、そのスペックを活用したらいい。一方で、雰囲気作りが上手い人はその道を極めた方がいい。頭の回転が早い人の真似をしないほうがチームに貢献できるわけで、つまり賢い。 

 

「チームにどう貢献できるかを想像する」ことは裏を返すと「自分に何が足りないかを知ること」でもある。雰囲気作りの上手い人が頭の回転が早い人を真似してしまうとすれば、それは自分にはできないことをできると思い込んでいるということ。

 

グループシンクはまさに、「自分にはできないことを自覚していない」という「無知」から端を発していた。月並みな言葉になるけれど、「無知の知」。何が知らないかを知ることから、賢さは始まるようだ。

 

今回紹介した本は、こちらです。

知ってるつもり――無知の科学

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  • 作者: スティーブンスローマン,フィリップファーンバック,橘玲,土方奈美
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身近なチームといえば、家庭と会社(働く場)かと思います。このうち会社がどう変わっていくか、あるいはこの時代にどういう会社が生き残れるかを考えるのはとても面白い。「NETFLIXの最強人事戦略」は、その最先端を垣間見ることができると思います。

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「外側」の力を借りることで可能性を発揮する、そのことが鮮明に現れているケースが障害者スポーツかなと思います。小説「伴走者」は、視覚障害者のマラソンとスキーを題材に、助けを借りること、反対に助けることで人がどう変わるのかを教えてくれます。

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