幸福とは「何を見るか」ー読書感想「幸せな選択、不幸な選択」(ポール・ドーランさん)
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授ポール・ドーランさん(行動科学)の知見を総動員し、「人はどうしたら幸せになれるのか」を探求した本が「幸せな選択、不幸な選択 行動科学で最高の人生をデザインする」だ。その要諦は「何を見るか」。ドーランさんは「注意」こそ「幸せの製造装置」だと語る。
精神論ではない。むしろドーランさんはゲームの攻略のように、理路整然と幸せを分析し、最大化するための方策を練る。幸せとは「快楽」と「やりがい」のバランスである。そして人間は幸せよりも「幸せと感じること」に左右される。この「認知」に焦点を当てて、幸せを科学的に考える、「デザインする」のが本書の真骨頂だ。中西真雄美さん訳。早川書房、2015年8月15日初版。
幸せな選択、不幸な選択――行動科学で最高の人生をデザインする
- 作者: ポール・ドーラン,中西真雄美
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/08/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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幸せ=快楽+やりがい
目標を達成するには、目標物を定義する必要がある。幸せになるには、幸せとは何かを考えることがスタートになる。ドーランさんの答えは明快。幸せとは、快楽とやりがいの総合値である。
この考え方を取り入れると、「なぜ人は一見して辛いことにも向かっていくのか」も分かる。それは快楽を捨てる代わりに、やりがいを獲得しているから。快楽とやりがいをトレードオフしているからだ。
(中略)幸福を快楽とやりがいの両方の経験として定義するなら、目的達成を追求するために幸福が犠牲になる状況は、思ったほど多くないかもしれない。だから、やっていてもあまり楽しくないことは、少なくともやりがいを感じていなくてはいけない。一流のアスリートがよい例だろう。彼らは早朝の辛いトレーニングに参加するために、多くの楽しみをあきらめている。これは喜びを先延ばしにしている(遅延満足)とも取れるが、それより彼らはトレーニングからやりがいという満足を経験しているのだと、私は考えている。(p50)
アスリートのトレーニングを、未来の勝利のための犠牲と捉えることもできる。これは「遅延満足」と言われている。しかしドーランさんのように、アスリートはトレーニングの辛さ、あるいはトレーニングによって失われる他の楽しみ(二度寝とかかな)と、トレーニングによって強くなる・勝利へ近づくやりがいがトレードオフしていると考えることもできる。つまり、快楽とやりがいのバランスが替わっているだけで、アスリートは幸福なのだと考えることもできる。
この方程式のポイントは、幸せはいつも「現時点」で計測可能だということだ。ドーランさんはこれを「未来の幸福で現在の不幸を埋め合わせることは本当の意味ではできない」と表現し、厳しく戒める。
(中略)よって、夢を実現することでどれだけ恩恵が得られるかを考えるとともに、そのために何を犠牲にするのかにも目を光らせないといけない。未来の幸福で現在の不幸を埋め合わせることは本当の意味ではできないと、心しておこう。失った幸福は永遠に失われたままなのだ。よって、夢や目標を実現するためにあなたがいま犠牲にしているものは、長期的に見てもそれだけの価値があるのだと確信していなければいけない。(p130-131)
自分はいま、快楽を感じているか。あるいは快楽のない代わりにやりがいを得ているか。快楽とやりがいの比率は絶えずチェックが必要だ。そして快楽もやりがいもないとすれば、それは果たして、本当にやるべきことだろうかを問い直さないといけない。「いつか幸せになれる」と考えることは甘美ではあるけれど、そのために見逃した現在の幸せは永遠に戻らない。
大切なこと・ひとに注意を向ける
幸せは快楽とやりがいの総合値。この方程式を、人間はそのまま採用できないから面白い。「認知」という歪みが入ってしまうのだ。「バイアス」と呼んでもいい。この認知・バイアスこそ、ドーランさんが専門にする行動科学が得意とする領域だ。
たとえば「差異バイアス」。ふたつの選択肢を別々に評価する場合に比べて、同時に評価する場合、つまり「比較」する場合は両者の差が大きいとみなしてしまうことを指す。選択肢の本質よりも、選択そのものの差異にばかり目がいってしまう。
私の友人のキッチンの流しはかなりの見物である。彼女は、かなり高級なホームセンターで何十もの商品を見くらべたあと、美しいクロムめっきの蛇口を購入した。実際にそれを取り付けてみるまで、彼女はそれが自宅の流しには大きすぎることに気づかなかった。このばかでかい蛇口は、彼女にとっては邪魔物でしかなかったが、家族や友人たちには大ウケだった。このように、私たちは誰でも、彼女が滑稽な蛇口を購入したときのような差異バイアスを経験しているものだ。(p146)
「どの蛇口がいいか」ということにばかり目がいき、選んだ最高の蛇口が自宅のキッチンでは大きすぎることには目がいかない。これは人間の認知の歪みの一例。人間は幸せそのものにきちんと注目することが、なかなかできない。むしろ蛇口の差を必要以上に吟味してしまうように、「そのとき幸せに感じられること」に目を向けてしまう。
だから「注意」は幸せに直結する。私たちは幸せに注意を向けることで、ようやく幸せを噛み締められる。自分の注意を、大切なものや、大切な人に向けることが、幸せのシンプルな秘訣だ。
まず間違いなく幸せになれる方法がひとつある。気の合う人と一緒に過ごす時間を増やすことだ。幸せについてアドバイスを求めることができるからだけではない。気の合う人や大事な人と一緒に行動することと幸せのあいだには、強力でポジティブなつながりがあるのだ。宗教を信じる人たちの生活満足度が高いのは、強い宗教的アイデンティティがあるというのもたしかだが、社会的な接触が多いというのがおもな理由のひとつである。(p243)
気の合う人や大切な人に注意を向ける。そこに生じる温かみや優しさにきちんと目を向けて、感じ取る。こんな簡単なことも疎かにしてしまいがちなのが人間の性なのだと、何度も言い聞かせたい。
さっさとフィードバックを
「注意」に加えて本書から学べるもう一つのライフハックが「フィードバック」だ。注意は人間の認知を自覚した上で行使しようということだけれど、フィードバックはさっさと経験してしまうことで認知の歪みに囚われないようにしようというアプローチになる。
ポイントは、様々な決断は幸福、つまり快楽にもやりがいにも思うほど影響はないということだ。だからこそ、選択よりも決断によって経験を獲得することで、手早く未来の選択への学びが得られる。
(中略)もしあなたが、もっと快楽ややりがいを生み出せるように振る舞えれば、その行動に見合った態度を作っていけるだろうし、それによって行動も強化できるだろう。 行動は言葉よりも雄弁である。すでに述べたとおり、自分の意志よりも過去の行動のほうが、未来の行動を選択するうえでよりよい参考になる。
ここで減量したら幸せになれると想像してみよう。第3章で学んだことを覚えているだろうか? あなたが糖尿病にでも罹っているのでなければ、減量したからといって幸せになるとはかぎらない。だが、ここでは減量によってあなたがより幸せになれると仮定しよう。あなたの体重に関して何より目を引く要素は……体重計が示す数字だ。そこで、正確な体重計を買ってきて、週に2度同じ時間に体重計に乗るとする(朝の体重は夕方よりも多少軽いので)。体重計の数字からフィードバックを得れば、あなたは食事(フィード)をいくらか残す(バック)するようになるかもしれない。(p174)
人間はついつい余計なものに注意してしまう生き物だから、ダイエットを始めようとしても「どんな方法で」とか「どれくらいのハードさで」なんかを考えてしまう。そんなことより、さっさと体重計を買ってきて乗った方が早い。体重が具体的にフィードバックされることで、食事を残す(フィードをバックする)という「未来の行動」に速やかに移れるからだ。
決断できることはさっさと決めてしまうというのは、貴重な「注意資源」の節約にもなる。余った注意力をどこに向けるべきか? そう、自分にとって大切な人たちだ。そしてその人たちと互いに、快楽とやりがいを最大化していこう。
今回紹介した本は、こちらです。
幸せな選択、不幸な選択――行動科学で最高の人生をデザインする
- 作者: ポール・ドーラン,中西真雄美
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2015/08/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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行動科学やポジティブ心理学を駆使して、科学的に幸せになるというアプローチは、海外では盛んに探求されているそうです。「ハーバード流幸せになる技術」は、ハーバード大の大家が見つけた知見をわかりやすく紹介してくれています。
自分にとって本当に大切な人たちのことを考えて過ごす。それを実践されている人として、イギリスで羊飼いをするジェイムズ・リーバンクスさんが思い浮かびました。彼のエッセイ「羊飼いの暮らし」は、ちっぽけな自分をより大きな存在へ捧げる、奥深い喜びにあふれています。
善良であることー読書感想「続 横道世之介」(吉田修一さん)
この物語は善良であることがどれほど尊いかを教えてくれる。有能ではなく、優秀でもない。替えがきかないとか、生産性が高いとか、そんなこととも関係ない。善良であること。悪意から距離を置き、善意に溺れることなく、ただただ善良であること。吉田修一さんの「続 横道世之介」は小さくて、でも確かな希望の物語だ。
主人公は横道世之介。長崎県から上京した大学生の世之介は、バブルの売り手市場を逃して就職できず、バイトで食いつなぐ毎日。間違いなく「人生のダメな時期」なのに、世之介はその善良さで、周りの人たちをくすっと笑わせる。「続」とあるけれど、本作から読んでも差し支えはない。世之介にもう一度会える喜びも、世之介に初めて出会う喜びも、等しく貴重だと思う。中央公論新社。2019年2月25日初版。
脱落したときに横を歩いてくれる奴
安定した仕事もない、金もない、もちろん特別な才能もないわけで、生活が良くなる見込みもあんまりない。横道世之介、24歳。明らかに、いいことなんて一つもない。本作は400ページあまり、そんな世之介の1年間が描かれている。なのに、まったく暗くないどころか、淡い光に溢れている。
それは世之介の人柄によるところが大きい。世之介とはどんな人物か。バイト先のバーの店長関さんとの会話に一端が見える。ちなみにバーはこの会話が起きた9月にいきなり閉店してしまい、世之介はバイトさえも失うのだった。世之介は大学時代からの男友達コモロンに人生を見つめ直すアメリカ旅行に誘われて、こんな風に言われたんだと関さんに愚痴る。
「とにかくひどい言い草なんですよ。そのコモロンって友達に言わせると、俺は、マラソン大会とかで、辛くて、いよいよ立ち止まって、レースから脱落したときに横を歩いてくれる奴なんですって。息が整うまで一緒に歩いてもらって、自分の息が整ったら、俺を置いて走っていくんですって。ひどくないですか?」
「でも、『行く』って即答したんだろ?」
「そりゃ、しますよ。だってあごあしまくら付きのアメリカ大名旅行ですよ。海外なんて行ったことないし」
「なんか、分かる気するよ、おまえの友達が言ってること。……確かに人生の谷間におまえみたいなのがいたら、重宝しそうだもんな」(p182)
マラソン大会で脱落したとき、横を歩いてくれる奴。そして息が整ったら、置いていっても大丈夫そうな奴。それが世之介だ。こんな風に言われても平気な顔して、なんならこんなことを言う友達に誘われた海外旅行に全然乗っかってしまうのが、世之介だ。
あるいは、こんなシーンもある。バーとは別に、世之介は海産物の卸売をする零細企業でもバイトをしていた。この会社の社長にいたく気に入られ、正社員にならないかと話をもらう。一方で、既に正社員で、この会社に骨をうずめるほかないベテラン男性の早乙女さんからは邪険にされている。たしかに世之介のような「いい奴」がいたら、ちょっとやりにくいのかもしれない。
結局、正社員への登用話は立ち消えになる。このとき、会社では小銭の盗難騒ぎが起きていた。関係は不明である。早乙女さんの関与ももちろん、分からない。でも、関連している、早乙女さんに妬まれ、仕組まれたと思ってしまうのが人情だ。でも、世之介はそこからがちょっと違う。
もし早乙女さんの仕業なら、これは早乙女さんの悪意になる。
ただ、世之介はとっさにそれを手放した。手放してテーブルに置いた。置いた途端、なぜか、それは誰のものでもなくなったように見えたのだ。
「分かりました。一度でも誘ってもらっただけで、嬉しかったです」
と、世之介は言った。
負け惜しみでもなく嫌味でもなく、素直な気持ちだった。
「まあ、あれだ。横道くんはまだ若いから、これからどうにだってなるよ」
なるほどそうか、と世之介は思う。これは嫌味ではなく素直な気持ちで、なるほどそうかと思う。(p120)
世之介に向けられた(かもしれない)悪意。その悪意を、世之介はとっさに手放す。手放すことができる。悪意を手放しても、ひどい状況に変わりはない。せっかくの正社員の話がなくなってしまったのだ。でも、ここで悪意を握って、それに焚きつけられて怒りを燃やすことをしないのが、世之介だ。
みんな世之介を思い出す
世之介には大きな特徴がある。それは、世之介と関わった人たちは、ふとした時に世之介を思い出すということ。みんな世之介を思い出すのだ。
これは「横道世之介」シリーズの一つの仕掛けにもなっている。物語の途中で「未来」が差し込まれる。未来の世界で、世之介と関わった様々な人たちが描かれる。その中で、みんながみんな世之介を思い出す。世之介と出会えて良かったと振り返る。
「続 横道世之介」では、ある人物がある人物に宛てた手紙が一番秀逸だ。ネタバレにならないように、誰から誰の手紙で、どの場面で出てくるかは差し控えた上で、引用してみたい。
世界中を船で回っていると、本当にこの世界にはいろんな国があります。そしていろんな問題があります。目を覆いたくなるようなこと。悲しみ。痛み。憤り。本当に奇跡でも起こってくれないかと思います。そんなとき、ふと浮かんでくるのが、あの頼りない世之介の顔なんです。
世の中がどんなに理不尽でも、自分がどんなに悔しい思いをしても、やっぱり善良であることを諦めちゃいけない。そう強く思うんです。
この人物は、世之介のことを「善良」と表現する。これがおそろしくぴったりだと思う。世之介は、素直で、ちょっと抜けていて、一緒にいて居心地がいい。でもそんな形容詞よりなお、善良な奴だと言う方がしっくりくる。
善良であることは、この人物の胸に深く刻まれている。世界中の理不尽に接する時、そこからちゃんと独立して、かといって突き放すことなく、善良であった世之介の顔が思い浮かぶ。思い出すのは、思いを馳せるのは、善良な人なんだ。
善良であることは、きっと難しい。それぞれの登場人物が世之介を思い出すのは、世之介ほどの善良さが自分にはないことを感じるからでもあると思う。読者としても思う。「世之介のようには中々いかないよ」と。でも同時に、「ほんのちょっとでも世之介のような人でありたい」と思う。
読み終えたとき、読者の心には世之介が住み着くはずだ。世之介と友達だったことがあるような気がしてくるはずだ。それは善良さの目覚めと言えるかもしれない。それを忘れてはいけない。私たちは心の中の世之介を手放してはいけない。
今回紹介した本は、こちらです。
世之介は主人公でありながら、それぞれの登場人物の人生に思い出を残していくという意味では名脇役とも言えるかもしれません。誰かの人生の脇役になれるということは、実は希望である。それを教えてくれる「フィフティ・ピープル」を思い出しました。なんと50人による群像劇です。
この人がいてくれることで楽になる、と思えるのが世之介。現実世界では、オードリーの若林正恭さんが、そんな支えとなる人物です。社会を斜に構えて見てきた若林さんが「中年」に差し掛かる今、見出した出口。エッセイ「ナナメの夕暮れ」は、人生に苦手意識がある人の肩を優しくほぐしてくれます。
私が私を裁かなくちゃいけないー読書感想「死にがいを求めて生きているの」(朝井リョウさん)
誰も私の価値を決めたりはしない。あるともないとも言わない。だからこそ、私は私を裁かなくちゃいけない。それで、自分を肯定できるのならいい。でもそうじゃない。だからこんなにも、苦しい。朝井リョウさんの長編小説「死にがいを求めて生きているの」は、「絶対評価」の時代の生きづらさを浮き彫りにする。
若者の物語の旗手と言っていい朝井さんが、若者の生きづらさを真正面から考える。その核心にあるのはどうやら「自滅」のようだ。自滅する人、嘲笑する人。しかしその蔑みが、くるりと銃口が回転するように自分にも向かってくる。「何者」で見せた「誰も逃さない」物語の運びが、さらに切れ味を増している。中央公論新社。2019年3月10日初版。
「美しいもの」はどうして生まれた?
舞台は札幌市内の病院。305号室に横たわる若者、南水智也は重度の脳挫傷で植物状態が続いている。都内のマンションで転倒し、打ち所が悪かったのか意識不明に。実家のある札幌市内へ転院してきた。
智也の部屋に、いつも決まった曜日の決まった時間に見舞いに来る男がいる。堀北雄介。大学4年生で、智也の親友だと言う。平日の夜や週末に訪れる智也の親族や、彼女らしき女性を除けば、際立った頻度で病室を訪れている。雄介は担当看護師の白井友里子にこう呟く。
やがて堀北は、友里子から目を逸らしてそう呟いた。小さなころからずっとずっと一緒で、二人でいろんなことを助け合ってきたのに、あの瞬間だけ、助けることができなかったんです。二十年間の中で、あの一瞬だけ、俺はどうすることもできなかったんです。そのことがずっとずっと許せなくて……こいつの人生が止まった瞬間に何もできなかったから、せめて、こいつの人生がもう一度始まる瞬間には、絶対に立ち会いたいって、そう思ったんです。(p18-19)
この美しいワンシーンが描かれるまで、ほんの20ページだ。本書全体は500ページ弱ある。この後に続く長大な物語は、病室で時を過ごす「親友同士」に至るまでの、幼少から青年期までをたどる。「美しいもの」がどうやって生まれたのか、振り返る物語と言ってもいい。
ただ、単なる友情物語には終わらないのが朝井作品。智也はなぜ、植物状態になったのか。雄介とはどう出会い、どういう関係にあったのか。過去から糸を手繰るように二人の歴史を追えば、じわじわと、不穏さが広がり始める。
各章、語り部となる登場人物が入れ替わる。最初は看護師の白井。その後、「前田一洋」「坂本亜矢奈」「安藤与志樹」「弓削晃久」と、智也と雄介に関わる4人の人物にバトンパスし、最終章は「南水智也」になる。本人の言葉で、この「友情」の真相が語られる。
「あの人より劣っている」という内なる声
智也と雄介は20歳。これはいま=平成を生きる若者の物語だ。本書の帯にはこんな惹句がある。「”平成”の若者たちが生きる自滅と祈りの物語」。本書は「生きづらさ」をテーマにして、その根幹に「自滅と祈り」の言葉を据える。
自滅とは何か。物語後半、ある人物の語りが参考になる(誰が誰に語ったかは、物語の楽しみを毀損してはいけないし、伏せて引用する)。
「俺、自分のためにやりたいことも、誰かのためにやりたいことも、何もないんだよ」(中略)
「昔みたいに決められたルールがないと、自分からは何も出てこないんだ。小学校で俺の言いなりだった奴も、中学で俺より頭悪かった奴も、俺より偏差値低い大学行った奴もみんな、ルールが変わった次の世界で俺を抜いていった。●●(※実際は人物名)のバイト先で集まって飲んでた社会貢献人間たちも、次の生きがい見つけて楽しそうに活動してる。もうこうなったら、あいつらとは違うやり方で戦うしかない。同じところに居続けたら、どんどん進んでいくあいつらに笑われ続けるだけだ」(p397)
平成の象徴として、朝井さんは「絶対評価」を取り上げる。相対評価とは違う。誰かと比べて、何かと比べて優劣をつけるのではなく、自分で自分の価値を決める。それは「物差し」を自分で持つということだ。
しかしこの人物は、「自分のため」でも「誰かのため」でも、「やりたいこと」が見つからないという。物差しがないんだと吐露する。だから「同じところに居続けている」。そして、周囲の人物が「どんどん進んでいく」ように感じられて、劣等感を募らせる。
あるいは、別の人物はこう述懐する。
だけど人間は、自分の物差しだけで自分自身を確認できるほど強くない。そもそも物差しだってそれ自体だけでこの世に存在することはできない。ナンバーワンよりオンリーワンは素晴らしい考え方だけれど、それはつまり、これまでは見知らぬ誰かが行なってくれた順位付けを、自分自身で行うということでもある。見知らぬ誰かに「お前は劣っている」と決めつけられる苦痛の代わりに、自ら自分自身に「あの人より劣っている」と言い聞かせる哀しみが続くという意味でもある。(p448)
ナンバーワンよりオンリーワン。でも、それは自分で自分を肯定しなければ、誰も自分を肯定してはくれないということでもある。「お前は劣っている」と評価されるのは辛い。でも、自分を肯定できない絶対評価は、「自分はあの人より劣っている」という声を自分の内側にこだまさせる。
「お前は劣っている」と言われても、反発できる余地はある。そんな物差しから距離を置いて、相対的に自分を認められるかもしれない。でも今は、誰もあなたを断罪しない。点数化しない。その結果、評価者が内在化して、自分で自分を苦しめる。これがきっと、「自滅」なんだ。
あなたの中にも彼がいる
自分で自分を肯定できず、他人と比べては劣等感に「自滅」する。そんな人物がこの物語には登場する。周囲にいれば、いわゆる「痛い」奴と思ってしまうだろう。だって人は自分が思うほど、自分を見てはいない。どうでもいいのに、勝手に自滅するなんて。
それは嘲笑だ。自滅する人を、嘲笑する人がいる。
「なんか俺、時間の無駄だってわかってんのに、定期的に●●の近況チェックしちゃうんですよ。見たらイライラするのわかってるのに、もうイライラするために見てるっていうか」(p349)
嘲笑したくて、無視しておけばいいものを、あえて嘲笑する。この心理はなんだろう。台詞はこう続く。
「(中略)こいつマジで何と戦ってるんだろうって感じなんですけど、なんか、自分は絶対こうはならないって言いきれない気持ち悪さもあるっていうか。自分の中にもいるんですよ、●●が。いつも何かと戦ってるように見せかけて、本当は別のものから逃げ続けてるこの感じ、わかりますもん(p349)」
自分の中にもいる。何かから逃げているだけなのに、何かと戦ってるふりをして、自滅する人物のような「感じ」が。嘲笑するとき、自分は「嘲笑される人」ではないことを確認したいんじゃないか。自分の中にある弱さから目を背けるために、笑い者にしたいんじゃないか。実は嘲笑する人もされる人も、土俵は同じなんだ、本当は。
自滅する人、嘲笑する人は、誰なのか。そして自滅は、智也と雄介の「友情」にどう作用してるんだろうか。そして、もう一つの鍵「祈り」。本書の中に散りばめられているので、ぜひ見つけてみてほしい。
今回紹介した本は、こちらです。
社会が自己に働きかける。それは人格や関係性を歪めもする。「82年生まれ、キム・ジヨン」は、ジェンダーの観点からその力学を物語化しています。女性であるというだけで、強いられるもの、背負わされるものがある。
若者と、その生きづらさや陰影を言葉にした小説といえば、窪美澄さんの「じっと手を見る」を思い出します。田舎町の介護士。最初から終わっているような、出口の見えない恋愛小説ですが、とても引き込まれます。
意味ベースでいこうー読書感想「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(伊藤亜紗さん)
目が見えないということは欠落ではない。見える人にとっての世界と、見えない人にとっての世界は違う。そこに優劣はない。あるのは「意味」の異なり。見える/見えないをビットのあるなしのように「情報」ベースで捉える考え方から、「意味」 ベースに考え方をシフトすることで、様々な「おかしみ」を味わえる。「目の見えない人は世界をどう見ているのか」は、新しい地平を軽やかに開く。
生物学者という夢を持ちながら文転し、美学や身体論を専門にする伊藤亜紗さんの著作。もっとも身近で慣れ親しんだはずの身体が、謎めいて、その分より愛おしく感じられるようになる。語りは平易でポジティブで、誰にとっても読みやすい。光文社新書、2015年4月20日初版。
四本脚の椅子と三本脚の椅子
目の見えない人は世界をどう見ているのか、というタイトルは一見すると矛盾があるようにも思う。目の見えない人には、世界は見えないんじゃないか?そう感じるのは、暗黙の前提があるからだ。人間は世界を「目で」見ている、と。でも、そうじゃない。
伊藤さんは、晴眼者が目を閉じれば、見えない人の世界を体験できるわけではないと語る。見えないということは、「引き算」ではないのだと。
見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み出す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいのです。(p29-30)
「見えない」ということを「見えている」を基準に考えない。見えているを基準に考えると、見えないはとたんに欠如になる。マイナスになる。そこには見えていることを上に見る優劣が生じてしまう。では「見えない」とは何なのか。伊藤さんはこう続ける。
それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。
脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ使い方を変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。(p30-31)
見えないとは、見えるという四本脚から視覚を取ったわけではない。視覚の脚をそもそもなしとして、三本脚で成立している。そこにあるのはただ、バランスの取り方の違いでしかない。
この「世界の捉え方」は多様性を前提とするこれからの社会でとても大切になると思う。自分が四本脚だからって、目の前の人は四本脚と限らない。三本脚のとき、それを「4-1」ではなく「3」とフラットに受け止められる。すると、脚の違いではなくてそれによって生まれるバランスの取り方の違いを語り合い、学び合えるようになる。
「情報的」から「意味的」へ
伊藤さんは「4-1」で見る考え方を「情報的」だと言う。見えない人には「視覚情報」が足りないのであって、それを補うハード・ソフトの支援を考える。この考え方はもちろん福祉の観点から必要だ。情報的な差異を完全に無視しては、大多数の晴眼者にとってばかり便利な社会になりかねない。
しかし、人間関係においては「4」と「3」をマイナス符号で結ばない関わり合いも大事だ。それこそ「意味的」な関わり。脚の数ではなく、バランスの取り方に関心を寄せてみる。それは「うちはうち、よそはよそ」とも言えるという。
手を差し伸べるのではなく、「うちはうち、よそはよそ」の距離感があるからこそ、「面白いねぇ!」という感想も生まれてきます。先に私は「好奇の目を向けること」が大切なのではないかと書きました。差異を尊重する、などと言うと妙に倫理的な響きがありますが、もう一歩踏み込んで、ちょっと不道徳な「好奇の目」くらいのほうが、この「面白いねぇ!」には必要なのではないかと思います(もちろんお互いの同意のもとで)。意味ベースの関わりとは、見えない人を「友達」や「近所の人」として接することです。(p41)
見えると見えないを意味の違いとしてとらえると、そこには「面白いねぇ!」という感情が湧いてくる。晴眼者と障害者という関係性が、友達同士に変質する。伊藤さんはこうして、視覚障害者との語り合い、接し合いを通じて、意味の異なる「見えない人の世界の見方」へ分け入っていく。
面白いのは、「見えない」ということはそれ自体、とても多様だということ。考えてみれば当たり前だけれど、友達に一人として全く同じ友達がいないように、世界の捉え方は一つじゃない。
そう、私たちはつい「見えない人」とひとくくりにしてしまいがちですが、実はその生き方、感覚の使い方は多様なのです。「見えない人は聴覚や触覚がすぐれている」という特別視は、この多様性を覆い隠してしまうことになりかねません。
木下さんは「ぼくはポットの位置なんか分からないよ」と笑いながら言いますし、そもそも感覚なんか研ぎすまさずに「どんどん人に聞く」というのも一つの認識の方法です。こうした多様性を無視して、「見えないということは触覚がすぐれているんですね」という態度で最初から接したら、「すごい」と称賛したつもりが逆に相手にプレッシャーを与えてしまいかねません。(p87)
見えない人にも聴覚を研ぎすます人がいれば、人にどんどん物の位置を聞くというやり方もある。繰り返し心に刻みたいのは、意味の差異に優劣はない。そこにあるのは、根本的なやり方の違いであって、意味に着目する限り湧いてくるのはひたすら「おかしみ」だ。
五感とは器官の名前じゃない
見えない人の「見方」を探求していくと、手で「読む」という行為が現れる。点字を思い浮かべてほしい。それは晴眼者の触るよりも、指先を使って読むという感覚に近い。あるいは、お尻で「透明を感じる」というのもある。車に乗っていて、お尻に感覚を集中する。すると道路の凸凹がわかる。その瞬間、車は「透明」になって、地面を感覚することができる。
すると、五感というものが溶け出してくる。指という触覚は「触る」だけではなく「読む」ことができる。あるいは耳という聴覚は、視覚障害者にとってはぼんやりと空間を把握する、つまり「眺める」ためにも使う。五感とはそれぞれの器官で「だけ」感じられるものではない。
手が「読ん」だり、耳が「眺め」たり、お尻が「透明を感じ」たり……つまり私からの提案は、「何かをするのにどの器官を使ったっていいじゃないか」ということです。大事なのは「使っている器官が何か」ではない。むしろ「それをどのように使っているか」です。
「読む」「眺める」「注目する」といった私たちの能力は、特定の器官の機能なのではなくて、「パターンを認識してその連続に意味を見いだす」「すぐに必要のない情報をキャッチしておく」「特定の対象を選択して知覚する」といった認識のモードないし注意のタイプに対する名前と考えるべきではないでしょうか。(p109)
「眺める」とは「すぐに必要のない情報をキャッチしておく」。晴眼者はその最も使いやすい方法として目(視覚)を使う。でも、それは視覚でしか眺められないことを意味しない。耳で眺めることもできる。もちろん方法によっては手足を、舌を使っても眺められるだろう。五感とは「認識のモード」「注意のタイプ」を遂行するツールでしかない。
こう考えた時、私たちの身体はなんと豊かなんだろうと思い至る。同時に、身体とはその中に秘めた感性や感情を世界と交換するためのツールにすぎないことにも気付く。大切なのは、与えられた身体の機能をうまく引き出して、他者や世界と交わり合うことなんだ。作中、ある視覚障害者が支えにしてきた歌がある。そこに真理がにじんでいるように思う。
耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず(山口王仁三郎)(p110)
今回紹介した本は、こちらです。
「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を読んで真っ先に頭に浮かんだのは、浅生鴨さんの小説「伴走者」でした。視覚障害スポーツを題材にしていて、テーマが通底しています。見えないからこそ、見えるものがある。
優劣ではなく、あるのは意味の違い。それを実感としてつかむには「羊飼いの暮らし」を手に取ってみてもいいかもしれません。イギリスで脈々と続く羊飼いの家系を継いだジェイムズ・リーバンクスさんの手記です。
辺境中の辺境に萌芽があるー読書感想「20億人の未来銀行」(合田真さん)
この人は未来を変えるかもしれない。「20億人の未来銀行 ニッポンの起業家、電気のないアフリカの村で「電子マネー経済圏」を作る」を読んでワクワクした。著者の合田真さんを知れて、その頭の中を覗けて、興奮が収まらない。
合田さんが構想するのは「金利で儲けない銀行」であり「収益をコミュニティに分配する銀行」。それは現在あるマネーの常識からかけ離れている。この人は、どうしてこんなアイデアを思いつくのか?そこには「ものがたりと現実」という世界の見方がある。「現場」にこだわる姿勢がある。そして、舞台がモザンビークの端にある農村という、辺境中の辺境であることに鍵がある。未来の萌芽を目撃できる一冊。日経BP社、2018年6月25日初版。
20億人の未来銀行 ニッポンの起業家、電気のないアフリカの村で「電子マネー経済圏」を作る
- 作者: 合田真
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2018/06/23
- メディア: Kindle版
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資源制約期に「ものがたり」が合わない
合田さんは「日本植物燃料」というバイオ燃料の会社を起業。生産地として、世界最貧国であるモザンビークの、さらに「田舎」にあたるカーボ・デルガド州の農村を拠点にしている。この農村でキオスク(何でも屋)を運営する中で「収益分配型モバイルバンク」という構想を得て、事業化を進めている。
収益分配型モバイルバンクは、金利を設定しないことが特徴だ。一般的に銀行は金利をメリットとして預金者を獲得し、融資の金利を稼ぎにするビジネスモデル。合田さんのモバイルバンクでは、金利で稼ぎも利益還元もしない代わりに、自身の「経済圏」にある商店で電子マネーが決済されるごとに手数料を得る。
さらに、獲得した収益の一部を、預金者ではなく「コミュニティ」に還元する。コミュニティでは分配金をもとにインフラ開発や学校の整備に使う。そんなコミュニティベースの金融機関を合田さんは構想する。
この新しい銀行像は、合田さんの徹底的な問題意識に裏打ちされている。それは、いまのマネーの「ものがたり」では社会は破綻するという、強烈な危機感だ。
「ものがたり」とは合田さんの世界の切り取り方で、非常にユニークだ。世界は「現実」=物理的に存在するモノと「ものがたり」に分けられると合田さんは語る。「ものがたり」は宗教、法律、そしてマネーも含まれる。
私たちはこうした「ものがたり」を、その時代、その時代における当たり前のもの、疑いようのない常識である思い込んでいます。けれども実際には、それらはあくまで「とりあえずそうしたほうが都合がよい」という理由で人々が作り出し、お互いに受け入れているに過ぎません。ということは、これら「ものがたり」は人間が思考の中で自由に変えていくことができるはずです。ここが「現実」との違いです。(p26)
ものがたりは「とりあえずそうしたほうが都合がよい」と人々が合意した強固な思考である。では、いまマネーはどんな「ものがたり」で動いているのか。
それは資本主義、あるいは自由競争だ。頑張れば頑張るほど稼げる。金利があるのも、マネーを効率よく運用すればその分のリターンが得られるのが「当然」だからだ。この「ものがたり」はどんな「現実」に即しているのか。合田さんは「資源拡張期」だと見る。世界が広がり、エネルギーや食糧、生産品が増加する時代に合った「ものがたり」が自由競争だと。
しかし、時代は「資源制約期」になっている。なのにこれまで通り自由競争の「ものがたり」に固執していれば、自ずと崩壊がやってくるというのが合田さんの主張だ。
ところが、資源制約期においても同じように自由競争の「ものがたり」に従っていると、システムは破綻してしまう可能性があります。分配できる資源の総量が減っている中、競争に負けた側から世の中を見ると、今年「1」だったものが来年には「0・5」に、再来年には「0・25」にまで減ってしまい、「この先どうやって生きていけばいいのか」という見え方になってしまうからです。
そうなってくると、競争に負けた側としては、「もはや今の社会体制をひっくり返すしかない」という発想にならざるを得ないでしょう。(p33)
資源拡張期ならば、勝者だけではなく敗者も取り分が増えうる。でも資源制約期では、限られたパイを勝者がひたすら食べることになる。この発想は「なるほど」と思ったし、日本で暮らしている実感とも一致する。多くの人が格差を嘆くのは、上下の下の位置にいる人の取り分がじりじりと減らされているからだ。
世界を「現実」と「ものがたり」に切り分けた上で、「現実」の変化に対して動きの鈍い「ものがたり」を喝破する。合田さんの思考の鋭さはまずここにある。
予想外を歓迎する
資源制約期にふさわしい「ものがたり」としての「収益分配型モバイルバンク」。このアイデアはしかしながら、理路整然と発想したものじゃない。
合田さんの会社は農村でキオスクを運営していた。バイオ燃料で発電した電気を使って、充電した電気ランタンや製氷した氷、冷たい飲料を販売する。それは電気がほぼ通っていない無電化の社会に、電気の「市場」を開拓する取り組みだった。
だんだんとキオスクが繁盛すると、売上金の横領が起こるようになった。この問題を解決するために、電子マネーを導入する。現金は盗めても電子は盗めない。すると、村人が思わぬ行動に出た。電子マネーに全財産をチャージする人が現れたのだ。
電子マネーへの貯蓄。合田さんはこの「予想外」をこう考察する。
考えてみれば、電子マネーによる「貯蓄」というのは、彼らにとっては非常に合理的な行動でした。モザンビークの農民の主な収入は、農作物を売った時に入る現金です。年間の生活費が特定の季節にまとまって入ることになるので、それを保管しておく必要があります。しかし、農村には元金がありません。銀行にお金を預けるためには、電気の通った遠くの街まで、何時間もかけて行かなければならないのです。というよりも、多くの人にとっては、そもそも銀行という概念自体がないのです。(p86-87)
農村には貯蓄のニーズはあったものの、銀行の概念がなかった。そこにやってきた電子マネーに銀行としての機能を見出した。予想外ではあるけれど、合理的に説明できる。
ここから「電気のない村に銀行のニーズがある」と気付きが生まれて、モバイルバンクのアイデアが育っていく。予想外を歓迎するからこそ、面白いアイデアを掴めるということだろう。
辺境to辺境
収益分配型モバイルバンクの面白さは、辺境で生まれ、別の辺境に展開が可能である。ここに最大の面白さがある。辺境から中心へ、ではなく、辺境から辺境へ、なのだ。
表題の20億人とは、まさにモザンビークの農村のような辺境にあたる地域の人々を指す。もしもモバイルバンクが確立できれば、同じニーズを抱える世界中の地域へ「輸出」ができるかもしれない。
実際に、先例がある。ベトナム資本の「モビテル」という携帯電話会社は、モザンビークやタンザニア、カメルーン、ブルンジといったアフリカ各国で支持を得ている。経済的に決して豊かではない国でも回せる事業のコスト構造を確立することで、同様の国での横展開を実現している。
ビジネスチャンスという観点だけではなく、合田さんの問題意識・哲学の観点からも、辺境を拠点にすることは大きい。辺境に、持続可能なコミュニティを目指すというビジョンが合田さんにはある。
域外とのトレーディングというのは、本来は、生きるための最低ラインを超えた余剰分をお互いに持ち寄り、より欲しいものと交換しましょうというのが理想ではないでしょうか。現代金融はそもそもグローバルエクスチェンジ=世界で価値を交換し合うことありきで始まっていますが、そうではなく、もうちょっと自分たちの足元を見直して、足元でしっかり育てるべきもの、守るべきものはちゃんと育て、守れるよう、再構築していきたいのです。(p183)
資源拡張期に合わせた「ものがたり」である現代のマネーは、富めるものをさらに富めるような機能をグローバルに展開する。しかしトレーディングの本質は、あくまで余剰の交換ではなかったか。その原点に立ち返るとき、必要なものはコミュニティで育て守る、そのために必要なマネーという健全な「ものがたり」 が見えてくる。
この「ものがたり」は、モザンビークよりはるかに都市化した日本にいても、憧れを持って見てしまう。いつか、モザンビークのマネーに学ぶ日が来ることを、その先頭に合田さんがいることを想像せずにはいられない。
今回紹介した本は、こちらです。
20億人の未来銀行 ニッポンの起業家、電気のないアフリカの村で「電子マネー経済圏」を作る
- 作者: 合田真
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2018/06/23
- メディア: Kindle版
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アフリカを舞台にした起業家の物語といえば、ジョナサン・スターさんの「ソマリランドからアメリカを超える」が面白かったです。郷に行っては郷に従えではなく、郷なんて変えてやるぜ、というパワフルな男性のストーリー。
未来の種は思わぬところにある。それはアフリカという空間的に遠い場所だけじゃなくて、時間的に遠い過去の社会にもある。ジャレド・ダイアモンドさんの「昨日までの世界」は、一見すると「未開」に思えてしまう社会に人類の叡智があることを思い起こさせてくれます。
分からないのは豊かなことー読書感想「考えるとはどういうことか」(梶谷真司さん)
「分からない」のは恥ずかしいことじゃない、むしろ豊かなことだ。「問い」を多く持ち、さらに問い続けることこそ、人を自由にする。哲学者・梶谷真司さんは「考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門」で、こう伝えてくれている。
本書のテーマは「哲学対話」。5〜20人ほどで輪になり、様々な問い掛けと応答を繰り返す一種のワークショップだ。その魅力を語るにあたり、そもそも哲学とは何か?を読者と一緒に考える。それが実にエキサイティング。「考える」と「解く」は違うこと。思う以上に考えても、聞いてもいないこと。そして、「問う」「対話する」ことで拓けてくる「感覚としての自由」。普段の帰り道からちょっと脇に逸れた、素敵な裏路地を見つけたような喜びを得られる本。幻冬舎新書。2018年9月30日初版。
考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)
- 作者: 梶谷真司
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2018/09/27
- メディア: 新書
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実際には言わされ、考えさせられている
哲学の面白さは、「当たり前」を崩してくれることだなあと本書を読んで思う。まるでスプーン曲げのように、ちょっとした仕掛けで当たり前が転回してしまう瞬間を、「考えるプロ」の哲学者は見せてくれる。
梶谷さんは「哲学対話」に8つのルールを設定している。その第一は「何を言ってもいい」。そんなの当たり前じゃないかと思うが、梶谷さんは「生きていく中で『何を言ってもいい』場はまったくといって存在しない」と指摘する。
会社の上司から会議で「何でもいいから意見を言え」と振られたらどうだろう。「何でもいいから」と言われながらも、実際は会議の流れ、自分の立場、上司の性質を全て忖度した上で「その場にふさわしいこと」を言うだろう。何でもいいと言われても、なんでもよくないのである。
梶谷さんはこうした姿勢を教育しているのが学校だと喝破する。
自由に考えるためには「何を言ってもいい」ということが必要なのだが、この原則からすると、学校は正反対の場所である。そもそも学校では言うべきことが決まっている。それは「正しいこと」「よいこと」「先生の意に沿うこと」である(正確に言えば、「正しいとされること」「よいとされていること」「先生の意に沿うとされていること」である)。
それ以外は言ってはいけない。間違ったことを言えば「違う」と否定され、悪いことを言えば「そんなことを言ってはいけない」と諭され、先生の意に沿わないことを言えば怒られるか嫌われる。そうやって言っていいことと悪いことの線引きがなされている。(p52)
「正しいこと」「よいこと」「上位者の意に沿うこと」を意識しながら、「何でも言っている」のである。たしかに、これらを意識せずに話すことはほとんどない気がする。自由に話しているようで、実際は制約を気にしない範囲で話しているにすぎない。
これはそもそも「考えること」にも言える。学校で勉強することには正解があり、それに沿うように問題を問いていく。これは「考える」ではなく「考えさせられている」んだと、梶谷さんは言う。
このような問いは、決められた手続きが分かっていれば、答えにたどり着くことができるが、それが分からなければ、答えは出ない。正解以外は答えではなく、自分の思うように考えて自分なりの答えを出すことは許されていない。それを解くプロセスを「考える」と呼び、「考えて解け!」と言われる。
だが、教科書に出てくる問いを見て、「これこそ私が考えたかったことだ!」と思う人は、おそらくただの一人もいないだろう。そのように押しつけられた、興味もない問いを「解く」ことは、考えることではない。考えさせられているだけで、強いられた受け身の姿勢を身につけるだけである。(p118)
「言う」ことが「言わされる」ことに、「考える」ことが「考えさせられている」ことに、実際はなっている。それはこの社会を生き延びる上では必須な処世術だと思う。だからこそ、そこからもっと自由に、本当の意味で自由に考え、言う場としての哲学対話の価値が見えてくる。
聞くとは言語的ではなく存在的なもの
もう一つ、「聞く」という当たり前も深掘りしていく。誰もが聞いている(聴覚的な意味に限らない。聴覚障害者の方も、手話や筆記を通じて聞いているだろう)。聞くことに特別な何かはいらないように思うが、そうではない。
梶谷さんはまず、「聞く」と「理解する」を切り分けた方がいいと語る。たとえば、「思いやりがある人」は聞くときについ「分かる分かる」と言ってしまう。でも、その「分かる」が語り手の「言いたいこと」と重ならない押しつけになる恐れがある。すると語り手は「そうじゃないんだけど」と思いつつ、沈黙してしまう。
(中略)相手を理解するということが先に立つと以外に聞けず、理解できなければ、意識的か否かにかかわらず、拒絶ないし無視することにつながりやすい。だから「聞く」ことを、理解することから切り離したほうがいい。(p169)
「聞く」と「理解する」をセットにする限り、「理解できない」ことは「聞かない」になってしまう。それは「何でも言っていい」の裏に張り巡らされた制約と同じ構造だ。
では「聞く」とはなんだろう。梶谷さんは「場を共有すること」とまとめる。「その人のためにその場にいて、その人の存在をそのまま受け止めること」(p172)だと。
赤ちゃんと親の関係を想像してみる。赤ちゃんは言葉を発せられない。「アーアー」とか、あるいは泣くことで、親に何かを伝え、親はそのメッセージを受け止める。このとき親は赤ちゃんの意思を正確に理解することはできないが、それでもその場にとどまり、赤ちゃんが望むことをなんとか導こうとする。
このような対話的関係は、どの時点から互いに言葉を介した「話す」ー「聞く」という関係になると見なせるのか、境界をはっきりさせるのは難しいだろう。むしろ「話す」ー「聞く」というのを意味の表出と受容として理解するなら、それは言語の習得以前から、人と人との関係であれば、つねに何らかの形で起きていると考えられる。(p173)
「聞く」とは「言語的」ではなく「存在的」な営みだ。だからこそ、言語的なメッセージの要約に終始するべきではないし、その「場」で相手から発せられる意味を、理解のいかんにかかわらず「受容」する姿勢が大切になる。
自由を「感じてみる」
「考える」「言う」「聞く」が、本書のページをめくることで刷新されていく。その先にあるのは「自由」だ。これもまた、面白い。
梶谷さんは自由に様々な形があることをまず確認する。例えば憲法に書かれるような自由がある。身体拘束からの自由。思想や良心の自由。つまり「制度的な自由」。あるいは「選択の自由」もある。お金を持っていることも、この自由に属するだろう。哲学者が対象にする「根源的自由」というのもある。「人間に本当の意味で自由意志はあるのか?環境によって規定されているのではないか」という「運命論」がそれだ。
「哲学対話」、あるいは「考えること」と結びつく自由は、このいずれでもない。それは「感じる自由」だ。
私たちが現実を生きていくうえでもっとも切実なのは、 社会的な条件や物理的な条件が同じであっても、自由だと感じる時と感じない時がある、ということだ。つまり自由の感覚である。(p89)
考えることは直接的に制度的自由を実現するわけでも、選択の自由を生み出すわけでもない。むしろ「考えても状況は変わらない」ということの方が多いだろう。その意味で、やっぱり人間には根源的自由がないんじゃないかとすら思ってしまう。
でも、考えることで自由を「感じる」ことはできる。誰かと語り合う、新しい視点に触れる。問題が整理される。その瞬間、自分を縛っていた「悩み」が緩まる感覚が得られる。その瞬間、感覚的には間違いなく自由だ。
だからこそ、梶谷さんは「考える」ための「問い」を多く持つほど、自由を感じられるんだと言う。特に他者と共に「問う」ことは、実に豊かなんだと。
しかし分からなくなるというのは、すでに書いたように、問いが増える、考えることが増えることなので、より哲学的になれるということである。要するに、対話では分からなくなるは、むしろ素晴らしいことなのだ。
対話とは、共に問い、考え、語り、聞くことであり、どこかにある結論や答えにたどり着いて終わるのではない。最初から行き先も通る道も決まらないまま、他者へと、世界へと自らを開いていくのである。(p77)
問いに始まりも、終わりもない。行き先や通る道は決まっていない。それは限りなく、開かれている。
現実は厳しいことばかりだ。決まった正解とは程遠い仕事しかできない。普通でいたくてもつい脱落してしまう。でも私たちは考えている間は、間違いなく開かれた世界へ向かっていける。その時に感じる風の音を、自由と呼ぶ。
今回紹介した本は、こちらです。
考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門 (幻冬舎新書)
- 作者: 梶谷真司
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2018/09/27
- メディア: 新書
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考えることは行き先も通り道も決まっていないと聞いて、思い出したのは若林恵さんの「さよらな未来」でした。本当の未来とは、散歩。何も分からない先へ、それでも向かっていく勇気を言う。
自由を考えることで、普段、いかに自由じゃないかが浮き彫りになります。日本て息苦しい。そう思いつめたら、遠く遠くの部族社会を思い浮かべてみませんか。「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」は、日本社会の常識を軽やかにまたぐきっかけになります。
アフター2020をどう生きるー読書感想「東京の子」(藤井太洋さん)
小説「東京の子」はアフター2020をどう生きるか、を読者に問い掛ける。五輪は終わった。どうにも使いきれないレガシーが残った。すっかり東京は「国際都市」へ変貌した。足元の雇用は溶け出していく中で、理想なのかどうか判別できないビジョンが立ち上がっていく。そんな世界が舞台だ。
藤井太洋さんの最新作(2019年2月時点)。「東京の子」は五輪後の世界に生じるであろう複雑さを直視するけれど、決して悲観に終わらない。藤井作品の代名詞である、既存システムをハックする軽やかな主人公がいるからだ。本作の主人公の武器は「パルクール」。五輪競技ではない、「街を駆け抜ける技術」を駆使して、問題を飛び越えていく。角川書店、2019年2月8日初版。
宴のあとの東京
舞台は2023年、東京。物語の始まりは新大久保のベトナム料理店「724」で、ここに日本人はたった2人しかいない。現実世界でも成立した「出入国管理及び難民認定法」で、東京で働く外国人労働者は爆発的に増加した。724で店員をしつつ、失踪しかけた外国人を連れ戻す「何でも屋」を生業にする主人公・仮部諌牟(かりべ・いさむ)は、店内の様子を「オリンピック後の東京を象徴する眺めだ」(p5)と語る。
そのオリンピック・パラリンピック。果たしてどうだったのか。
湾岸エリアを中心に整備されたスポーツ競技場は、あの祭りを終えて三年が経ったいま、解体と復旧工事のために税金を食い尽くす負の遺産(レガシー)と成り果てていた。開会までとは異なり、締め切りがなくなった工事はだらだらと遅れ、現時点での復旧見積もりは四兆円を超えて、東京オリンピック・パラリンピックの開催費用は十兆円を超えた。
この資金を少しでも回収するために、国と都が打ち出したのが民間への払い下げだった。五輪を沸かせた会場のほとんどは、ショッピングモールや大型の倉庫、タワーマンション、介護施設、そして大学へと姿を変えているところだ。(p5)
日本に夢を与えるはずだった祭典が残したものが負の遺産で、それも民間に払い下げられて東京のありふれた景色の一部であるマンションや倉庫になるとは。呆れる気持ちもあるし、一方で「さもありなん」とも思えてしまう。
この民間払い下げの一つに、「東京デュアル」という新型の「大学兼職業訓練学校」がある。デュアル内の724で働いているベトナム人女性ファム・チ=リンが、このところ姿が見えない。仮部に依頼が舞い込み、デュアル内に入り込んでいくことで物語が回転し始める。ファムは、デュアルで「人身売買」が行われていると告発しようとしていたのだ。
人身売買。奴隷制があった時代や、途上国から先進国への斡旋を思わせる言葉が、五輪後にも語られる。ここに問題の本質が垣間見える。2020を終えて、東京の雇用はすっかり形を変えた。再び、新大久保の724を見てみる。午前0時をまたぐような時間に、724を訪れる客は二種類に分かれる。
片方は、三百八十円のフォーに無料のモヤシとパクチーを盛り上げ三百五十円のビールを頼むかどうかを真剣に悩む社員3・0。会社員という仕事を請け負う個人事業主だ。命じられた時間はオフィスに張り付いて、正社員たちが帰った後は街をうろついて仕事をしている彼らが企業と結ぶ請負契約には、残業という概念がない。
もう一つの集団は、自らを「ザイ」と呼ぶ高度人材たちだ。そこそこの年収を得られる彼らは金遣いが荒く、”定時”を持たないのでどれだけ働いても残業になることはない。(p214)
かたや「社員3.0」。会社員としての仕事を個人請負、フリーランスとして受注する新形態だ。もう一方は高度プロフェッショナル人材の「ザイ」。待遇の違いはあれど、2019時点の働き方改革で目指した、ゆとりのある働き方はできていなそうだ。むしろ、企業活動に最適化されているだけでしかない。
五輪という派手な夢のあとに待っていたのは、こんな世界。仮部はファムのいう「人身売買」の中身に耳を傾けて、首を突っ込むことになる。
軽やかに超えていく
藤井さんの小説は、いつだって主人公が軽やかだ。「オービタル・クラウド」では地球規模の危機にエンジニアたちが国境を越えて繋がりあった。「ハロー・ワールド」でも主人公は一介の会社員ながら、正義と不正義の境界に立たされてもちゃんと踏みとどまり、抜け道を探す。
「東京の子」の仮部は、エンジニアではない(今回は仮部の相棒的な友達として雲野背文というハッカーが出てくる)。仮部はある理由で戸籍を買い、「背乗り」して生きているけれど、幼少の頃は天才パルクール・パフォーマーとして世界中に名を轟かせた。パルクール。これが仮部の武器だ。
パルクールとは、障害物のある場所を軽やかに移動していく身体動作のことを指し、フランスの軍事訓練から発展したという。腕や脚を巧みに動かし、障害物をかわしながら前進しているのにまるでまっすぐ走っているかのような錯覚さえ与える。仮部はパフォーマーとしてのキャリアをいったん終えた後も鍛錬を怠らず、いまも「ミリ単位」で自分の体を操作できる。
たとえば、東京デュアルの校舎内で、エスカレーターを走って逃げる水谷という男性を追いかけるシーン。
ワンフロア下で水谷に追いつくための動作は十五通りほどあり、気がついたときには、仮部はその中の一つを選びとって、スピードを緩めずに最上段から飛び出していた。
両脚を揃えて一回目の着地に備えながら、通り過ぎる段数を数えていく。六、七、八ーー着地は十二段目だ。右隣のエスカレーターを駆け下りる水谷の背中に届きそうだが、エスカレーターに飛び乗っていると間に合わない。
もう一度ジャンプだ。(p112-113)
大跳躍をしながら、冷静にターゲットとの距離を計算し、さらに連続ジャンプに踏み切る。やってみようとすれば、普通はできっこないのがよくわかる。階段を十二段飛ばして無事着地できるかも危うい。
主人公が持ち合わせているものが、知力でも武力でもなく移動力だというのが面白い。そしてこれまた象徴的な気がしてくる。複雑化する問題を、飛び越えてしまうという発送。実際、仮部の軽やかさが、袋小路に迷いそうなファムや周囲をうまく導いてくれる。
「東京の子」は、そんな軽やかさをまとった物語だ。現実はそう容易に変わらない。でも、困難さを伴いながら、走り続けることはできる。
今回紹介した本は、こちらです。
藤井さんの作品世界の入り口としては、前作の「ハロー・ワールド」がぴったりなんじゃないかと思います。エンジニアで会社員の主人公は、大きすぎる課題にもうまく、それなりに対応していく。よりSF感もある連作短編集です。
もしも理想的な社会が構築されたら、仮部たちが駆け回るような課題は消え失せるんだろうか。ディストピア小説「ユートロニカのこちら側」を読むと、そうでもない気がします。犯罪の事前取り締まりが可能になり、完全なる平和を作り上げた都市の話。
短くて痛くて美しい物語ー読書感想「ビューティフル・デイ」(ジョナサン・エイムズさん)
ほんの100ページなのに濃厚な読書体験ができる。ノワール、いやバイオレンスに近い痛々しい世界なのに、綴られる言葉はほのかに詩的で、どこまでも美しい。作家でありテレビ脚本家でもあるジョナサン・エイムズさんの短編「ビューティフル・デイ」は不思議で圧倒的な力があった。濃いドリップコーヒーのような一冊。唐木田みゆきさん訳。ハヤカワ文庫。2018年5月25日初版。
無駄のない言葉、粒のつまった言葉
主人公ジョーは元海兵隊員。卓越した戦闘技術、密行技術で、いまは売春を強要されている少女・女性の救出を請け負うフリーランサーとして生きている。今回の依頼主は上院議員。家出後、ニューヨークの娼館に売り飛ばされた13歳の娘を助け出してほしい。ジョーには造作もない仕事のはずが、思わぬ「陰謀」に巻き込まれる。
原題は「You Were Never Really Here」。おまえはもともといなかったんだよ、という言葉はジョーが自殺を試みた時に頭に響いた声だった。それは父親から受けた凄惨な虐待の影響だとみられる。しかし、自分なんてもともといなかったと思うほどの捨てばちさが、ジョーを危険の中でもクリアにする。
エイムズさんは無駄のない言葉で物語を運ぶ。例えば書き出しはこうだ。
背後に何かを感じた。生き物の気配と殺気。ジョーはその嗅覚、その勘によって辛くも体をかわし、肩で棍棒を受け止めたので、後頭部を殴られずにすんだ。
しかも、食らったのは左肩だがジョーは右利きだったので、二度目に棍棒が振りおろされる前にしっかり後ろを向いて襲撃者の手首をつかみ、顔を合わせて同じ背丈と見るやレンガ並みの額を鼻柱に打ちつけ、相手が激痛で何も見えずに倒れかかるところを容赦ない膝蹴りで顎を砕いた。(p5)
開始一秒で何者かに襲撃され、瞬く間に相手を撃沈する。書き込まれていなくても、ここが暴力が当たり前の世界で、周囲に人のいない薄暗い路地のような場所にいることが想像できる。無駄がないのに、言葉の粒がつまっている。
詩のにおい
一方で言葉の端に詩のにおいがふっと香ることがある。それが物語を美しくする。父親の虐待をジョーが振り返るシーン。
トーテム像が彫られるように、自意識が父の殴打によって作られたことをジョーは理解していなかった。ジョーは父の残酷な性癖から生き延びる唯一の方法は、悪いのは自分で、殴られるのは当然だと思いこむことだった。その信条はいまだにジョーに取り付き、けっして離れない。要するに、父がはじめた仕事が完成するのをジョーは五十年近く待っていた。(p22)
あるいは、ある出来事をトラウマに海兵隊を辞したジョーが、いまのフリーランスの仕事をやり始める経緯に想いを馳せたときもそうだ。
したがって復帰はスムーズで、ジョーは仕事に関することで疑問を持つのはもうやめた。いまでは公平な立場が保たれた競技場として仕事をとらえている。全員に責任がありーー道義を中心線にしたどちらの側にもだーージョーは有能だった。なぜ振りおろされるのか、金槌は尋ねたりしない。(p39)
父親の虐待が中年になったジョーに深く刻まれている様を、トーテム像にたとえる。その痛みがどれほど強固で、どれほど長い時間残るかを示しつつ、ジョーのタフさ、気高さを示してもいる。
あるいは、ジョーが海兵隊と同じような仕事を、今度は疑問を持たずに行えるようになったことを、「道義を中心線にして、どちら側にも責任がある競技場」と言ってみる。売春を強要する側も、それを私的な暴力を持って粉砕する側も、中心線からは同じくらいの距離にいる。そこはイーブンであって、だからこそ、ジョーが振りおろす武器の金槌は何も語りはしない。
だから「ビューティフル・デイ」の世界は美しい。何も美しいことは起こらないけれど、美しい。それが実に不思議な犯罪小説だった。
今回紹介した本は、こちらです。
悲しくてつらいんだけど、美しさが垣間見える作品で思い出すのは、窪美澄さんの「じっと手を見る」です。恋愛小説なんだけれど、どこか「終わり」が見えてしまう。主人公の仕事が介護施設というのにもリンクして閉塞感が漂うけれど、かけらのような希望が見えたりもします。
ジョーが動き回る世界はリアルに存在するようで、そのアンダーグラウンドぶりがよく理解できるノンフィクションが「社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた」です。売春や薬物の犯罪が、アンダークラスとアッパークラスの不思議な「共謀」で行われていることがよくわかります。
幸せは成功に先行するー読書感想「ハーバード流 幸せになる技術」(悠木そのまさん)
成功するから幸せになるわけではない。むしろ、幸せは成功に先行する。いますぐに、具体的に幸せになることは可能で、そんなポジティブな状態こそ成功を呼び込むことさえある。ワークスタイルデザイナー悠木そのまさんが、ポジティブ心理学や脳科学の大家からエッセンスを集約してくれた「ハーバード流 幸せになる技術」が伝えているメッセージは、ものすごく実用的で希望に溢れている。
成功は単純じゃなく「万華鏡戦略」が求められる。幸せは劇的さよりも回数によって喚起されるから、日常の「ちょっとしたこと」を存分に噛みしめる。モノよりも経験や関係性に注目すると、幸せを何度も反芻できる。本書には一つの精神論もなく、ひたすら技術的に幸せの獲得を目指す。PHPビジネス新書、2015年7月6日初版。
「万華鏡戦略」は幸せだからできる
幸せは成功に先行する。あるいは、幸せは成功に依存しない。本書のメッセージの根幹はこれだ。成功すれば幸せになれるという「神話」は実際のところ「罠」である。だからこそ、もっと科学的に、ロジカルに幸せを求めていく必要がある。
ハーバード流というのは伊達じゃない。ハーバード大には「サイエンス・オブ・ハピネス」という幸せを学問的に研究する分野の専門家が揃っている。ダニエル・ギルバードさんやタル・ベンシャハーさん。あるいはハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・M・クリステンセンさんも成功と幸せの関係性を探求している。悠木さんはこの専門家の知見をコンパクトにまとめてくれている。
幸せは成功に先行するというのは、幸せの側と成功の側と双方の視点から語り直すことができる。幸せの側からすれば「成功にかかわらず幸せになる方法はある」。成功の側からすれば「むしろ幸せだから成功できる」ということだ。
このうち後者をよく理解することが、身近な幸せに目を向ける前提になると思う。成功とは一体なんなのか。本書に溢れる要素のうち「万華鏡戦略」を取り上げる。
ハーバード・ビジネス・スクール教授のハワード・スティーブンソンさんは「成功には四つの必須要素がある」と語っているそうだ(p146)。
- 幸福感=人生についての悦楽感と満足感
- 達成感=活動領域での見優りする業績
- 存在意義の実感=身近な人にポジティブな影響をもたらしているという感覚
- 継承=誰かの将来の成功につながる価値や業績の確立
もしも「成功すれば幸せになる」と誤解した場合、このうち「達成感」や「幸福感」に偏った努力をしてしまうだろう。ひたすら業績を追い求め、それを得ることで優越感に浸る。しかし、そうなると「存在意義の実感」がおろそかになる可能性がある。同僚や、あるいは家族をないがしろにしたり、場合によっては蹴落とすことさえあるかもしれない。そして4番目の「継承」なんて、考えもしないだろう。
だからこそ4要素のバランスをあらかじめ勘案し、目標を上手に組み合わせる「万華鏡戦略」が大切になると、悠木さんは指摘する。
スティーブンソンらは、成功者たちはそのようなパラドックスを直観的に見抜いていて、葛藤のある目標も順序よく切り替え、全体のバランスをとっていることを明らかにしました。スティーブンソンは、成功者たちのこの能力を「切り替えと関連づけ(switching and linking)」と呼んでいます。
目標を切り替えるタイミングは「ジャスト・イナフ(ちょうどよい)」を判断基準とし、それぞれの引き際を計るよう奨めています。万華鏡戦略によって成功の全体像を把握していれば、ジャスト・イナフがいつなのかがわかるとのことです。(p147-148)
目標を「ジャスト・イナフ」なタイミングで切り替える。ある時は幸福感を追い、ある時は切り替えて継承に重点を置く。こんなことが可能なのは、目標意識がはっきりとして、かつバランスが取れているからだ。それは言い換えれば、「満たされている」からではないか。過度に幸せを追う必要がないからこそ、幸福感以外の成功要素にもちゃんと目が向く。
幸せであれば冷静に「万華鏡戦略」を遂行できる。だから私たちは成功するより「まず」幸せになる方がいい。
幸せは「ちょっとしたこと」が大切
悠木さんは幸せになる方法を「お金の技術」「キャリアの技術」「目標の技術」「行動習慣の技術」というカテゴリーに分けて、それぞれの観点から平易に説いてくれる。万華鏡戦略は後半の「目標の技術」の中で登場する。
これらのうち一番身近なのは「行動習慣の技術」だと思う。中でもハーバード大心理学部教授ダニエル・ギルバートさんの「幸せとは無数の『ちょっとしたこと』の積み重ね」という金言は、覚えた瞬間から幸せになれると言っていいくらいの威力がある。
これはエド・ディーナーさんらが発見した「ポジティブな経験の強烈さよりも回数のほうが幸せの予測因子としての影響が大きい」という調査結果をもとにしている。
つまり「映画スターとのデート」「ピューリッツァー賞の受賞」「ヨットを買う」といった強烈な体験のほうが幸せをもたらすように思われますが、実際には「ラクな靴を履く」「パートナーに盛大なキスをする」「フライドポテトをつまみ食いする」といった「ちょっとしたことの積み重ね」のほうが、人を幸せにするというのです。(p181)
幸せは強烈さよりも回数に起因する。1回映画スターとデートするより、週1回フライドポテトをつまみ食いする方が、幸せになれる可能性が高い。
これは「快楽順応」というメカニズムからも合理的だそうだ。人間は生き延びるために厳しい環境へも適応する能力が備わっている。この「順応」は幸福な環境にも同様に働いてしまうので、どんな快楽でもだんだんと「鈍って」しまう。だとすれば、幸せなことはいくつもあった方がいい。
あるいはハーバード卒でカリフォルニア大教授のソニア・リュボミアスキーさんが一卵性双生児や二卵性双生児を対象にした研究で明らかになった、「幸せを決定する要因のうち、遺伝的な設定値は50%を占め、環境は10%、残り40%は意図的な行動に左右される」(p157)というデータからも、ちょっとした幸せの大切さは理解できる。幸福感は行動でなんとかなる部分がある。だとすれば、日々ちょっとした幸せを感じられる行動を多く持っておくことは得策だ。
幸せをリサイクルする
「お金の技術」で紹介されている「倹約」も目からウロコのスキルだった。再びリュボミアスキーさんは「経済的な困難は生活の多くに有害な影響をもたらすが、幸せに与える影響は比較的小さい」(p56)と説く。なので、お金を使わずに幸せを引き出す「倹約」が可能だという。
倹約には4つの方法があり、中でも「リサイクルやリースによって最大の満足を得る」というのが面白い。
彼女は、詩人のアレン・ギンズバーグの「敷物を2倍意識すれば、2倍所有したことになる」という言葉を引用して、すでに持っているものにもっと心を配ったり、感謝をしたりすることで、幸せはリサイクルできると述べています。(p58)
幸せはリサイクルできる。「敷物を2倍意識すれば、2倍所有したことになる」という言葉の通り、モノとの関係性を見直し、より深く経験することで、新しい幸せを得ることが可能になる。
幸せのリサイクルが際立つのは「経験」だ。悠木さんはハーバード・ビジネス・スクールのマイケル・I・ノートンさんの知見を引く。
さらにノートンらは、経験を買うことで「ノスタルジアの力」を享受できることも指摘しています。ノスタルジアとは「感傷的に過去を恋い焦がれる気持ち」です。社会学者のフレッド・デーヴィスは、ノスタルジアは「過去の幸せと達成を思い出させ、人を安心させる」うえ、「自分が価値ある人間だという自信を与えてくれる」と述べています。(p66)
経験は「ノスタルジアの力」をくれる。なんだか悲しい響きもあるけれど、実際は経験を反芻することで過去からパワーを受け取るポジティブなメソッドだ。
ノートンさんは何度も思い出せる幸せな経験を「経験の履歴」とも呼んでいる。経験の履歴は何年後でも何十年後でも、幸せな気持ちを呼び覚ます。先に映画スターのデートよりもポテトフライのつまみ食いだと言ったけれど、スターとのデートは一生物の経験の履歴となって、その後の人生で何度も幸せを感じられる可能性はある。
成功が幸せに対して価値を持つとすれば、まさしく経験の履歴としてだ。ただおそらく、失敗も「笑い話」にできるならば、貴重な経験の履歴になりうる。結局、上手くいってもいかなくても、人生の一ページにすぎないんだろう。そのくらいの気持ちで十分だ。
今回紹介した本は、こちらです。
幸せも具体的/科学的に考えれば、こんなにも実践可能なものになる。きちんと見れば悲観でも楽観でもない、可能主義に至れるという「ファクトフルネス」のメッセージを思い出します。
ちょっとしたことを大切にして、余すことなく味わっている人たち。誰かなあと考えると、「パリのすてきなおじさん」に登場するおじさんたちがそうじゃないか、と思いました。普通で、でも非凡なおじさんたち。
読んだら戻れない進むだけー読書感想「82年生まれ、キム・ジヨン」(チョ・ナムジュさん)
男性はこの本を開いたらもう戻れない。女性というジェンダーであるだけで、人生がどれほどハードモードになるかを、確実に知ってしまう。もう知らないふりはできない。「82年生まれ、キム・ジヨン」という物語はそれぐらいに、生々しい痛みを読者に届けてくれる。
著者は1978年生まれのチョ・ナムジュさんで、放送作家として活躍されている。舞台は韓国でありながら、その男性優位の状況は日本も遜色がない。女性がいかに多くのものを背負わされているか。いかに多くのものを失わされているか。男性の自分は目を背けたくなるくらいだ。だからこそ読まねばならないんだろう。帯に寄せられた松田青子さんの推薦文が反響する。「女性たちの絶望が詰まったこの本は、未来に向かうための希望の書」。戻れないからには、進むしかないんだ。斎藤真理子さん訳。筑摩書房、2018年12月10日初版。
あなたが悪い、何をしても悪い
主人公キム・ジヨンは33歳の女性。3年前に結婚し、昨年、女児を出産。IT関連の中堅企業に勤める夫チョン・デヒョンとソウル郊外の大規模団地に暮らしている。これだけ読むと、ジヨンは特段の不自由も不幸もなく暮らしているように思える。
しかし2015年秋のある日、ジヨンに母親や、大学のサークルの先輩だった女性が「憑依」する。まるでその人たちが乗り移ったかのように振る舞いだしてしまい、ジヨンは精神科を受診することに。いったいジヨンに何が起きたのか?ここから、まるでカルテのように、ジヨンのあゆみを生まれの1982年から振り返っていく物語が始まる。
各章は幼少期の「1982〜1994」、中学から大学入学までの「1995〜2000」、大学から社会人にかけての「2001〜2011」、そして最近の「2012〜2015」と、ジヨンの人生の節目節目で区切られている。松田さんが「女性たちの絶望が詰まった」と語るのはまったく大げさではなく、すべての章において、ジヨンは様々な苦しみに直面する。そのどれもが、ジヨンが「女性であるというだけ」で発生する。
特に印象に残るのが、ジヨンが高校生で予備校に通っていた時の出来事。帰りのバス、見知らぬ男子生徒が「送ってほしそうだから」と付きまとってくる。やめてくれと言っても、停留所に降り立っても男子生徒は付いてくる。その言い分は、こうだ。
「あんた、いつも俺の前の席にいるじゃん。俺にプリントを渡すときも、すっげえニコニコしてんじゃん。毎日毎日、どうぞーとかって愛想いいくせに、何で痴漢扱いするんだ?」(p60)
ジヨンに身に覚えはない。当たり前に接していただけだ。結局、バスで不審さを感じてくれていた乗客の女性が、わざと「忘れ物よ」と言って駆け寄ってきてくれたおかげで、何も起こらずに済んだ。
しかし、恐ろしい体験をしたジヨンはその後、父親に激しい叱責を受ける。
だがキム・ジヨン氏はその日、父にひどく叱られた。何でそんな遠くの予備校に行くんだ、何で誰とでも口をきくんだ、何でスカートがそんなに短いんだ……。そんなふうに育てられてきたのだった。気をつけろ、服装をきちんとしろ、立ち居振る舞いを正せ、危ない道、危ない時間、危ない人はちゃんと見分けて避けなさいと。気づかずに避けられなかったら、それは本人が悪いんだと。(p61-62)
父親はジヨンに「お前が悪いんだ」と叱る。見知らぬ男子生徒という危険を「招いた」のは、ジヨンの態度、スカートの長さ、危険を見分けてちゃんと避けなかったからだと。
果たして、この出来事の男女が逆だったらどうだろう?見知らぬ女性に付きまとわれた男性が、ジヨンと同じように叱責されるだろうか。男性がスタイリッシュな服装をしていることが危険を招くと怒られるだろうか。異性に魅力的な男性は夜道を歩くなだなんて言われるだろうか。
何より、なぜ怖い目にあったジヨンに、優しい言葉は注がれないのだろうか。怖かったね、大変だったね。悪いのはその男で、君は悪くない。父親の口からまっさきに、そんな言葉が出てこないのはなぜだろう。それはただ、ジヨンが女性だからだ。
「男性が失うものはなんなの?」
ジヨンの人生はこんなことの連続だ。女性であるだけで、苦労を強いられる。そして男性の側はその不公正に無自覚だ。たとえ父親であっても、夫であっても。
はっとさせられたシーンがある。夫のチョン・デヒョンと子どもを設けようという話になったときだ。デヒョンは「君が会社を辞めることになっても心配しないで。僕が責任を持つ」と語る。早く子どもを持とうよ、と。ジヨンはこう言い返す。
「それで、あなたが失うものは何なの?」
「え?」
「失うもののことばかり考えるなって言うけど、私は今の若さも、健康も、職場や同僚や友だちっていうネットワークも、今までの計画も、未来も、全部失うかもしれないんだよ。だから失うもののことばっかり考えちゃうんだよ。だけど、あなたは何を失うの?」
「僕は、僕も……僕だって同じじゃいられないよ。何ていったって家に早く帰らなくちゃいけないから、友だちともあんまり会えなくなるし。接待や残業も気軽にはできないし。働いて帰ってきてから家事を手伝ったら疲れるだろうし、それに、君と、赤ちゃんを……つまり家長として……そうだ、扶養! 扶養責任がすごく大きくなるし」(p129)
膝から崩れ落ちそうな気持ちになった。男性の「無理解」とはこのことか。そして、無理解は自分の中にもありそうだ、と。
ジヨンは、出産によって自分がどれほどのものを失うかを自覚している。出産はそもそも、命のリスクもある事象。若さも健康も、出産前と同じではいられない。「仕事を辞めてもいい」と夫は簡単に言う。でも仕事を辞めるとは、職場、仲間、描いていたキャリア、何もかもに変更が求められる。だからジヨンは「全部失うかもしれない」んだし、これに対して夫のデヒョンに「あなたは何を失うの?」と問い掛ける。
デヒョンは必死に、「失うもの」を思い浮かべる。それは「友だちとあんまり会えない」「接待や残業が気軽にできない」「家事を手伝ったら疲れる」。そう、デヒョンは何も失わないのである。あくまで日常にちょっと負荷が「増える」だけ。デヒョンの言う「同じではいられない」ことと、ジヨンの「失うこと」の間にはとんでもない開きがあるのに、デヒョンは想像さえしなかったように思える。
男性と女性のハンディキャップが、まるで裂け目のように顕在化する。男性がもっとも恵まれているのは「自分が優位であることを意識しなくていい」ことかもしれない。自分が何も失わず、女性に失わさせてばかりいることを、ジヨンに問い掛けられなければ気付かないまま、日々を過ごしていけることかもしれない。
男性もまた縛られてはいないか?
女性が抑圧されている。それもごくナチュラルに。それによって生きづらくなるのは、何も女性だけではないような気もする。
ジヨンが大学時代、サークルの合宿に参加した時のこと。布団部屋で寝いるジヨンに気付かず、先輩後輩の話し声がする。「キム・ジヨンはもうあいつと完全に別れたみたいだな」。男同士、誰が気になるとか誰が好きとか、そんなことを語り合う時間。ある先輩が「前から気になってたんだろ」「手助けしてやるよ」とはやし立てる。すると、先輩はこう言い返す。
「要らないよ。人が噛んで捨てたガムなんか」(p85)
ジヨンは衝撃を受ける。
(中略)品行方正で身なりもきちんとしていて、キム・ジヨン氏はいつも好感を持っていた人だ。まさか、まさかと思って耳をすましてみたが、やっぱりあの先輩の声に間違いない。酔っているのかもしれない。照れているのかもしれない。または、友だちがよけいなお世話をするのではと思って、わざと乱暴な言い方をしたのかも。可能性はいろいろあったかもしれないが、だからといってキム・ジヨン氏のすさまじく傷ついた心は癒されなかった。(p86)
ジヨンが心の中で語る通り、「噛んで捨てたガム」なんて決して言ってはいけない言葉だ。たとえ本人が聞いているとは分からなかったとして、照れたり酔ったりいろんな可能性があるとしても、こんなに人を傷つける言葉はない。
一方で、こうも思う。先輩は「男同士」の輪の中で、あのセリフを「言わされてる」のではないか、と。女性を思うがままに扱うのが「男らしい」という空気の中で、最大限に女性の尊厳をないがしろにする言葉が「待たれていた」のではないか。
こう考えれば、先輩もまた抑圧されていると想像できなくもない。本当にジヨンのことを好きであれば、魂の奥底から「噛んで捨てたガム」と言いたいわけではないだろう。かといって男同士の空気を無視してまで、言葉の選択もできないとしたら。男性が女性を支配する社会に、男性である先輩もまた縛られているのではないか。
女性が自由でない限り、本当の意味で男性も自由ではない。きっとそうなんだと思う。
今回紹介した本は、こちらです。
男性が女性を支配することを良しとすることが社会のあらゆる局面で合意されていることを、レベッカ・ソルニットさんは「レイプカルチャー」だと糾弾します。著書「説教したがる男たち」はその構造を喝破していて、「82年生まれ、キム・ジヨン」の問題意識をさらに広げてくれると思います。
韓国の作家さんの作品は、不思議と日本社会にも多くを語りかけてくるように思います。チョン・セランさんの連作短編集「フィフティ・ピープル」も、とっても胸に響く物語で、オススメです。